第三章 親友は信者だった
その日の放課後、梓は私の机へ一冊の分厚いノートを置いた。
「何、これ」
「監視に必要な基礎資料」
「嫌な予感しかしない」
表紙には、丸みのある字で『宮本莉々香様 校内活動記録』と書かれていた。右下には小さく『江口梓編』とある。
「編、って何。ほかにもあるの」
「文香先輩編とか」
「はい、会長の名前が出た」
「言ってない」
「いま言ったでしょ」
梓はノートを開き、私の前へ押し出した。
一ページ目は簡単な経歴。放送部への入部時期。最初に担当した昼放送の日。体育祭で場内放送を担当した回数。文化祭の特別番組で読んだ原稿の題名。
二ページ目からは、写真が増える。
体育祭でマイクを持つ莉々香先輩。文化祭の受付に立つ莉々香先輩。中庭で同級生と話している横顔。放送室へ向かう後ろ姿。
「この写真、本人に見せたことは?」
「ない」
「許可は」
「学校行事で撮影したものだけだよ。教室や私生活は撮ってない」
「最低限の理性は残っているのね」
「信仰にも作法はあるから」
「その表現をやめて」
ページの余白には、撮影した日時と状況が細かく記されていた。写真部でも新聞部でもないのに、どうしてここまで揃えられるのか。
「梓は、いつから宮本先輩のファンなの」
「入学式の日」
「まだ放送も聞いてないでしょ」
「新入生を案内する係で、昇降口にいたの。迷ってた子へ校舎の場所を教えて、それから『緊張してる顔もかわいいけど、笑った方がもっと似合うよ』って」
「梓が言われたの?」
「違う。前にいた子」
「自分が言われたわけでもないのに」
「あの瞬間、決まった」
「何が」
「この学校での私の生き方」
「もっと自分のために生きて」
ノートを閉じると、梓は不満そうに頬を膨らませた。
「監視するなら知っておいた方がいいよ」
「どうして」
「真白は莉々香様を、問題を起こす上級生としてしか見てないから」
「実際、問題は起きてる」
「莉々香様が起こしたんじゃない。周りが勝手に騒いでるだけ」
「きっかけを作った責任はある」
「褒められたくらいで喧嘩する方が悪いよ」
「言葉の受け取り方は人によって違うでしょ」
「だったら、勝手に告白へ変えるのも受け取った側の責任じゃない?」
梓の声から、いつもの軽さが消えていた。
私はノートへ置いていた手を引く。
「梓は、宮本先輩が悪者にされるのが嫌なんだね」
「当たり前でしょ」
「私も悪者にするつもりはない。だから、本人へ確認したの」
「説教してたけど」
「盗み聞きしてたから知ってるんでしょ」
「……ごめん」
「反省するところはそこだけ?」
「莉々香様を泣かせたら、親友でも許さないから」
「泣かせない」
「傷つけても」
「傷つけるために注意してるんじゃない」
梓は私の顔をしばらく見つめたあと、少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、貸してあげる」
「このノートはいらない」
「必要」
「持っているところを見られたくない」
「監視資料って書けばいいよ」
「表紙に大きく活動記録って書いてある」
「上から紙を貼る?」
「中身がもっとだめ」
押しつけ合っているうちに、教室へ残っていた数人がこちらを見始めた。
結局、私はノートを鞄へ入れた。誤解を解くためだったのに、梓は満足そうに笑っている。
「ようこそ、こちら側へ」
「違う」
「最初はみんなそう言うよ」
「梓と一緒にしないで」
翌週から、私の日課に特別教室棟の巡回が加わった。
毎日莉々香先輩へ会いに行く必要はない。そう説明されたはずなのに、問題はほとんど毎日のように発生した。
月曜日。放送室前へリクエスト用紙を出しに来た生徒が七人集まり、廊下を塞いだ。
火曜日。莉々香先輩が昇降口で一年生の新しい靴を褒め、見ていたファンクラブ会員がメーカーと色の記録を試みる。
水曜日。図書室の貸出カードから、莉々香先輩が借りた本を調べようとした生徒が司書教諭に捕まる。
木曜日。何も起きない。
金曜日。何も起きなかったことを梓が「静けさまで尊い」と表現し、私と口論になった。
「真白ちゃん、最近よく会うね」
放課後の階段で莉々香先輩とすれ違うと、いつもの笑顔を向けられた。
「問題が頻発しているからです」
「今週は、私が何かした?」
「宮本先輩ではなく、ファンクラブの会員が図書室で」
「私の借りた本、知りたかったの?」
「楽しそうに言わないでください」
「貸してあげたのに」
「そういう問題ではありません」
「真白ちゃん、それよく言うね」
「宮本先輩が、そういう問題ではないことばかり言うからです」
先輩は手すりに指を添え、二段上から私を見下ろした。
「大変?」
「大変です」
「やめたい?」
「問題が落ち着けば、やめられます」
「そっか」
なぜか少しだけ残念そうに聞こえた。
その理由を尋ねる前に、階下から莉々香先輩を呼ぶ声がする。彼女は振り返り、そこにいた一年生へ手を振った。
「ごめん、待った?」
「い、いえ!」
「今日のリボン、春っぽくていいね。似合ってる」
一年生の顔が一瞬で赤くなった。
私は額へ手を当てる。
「宮本先輩」
「褒めただけだよ」
「分かっています。分かっていますけど」
「けど?」
「もう少し、言い方を」
「似合ってないと言えばいい?」
「そうではなくて」
何と言えば正解なのか、私にも分からない。
かわいいと思っても、口にしてはいけない。似合っていると思っても、伝えてはいけない。それでは莉々香先輩の言葉を奪うだけだ。
黙り込んだ私を見て、先輩はわずかに首を傾けた。
「真白ちゃんも、髪留め変えた?」
「変えていません」
「じゃあ、いつも似合ってるんだね」
「宮本先輩!」
先輩は笑いながら階段を降りていった。
その後ろを、リボンの一年生が夢でも見ているような顔でついていく。
私は二人を呼び止めようとして、やめた。
ただ褒めただけ。本当に、それだけなのだ。
だからこそ、どう止めればよいのか分からなかった。




