第三巻 第十七章 放送部を辞めます
噂への対策は、目立たない形で始まった。
先生方は教室や部活動で、選挙後の候補者を面白半分に扱わないよう注意した。匿名掲示板には、個人を特定できる憶測を投稿しないよう学校名義の通知が出た。
南の記事は、両候補の公約を同じ大きさで紹介した。
『勝者の提案だけが、選挙の成果ではない。二百四十三票が支持した学校像も、次の生徒会へ残る』
よい記事だった。
西村さんは、読んだのか分からない。
選挙から三日後。
西村さんは昼食へ来なかった。
「放送部の打ち合わせ?」
梓が尋ねる。
「今日は宮本先輩の単独担当」
「じゃあ、どこ」
「一人にしてほしいって言われた」
「いつまで?」
「分からない」
梓は箸を置いた。
「私、行ってくる」
「待って」
「真白は待つって言ったんでしょう。私は言ってない」
「梓」
「一人にしてって言われたのは、真白でしょう」
正しい。
でも、追い詰めることになるかもしれない。
「何も聞かない。ただ、弁当を渡す」
梓は二段の弁当箱を持ち上げた。
「二人分?」
「今日は、唐揚げを作ったから」
「自分で?」
「お母さんと」
「西村さんのために」
「交換してくれないと、私の卵焼きだけ減るから」
「素直じゃないね」
「真白に言われたくない」
梓は教室を出た。
二十分後、弁当箱を持ったまま戻ってきた。
「いなかった」
「教室にも?」
「保健室にも、図書室にも。鞄はある」
「屋上前は」
「見た」
「放送室」
「莉々香様しかいなかった」
「探さないでほしいってことかも」
「でも、ご飯」
「机に置いておこう」
「冷める」
「唐揚げは冷めてもおいしいでしょ」
「そういう問題じゃない」
梓の声が震えた。
「私、何かした?」
「してない」
「選挙で、無理に本気にさせたから?」
「違う」
「負けるために出たままなら、こんなに傷つかなかった?」
「それでも、西村さんは後悔したと思う」
「分からないでしょう」
「分からない。でも、梓が悪いとは思わない」
「会長みたいな言い方」
「次期会長だから」
少し笑ってほしくて言った。
梓は笑わなかった。
「今は、真白のそういうところ、嫌い」
「うん」
「否定して」
「無理に笑わせようとした。ごめん」
「謝らないで」
「難しいね」
「うん」
二人とも黙り込む。
予鈴が鳴る直前、西村さんが隣の教室へ戻ってきた。私と梓は廊下へ出た。
どこにいたのか聞かなかった。
梓は弁当箱を差し出した。
「唐揚げ」
「今日は、食欲がありません」
「一つだけ」
「いりません」
「冷めてもおいしいから」
「いらないと言っています」
強い声だった。
梓の手が止まる。
「……分かった」
弁当箱を引く。
西村さんは何も言わず、席へ座った。
午後の授業中、梓は私の方へ一度も振り返らなかった。
同じ日の放課後。
放送室では、西村千尋と宮本莉々香が向かい合っていた。
「千尋ちゃん、明日の放送、代わろうか」
莉々香が尋ねた。
「予定どおり担当します」
「でも、顔色」
「平気です」
「少し休んだほうが」
「平気だと言っています」
莉々香が黙る。
心配している人へ強く当たった自分を、千尋自身が一番責めている顔だった。
「原稿、始めます」
「うん」
翌日の練習用に、録音開始のランプが点く。
『皆さん、こんにちは。今日の昼の放送を始めます』
声は完璧だった。
いつもと同じ速さ、同じ高さ。
そうしていれば、誰にも中へ入られずに済む。千尋は、声だけをいつもの形に整えた。
録音を止めると、莉々香は何も聞かず、片付けを始めた。
千尋もヘッドホンを拭き、原稿を揃える。
「宮本先輩」
「何?」
「放送部を辞めます」
莉々香の手が止まった。
「どうして」
「続けられないからです」
「選挙の噂?」
「それだけではありません」
「私がいるから?」
千尋は答えなかった。
「先輩の声を聞くたびに、まだ好きだと思い知らされるので」
「千尋ちゃん」
「先輩が佐久間さんを好きだと知っているのに、諦められません」
「好きでいることは、私が止めることじゃないって」
「先輩には言われたくありません」
莉々香の顔が傷つく。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
言った直後、千尋は唇を噛んだ。
最近、この言葉ばかりだと思う。
誰かが謝る。自分が拒む。それでも誰も離れてくれない。
「退部届は、部長へ出します」
「今日じゃなくても」
「今日、決めました」
「一週間だけ待って」
「なぜ」
「今日の千尋ちゃんが、一人で決めたことだから」
「私のことです」
「うん。でも、明日の千尋ちゃんにも、決める権利がある」
会長選で千尋が掲げた公約。
途中からでも、選び直せる。
「一週間後も辞めたいなら、止めない」
「先輩に止める権利はありません」
「放送部の先輩として、お願いする権利はあるでしょう」
莉々香は退かなかった。
いつもなら、相手が嫌がれば追わない人だ。それを知っている千尋には、今日だけ退かないことの意味が分かってしまった。
「一週間だけ」
「……分かりました」
千尋は鞄を持つ。
「明日の担当は」
「来ます」
「うん」
扉を出る前、振り返った。
「宮本先輩」
「何?」
「こういうところが、嫌いです」
「うん」
「好きだから、嫌いです」
「うん」
「返事をしないでください」
「分かった」
千尋は放送室を出た。
扉が閉まる直前、莉々香が机へ手をつくのが見えた。
追いかけてくる足音はしなかった。それに安堵した自分を、千尋は少しだけ嫌った。
その日の夕方。
宮本先輩から一週間の約束を聞いた私は、すぐに西村さんへ連絡しようとした。
「やめて」
先輩が止める。
「退部するんですよ」
「一週間待つって約束した」
「私とは約束していません」
「真白ちゃん」
「放送部を辞めたら、居場所が一つ減ります」
「それを決めるのは、千尋ちゃんだよ」
「分かっています!」
声を荒らげた。
先輩は目を逸らさない。
「分かってるなら、待とう」
「また、待つんですか」
「うん」
「待っているあいだに、いなくなったら」
「怖いね」
「先輩は、平気なんですか」
「平気じゃない」
先輩の声も震えている。
「追いかけたい。残ってって言いたい。放送部を辞めないで、私を好きなままでいいから、そばにいてって」
「なら」
「でも、それは私が寂しいから」
私は黙った。
「千尋ちゃんは、今、みんなの期待を背負えないって苦しんでる。そこへ私の寂しさまで乗せたくない」
「では、何ができますか」
「ここにいる」
「それだけ?」
「それだけしか、できない時もある」
無力だった。
生徒会長に選ばれたのに、友人一人を笑わせることもできない。
「真白ちゃん」
「何ですか」
「会長なら、全部できると思ってる?」
「思っていません」
「真白ちゃん一人で、全員を救えると思ってる?」
「思っていません」
「顔に、そうしないといけないって書いてある」
先輩が、私の頬へ触れかける。
途中で止まり、許可を待つ。
私は目を閉じた。
指先がそっと触れた。
「私もいる。梓ちゃんも、ひよりちゃんも、高橋さんも、文香も、南ちゃんも。千尋ちゃんのお父さんもいる」
「はい」
「真白ちゃんだけが、正しい答えを見つけなくていい」
「はい」
「今は、そばにいて」
「誰の」
「私の」
先輩の指へ、自分の手を重ねる。
「それは、先輩のわがままですか」
「うん」
「分かりました」
生徒会室へ戻るまで、私たちは手を繋いでいた。
廊下に誰かがいれば離し、二人になるとまた繋いだ。
会長には見つかった。
「……尊い」
「会長。今はそういう場面ではありません」
「すみません。反射です」
本当に申し訳なさそうだったので、それ以上は怒れなかった。




