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第三巻 第十五章 同じではない好き

 放送室の時計の長針が、また一つ進んだ。

 私は閉じたままの扉を見る。

 宮本先輩が佐久間さんと話していることは知っていた。何を話しているのかまでは知らない。

 私にも今日、聞かなければならない返事がある。

 だから、先に帰ることはできなかった。

 窓から差し込んでいた夕日は、待っているあいだにずいぶん低くなった。机の上では、使われていないマイクだけが細い光を返している。

 選挙には負けた。

 二百四十三票。

 悔しくないと言えば嘘になる。

 けれど、朝まで胸のどこかに残っていた「負ければ終われる」という気持ちは、もうなかった。

 佐久間さんに負けたから、この学校を去る。

 そんな理由には、もうできない。

 秒針の音を数えるのにも飽きたころ、廊下の向こうから足音が聞こえた。

 今度は通り過ぎない。

 放送室の前で止まり、扉が開く。

「宮本先輩」

 呼ぶと、先輩が足を止めた。

「待ってたの?」

「はい」

 目元が少し赤い。

 頬にも、まだ熱が残っているように見えた。

 佐久間さんと何を話してきたのだろう。

 聞こうとは思わなかった。

 これから聞くべきなのは、その内容ではない。

 私への返事だ。

「選挙、お疲れさま」

「ありがとうございます」

「すごくよかった。演説も、梓ちゃんの応援も」

 慰めるような声ではなかった。

 惜しかったとも、大丈夫とも言わない。ただ、見たものをそのまま伝えてくれる。

 私は膝の上で指を組み直した。

「負けました」

「うん」

 それだけだった。

 今は、その短さがありがたい。

「悔しい?」

「はい」

「そっか」

「でも、立候補してよかったです」

 口にすると、思っていたより素直に言葉が出た。

「佐久間さんに負けたことも、今は逃げる理由にしません」

「よかった」

 先輩の口元がやわらかくほどける。

 それを見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 まだ好きだ。

 転校初日、初めて声をかけた時よりも。

 公開放送の日、隣で同じマイクへ向かった時よりも。

 知れば知るほど、簡単には終われなくなっている。

「父は、先に赴任先へ行きました」

「一人で?」

「はい。私は、こちらへ残ります」

「選挙、負けたのに?」

「はい」

 先輩が二度瞬きをする。

 目元がまた少し潤んだ。

「泣くんですか」

「泣いてない」

「皆さん、今日はよくそう言います」

「真白ちゃんも?」

「佐久間さんが泣いたかは知りません」

「そっか」

 返事をしながら、先輩の視線が一瞬だけ扉の向こうへ流れた。

 私はその横顔を見る。

「佐久間さんと、お話ししてきたのですか」

「うん」

「返事を?」

「どうして分かるの」

「顔に書いてあります」

「みんな、それ使うね」

「便利ですから」

 先輩が向かいの椅子を引いた。

 私も座り直す。

 机を挟んだ距離は、いつもの放送前の打ち合わせと同じ。それなのに、今日はやけに遠く感じた。

「千尋ちゃんにも、返事をしないといけないと思ってた」

「はい」

 来る。

 何度も想像した言葉なのに、身体だけが勝手に身構えた。

 膝の上で組んだ指へ力が入る。

「私は、千尋ちゃんが好き」

「友人として?」

「うん」

 即答だった。

 爪が掌へ食い込む。

 分かっていた。

 先輩が私を見る時と、佐久間さんを見る時。その違いくらい、ずっと前から気づいていた。

 期待しすぎないようにもしていた。

 それでも、本人の声で聞けば痛い。

「恋愛としては、返せない?」

「今は」

 息を一つ吸う。

 ここでやめれば、少しだけ楽になれるかもしれない。

 けれど、聞かないまま帰るほうが、きっと後悔する。

「佐久間さんには?」

 先輩はすぐには答えなかった。

 膝の上で指を重ね、ほどく。

 それから、私を見る。

「たぶん、恋愛として好き」

「そうですか」

 さっきまで、この答えを先輩自身も決めきれていなかったのかもしれない。

 佐久間さんと何を話したのかは知らない。

 それ以上は聞かなかった。

 今、私が聞くべきなのは、私へ向けられた言葉だけだ。

「ごめん」

「謝らないでください」

 声は震えなかった。

 それだけは、自分でも少し意外だった。

「でも、まだ恋人にはなってない」

「聞いていません」

「千尋ちゃんには、言わないとずるいと思って」

「そうですね」

 少しだけ意地悪に返すと、先輩が困ったように笑った。

 その顔まで好きだと思ってしまう。

 本当に、救いがない。

 けれど。

 好きになった相手が、私を選ばなかった。

 それだけで、今日まで好きだった気持ちまで間違いになるわけではない。

「私は、待ってもよいですか」

 先輩の目が大きくなる。

「卒業までに、佐久間さんへ返事をするのでしょう。その時まで、私も先輩を好きでいてよいですか」

「それは、私が決めることじゃないよ」

「嫌ではありませんか」

「嫌じゃない。でも、期待させたくない」

「期待は、自分で管理します」

「そんなこと、できる?」

「できないかもしれません」

 自分で言っておかしくなった。

 先輩も少し笑う。

 ほんの短い笑いだったけれど、張りつめていた胸の奥が少しだけ緩んだ。

「それでも、今すぐ終わりにはできません」

「うん」

「先輩を知るほど、好きになりました。佐久間さんを選びそうな先輩も含めて」

「変じゃない?」

「恋愛は、合理的ではありません」

「高橋さんが言いそう」

「先ほど、廊下で会いました。似たことを言っていました」

「高橋さんも?」

「秘密です」

「気になる」

「本人に聞いてください」

「教えてくれるかな」

「褒めなければ」

「難しいな」

 先輩の視線が、机の上のマイクへ落ちた。

 私も同じものを見る。

 選挙に負けても、ここは変わらない。

 明日の昼になれば、また放送がある。

 原稿を読み、時刻を確認し、音量を合わせる。赤いランプが点けば、私はまたマイクへ向かう。

 恋が叶わなくても、私がここで過ごした時間まで消えるわけではない。

「千尋ちゃん、残ってくれてありがとう」

「先輩のためだけではありません」

「分かってる」

「でも、先輩も理由の一つです」

「うん」

 その返事を聞いて、ようやく肩から力が抜けた。

「卒業まで、好きでいさせてください」

「うん」

「その後は、私が決めます」

「うん」

 同じ返事が三度続く。

 どれも約束ではない。

 それでも、拒絶にも聞こえなかった。

 今は、それで十分だった。

 椅子を引いて立ち上がる。

「明日の昼放送、私が担当します」

「選挙の次の日なのに?」

「だからです。落選しても、放送部員であることは変わりません」

「私も一緒に」

「お願いします」

 鞄を持ち、扉へ向かう。

「千尋ちゃん」

 取っ手へ伸ばした手を止めた。

「何でしょう」

「私、千尋ちゃんに会えてよかった」

 振り返れなかった。

 今、顔を見れば、さっきまで耐えていたものが全部ほどけてしまいそうだった。

「私もです」

 それだけ答えて、放送室を出る。

 扉が閉じる音が、いつもより大きく聞こえた。

 廊下を曲がったところで、梓が壁へ背を預けていた。

「聞いてたの?」

「聞いてない。待ってただけ」

「そうですか」

 梓は私の顔をじっと見る。

 何かを聞く代わりに、自分の肩を軽く叩いた。

「肩、いる?」

「今日は、泣いていません」

「知ってる」

「でも、少し」

 一歩近づいて、梓の肩へ額を預けた。

 制服越しの体温が額に伝わる。

「何秒?」

「数えないでください」

「分かった」

 梓は何も聞かなかった。

 慰める言葉も、次の恋を勧める言葉もない。

 ただ、私が自分から顔を上げるまで、そこに立っていてくれた。

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