第三巻 第十三章 負けた人の涙
投票は、学年ごとに教室で行われた。
候補者と応援演説者は、生徒会室で結果を待つ。
投票箱が運び込まれるたび、会長と選挙管理委員が封を確認する。
「候補者は、開票作業へ近づかないでください」
ひよりが私たちを窓際へ追いやった。
「分かってる」
「真白ちゃん、さっきから三回近づきました」
「無意識」
「西村さんは二回です」
「申し訳ありません」
私と西村さんは、顔を見合わせた。
「座りましょうか」
「そうだね」
長机の両端へ座る。
間には梓と宮本先輩がいた。
応援演説者同士なのに、なぜか候補者より緊張している。
「莉々香様」
「何?」
「真白を応援したことは、許しません」
「梓ちゃんも、千尋ちゃんを応援したでしょう」
「それとこれとは別です」
「便利だね、その言葉」
「莉々香様に言われたくありません」
「私もよく言われる」
先輩が私を見る。
「主に私が言っています」
「うん」
梓は膝の上で手を握り締めている。
「落ち着いてください」
西村さんが言う。
「千尋の選挙でしょう」
「江口さんが全力で応援してくださった選挙でもあります」
「だからって、候補者が落ち着いてるの、腹立つ」
「緊張しています」
「見えない」
「手を」
西村さんが自分の手を差し出す。
指先がわずかに震えていた。
「本当だ」
「確認できましたか」
「うん」
「では」
引こうとした手を、梓が掴んだ。
「開票が終わるまで」
「体調管理ですか」
「違う。私が握りたいの」
「そうですか」
西村さんは、手を預けた。
宮本先輩が小声で言う。
「あの二人、恋人みたい」
「違います」
私と梓の声が重なった。
「梓、こちらを見ていませんでしたね」
「聞こえたから」
「西村さんは否定しないんですか」
「今は選挙結果のほうが重要です」
「否定してください!」
梓の顔が赤くなる。
西村さんが少し笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
開票には四十分かかった。
無効票を一枚ずつ確認し、集計表が二度照合される。
会長が最終結果を受け取った。
その紙を見た瞬間も、表情を変えなかった。
「候補者と応援演説者の皆さん。結果を発表します」
全員が立つ。
私は自分の心臓の音を聞いていた。
「有効投票数、五百十二票」
会長が読み上げる。
「西村千尋候補、二百四十三票」
梓の手が、西村さんの手を強く握った。
「佐久間真白候補、二百六十九票」
二十六票差。
「以上により、次期生徒会長は、佐久間真白さんに決定しました」
言葉がすぐには頭へ入らなかった。
勝った。
私が、次の生徒会長になる。
「真白ちゃん」
宮本先輩が立ち上がる。
「おめでとう」
「ありがとう、ございます」
声が震えた。
先輩が抱きつこうとして、途中で止まる。
「抱きしめていい?」
聞いてくれた。
「……はい」
腕が背中へ回る。
温かい。
全校生徒の前ではない。今だけは、応援してくれた人の腕に甘えてもいいと思った。
「よかった」
先輩の声が耳元で震える。
「先輩、泣いていますか」
「泣いてない」
「肩が濡れています」
「真白ちゃんの汗」
「私は泣いていません」
「じゃあ、私かも」
「認めるんですね」
抱きしめられたまま、少し笑った。
その向こうで、梓が泣いていた。
声を上げず、次々に涙が落ちている。
「梓さん」
西村さんが呼ぶ。
「ごめん」
「なぜ謝るのですか」
「勝たせるって言ったのに」
「二百四十三人が、私を選んでくださいました」
「でも」
「江口さんがいなければ、私は負けるための候補者でした」
梓は首を振る。
「私は勝たせたかった」
「はい」
「本当に、千尋に会長になってほしかった」
「はい」
梓の肩が震える。
西村さんの目にも涙が浮かんでいた。
でも、泣かなかった。
「そんなに泣かれたら、私が泣けないじゃないですか」
西村さんが、梓を抱きしめた。
今度は十秒と言わなかった。
梓も両腕を回し、西村さんの肩へ顔を埋める。
「ごめん」
「だから、謝らないでください」
「悔しい」
「私もです」
「真白に負けた」
「はい」
「二十六票」
「数えなくても覚えています」
「もう一回やりたい」
「選挙は一度です」
「次の選挙」
「一年後ですよ」
「今度は絶対」
「その時は、佐久間さんが現職です」
「勝つ」
「私が立候補するとは言っていません」
「する」
「勝手に決めないでください」
泣きながら、いつもの言い合いをしている。
私は二人へ近づいた。
「西村さん」
梓が顔を上げる。
目も鼻も赤い。
「真白」
「お疲れさま」
西村さんが私を見る。
「おめでとうございます、佐久間さん」
「ありがとう」
「よい会長になってください」
「一人ではなれない」
「私に、公約を渡せと言うのですか」
「違う」
私は手を差し出した。
「友達として、これからも意見を聞かせて」
西村さんはその手を見る。
「選挙が終わっても?」
「終わったから」
「負けた候補者の意見を聞くのですか」
「二百四十三人が支持した候補者でしょ」
西村さんの唇が震えた。
「ずるいですね」
「今日、三人目です」
「何が」
「そう言われるのが」
「では、皆さん正しいのでは?」
「そうかも」
西村さんは私の手を握った。
「負けませんから」
「もう結果は」
「次です」
「一年後?」
「それも含めて」
握手を交わす。
その横で梓がまた泣き出した。
「梓、なぜ」
「二人が、ちゃんと友達で」
「選挙中も友人でした」
「分かってるけど」
「泣きすぎです」
「誰のせい」
「真白ですか?」
ひよりが箱から布巾を出そうとする。
「ひより、それは投票箱を拭くやつだよ」
「では、ハンカチを使います」
会長が自分のハンカチを差し出した。
梓が受け取る。
「ありがとうございます」
「返却は洗ってからで結構です」
「会長も、泣いてます?」
「私は泣いていません」
「さっきの演説では泣いていました」
「あれは照明が」
「体育館の照明で?」
「眩しかったのです」
最後まで認めないらしい。
結果は、放課後の校内放送で発表された。
読み上げたのは宮本先輩だった。
『次期生徒会長は、二年二組、佐久間真白さんに決定しました』
教室に拍手が起きる。
私は立って頭を下げた。
梓は自分の席で、まだ赤い目をこすりながら拍手していた。
「ありがとう」
「次は負けないから」
「梓が立候補するの?」
「千尋を勝たせる」
「本人の意思は」
「これから一年かけて説得する」
「長いですね」
「真白を引きずり下ろす計画」
「物騒な言い方をしないで」
周囲が笑う。
その中で、誰かが小さく言った。
「西村さん、やっぱり駄目だったね」
悪意のある声ではなかった。
ただの感想。
続いて、別の声。
「編入したばっかりだし、さすがに会長は早いよ」
西村さんの席は、今日は別の列だ。
聞こえていなければいいと思った。
でも、放課後に教室を出る彼女の背中は、少しだけ硬かった。




