第三巻 第十二章 二つの応援演説
投票日の朝、空は高く晴れていた。
いつもより二十分早く着いた校舎は、まだ人の気配が薄い。昇降口に響くのは、靴箱の扉が閉じる音と、上履きが床を擦る音くらいだった。
「真白」
呼ばれて振り向く。
梓が靴箱の脇に立っていた。今日は西村候補の腕章をつけていない。代わりに、何度も折り直したらしい原稿を胸へ抱えている。
「早いね」
「眠れなかった」
「私も」
「原稿、覚えたけど、飛んだらどうしよう」
「梓が緊張するなんて珍しい」
「千尋を勝たせるって言ったから」
「うん」
「真白に負けてほしくないけど」
「うん」
「でも、手加減はしない」
「知ってる」
梓は原稿の角を親指でなぞった。
「昨日、最後まで書き直した」
「何回?」
「数えてない」
「それなら大丈夫」
「根拠は?」
「梓は、撮る前にも同じくらい迷うから」
「写真と演説は違うよ」
「でも、見せたいものを決めるのは同じでしょ」
梓が少しだけ笑った。
「真白、私の演説を聞いて怒らない?」
「私の悪口を言うの?」
「言わない。千尋を推薦する話だけ」
「なら怒らない」
「千尋に入れたくなるかも」
「それなら、応援演説として成功でしょ」
「本当に?」
「私は、相手に票が入らない選挙で勝ちたいわけじゃない」
梓の肩から、わずかに力が抜ける。
「真白、ずるい」
「昨日も言われた」
「誰に」
「西村さん」
「仲いいね」
「友達だから」
「対立候補でも?」
「それとこれとは別、でしょ」
「私の台詞」
二人で笑った。
廊下の奥から足音が近づいてくる。
西村さんだった。
「江口さん。探しました」
「ごめん。真白と会って」
「候補者同士の密談ですか」
「親友同士の会話」
私が答えると、西村さんは一度だけ瞬いた。
「そうですか」
「西村さん」
「はい」
「今日は、本気で勝ちたい?」
「はい」
迷いはなかった。
告示の日には、言葉の奥に逃げ道が残っていた。今はない。まっすぐ私を見返している。
「私も」
「負けません」
「私も」
「二人とも、朝から怖い」
梓が私たちの間へ手を差し入れた。
「千尋、発声練習するよ」
「はい」
「真白も、莉々香様に五分を守らせて」
「私の仕事なの?」
「応援演説者の体調と時間の管理」
「その言葉、まだ使うんだ」
「便利だから」
「西村さんの影響?」
「逆。千尋が私の影響を受けてるの」
「どちらでもいいです。江口さん、行きましょう」
「はいはい」
二人が並んで歩き出す。
「真白」
梓が振り返った。
「何?」
「体育館で」
「うん」
それだけで十分だった。
三人で別れ、私は教室へ向かう。
階段の手すりは冷たい。指先に触れた温度だけが妙にはっきりしていた。
緊張していないわけではない。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
投票前の立会演説会は、体育館で行われた。
全校生徒の上履きが床を擦る音が、高い天井へ重なっていく。舞台中央には演台が一つ。左右に候補者席が置かれ、私は宮本先輩と、西村さんは梓と並んで座った。
会長は選挙管理委員長の隣。千夏先輩は三年生の列を整え、ひよりは投票用紙を確認している。記録席では南が手帳を開いていた。
「緊張してる?」
宮本先輩が、前を向いたまま小声で聞く。
「はい」
「手」
「握りません」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
「じゃあ、小指だけ」
「全校生徒の前です」
「机の下なら」
「駄目です」
「終わったら?」
「考えます」
「約束?」
「考えるだけです」
先輩の肩が揺れた。
「何がおかしいんですか」
「真白ちゃん、前なら『駄目です』で終わってた」
「選挙前に分析しないでください」
「はい」
返事だけは素直だった。
順番は抽選で、西村候補が先。私が後。
選挙管理委員が、最初の応援演説者の名前を読み上げる。
「西村千尋候補、応援演説。二年二組、江口梓さん」
梓が立った。
原稿を手にしているのに、一行目を見ることなく演台へ向かう。
体育館の中央で足を止め、全校生徒を見渡した。
カメラを構える時と同じ目だった。
見たいものから、目を逸らさない目。
「西村千尋候補の応援演説を務めます、二年二組の江口梓です」
一礼してから、梓は続けた。
「最初に、一つだけお話ししておきます。私は、対立候補である佐久間真白さんの親友です」
体育館に小さなどよめきが広がった。
私の名前が出ることは聞いていなかった。
梓は、こちらを見ない。
「中学からずっと一緒で、佐久間候補が真面目で、責任感があって、生徒会の仕事を誰より丁寧にしていることも知っています。それでも今日、私は西村候補の応援演説をしています」
一拍置く。
「理由は簡単です。西村候補にも、生徒会長を任せたいと思ったからです」
ざわめきが静まっていく。
「西村候補の公約は三つあります。転入生・新入生向けの相談制度。校内放送を使った生徒意見の募集。そして、途中からでも居場所を選び直せる学校づくりです」
梓は原稿へ一度だけ目を落とした。
「三つ目は、最初に聞いた時、正直、分かりにくいと思いました。『居場所を選び直すって何』『部活を変えること』『クラスで友達と上手くいかない時は』『相談したら、生徒会が仲直りさせるの』。私は何度も質問しました」
前列の何人かが、梓を見る。
選挙期間中、同じ質問をした生徒もいるのだろう。
「西村候補は、全部に都合のいい答えを返したわけではありません。『人間関係は制度だけでは直せない』『生徒会が仲直りを命令することはできない』とはっきり言いました。その上で、部活を変えることを裏切りにしない手続きや、本人が話す範囲を自分で決められる相談方法を考えました」
西村さんが、膝の上で指を組み直す。
「私は、それが西村候補の強さだと思っています」
梓の声が、体育館の奥まで届く。
「できないことを、できるとは言わない。でも、できないで終わらせない。分からないことがあれば聞いて、答えが足りなければ考え直す。候補者討論会で匿名相談の問題を聞かれた時も、一人で判断しない仕組みや、返事を待たせない方法まで答えました」
梓は西村さんへ視線を向けた。
「西村候補は、この学校へ途中から来た生徒です。だからこそ、最初からここにいた私たちが『普通』だと思って見過ごしていることに気づけます。誰へ聞けばいいか分からない。途中から部活へ入りにくい。今いる場所が合わなくなっても、変えたら迷惑をかける気がする。そういう小さな困りごとを、本人の我慢だけで終わらせない人です」
梓の指が、原稿の端を強く押さえた。
「経験が少ない、と思う人もいると思います。実際、生徒会の実務経験では佐久間候補のほうが上です。私はそこを隠して西村候補を推薦するつもりはありません」
私の隣で、宮本先輩が小さく息を呑んだ。
「でも、会長は、最初から全部を知っている人でなくてもいいと私は思います。知らないことを認めて、知っている人に聞ける人。集まった声を、自分の好き嫌いではなく仕組みに変えられる人。その力なら、西村候補にはあります」
梓はもう原稿を見ていなかった。
「私は佐久間候補の親友です。だから、佐久間候補がよい候補者だと知っています。その上で、西村千尋候補にも一票を託す価値があると、本気で思っています」
最後に、まっすぐ前を見る。
「途中から来た人も、途中で失敗した人も、途中で考えが変わった人も、もう遅いと諦めなくていい学校へ。その仕事を西村千尋候補に任せたいです。どうか、皆さんの一票をお願いします」
深く頭を下げた。
一瞬、体育館が静まり返る。
次の瞬間、拍手が前列から後ろへ広がった。
私は手を叩いた。
一度、二度。掌が熱を持つほど強く。
梓が顔を上げる。
ようやく、こちらを見た。
目が合う。
私は拍手をやめなかった。
梓の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「真白ちゃん」
宮本先輩が横から覗き込む。
「大丈夫です」
「梓ちゃん、すごいね」
「はい」
敵陣へ戻っていく背中を見つめる。
「私の親友ですから」
そのことが、今はただ嬉しかった。
続いて、西村さんの名前が呼ばれた。
演台へ向かう途中、梓とすれ違う。言葉は交わさない。ただ、梓が胸の前で小さく拳を作り、西村さんも同じように返した。
西村さんが演台へ立つ。
「西村千尋です。江口さん、ありがとうございました」
梓へ頭を下げ、それから全校生徒へ向き直る。
「私は、立候補した時から今と同じ気持ちだった、と言うことはできません」
体育館が静かになる。
「告示の日の私は、当選したらこの学校に残ると決めていました。でも、勝つための準備をしていませんでした。公約を十分に説明せず、応援演説を頼む相手も決めず、選挙運動の計画もありませんでした」
梓が西村さんを見ている。
「それは、候補者として無責任でした。私を選ぶかもしれない皆さんにも、対立候補にも失礼でした」
自分の失敗を、自分の言葉で認める。
「江口さんに怒られ、選挙期間中に皆さんから質問を受け、佐久間候補と討論して、私は初めて、自分の公約を『当選したら考えること』ではなく、『会長になって実行する仕事』として考えました」
西村さんは原稿へ目を落とさない。
「会長になったら、まず転入生と新入生が、小さなことでも相談できる窓口を作ります。匿名で意見を出せる方法を用意し、対応が必要な相談は一人の役員だけで判断しません。相談を受け付けたまま放置しないよう、受付状況を返す仕組みも作ります」
討論会で話した内容だ。
今度は、全校生徒へ約束する言葉になっている。
「校内放送でも、生徒の意見を募集します。声の大きい人や、生徒会室まで来られる人だけの意見で学校を決めないためです」
体育館の後方まで視線を動かす。
「そして、部活や委員会、人間関係で、今いる場所が苦しくなった時に、途中から選び直せる仕組みを考えます。私は、生徒会が人間関係を解決できるとは言いません。誰かと仲直りすることを命令することもできません。でも、辞めたい、変えたい、やり直したいと言った人が、それだけで無責任だと決めつけられない手続きは作れます」
言葉が一つずつ、床へ落ちていく。
「私は編入生です。佐久間候補のような生徒会経験はありません。それは選挙が終わっても変わりません」
私を見る。
私も目を逸らさない。
「その代わり、知らないことを知っているふりはしません。分からなければ聞きます。間違えたら直します。今までこの学校にいなかったから見えた不便を、外から来た人だけの不便で終わらせず、誰にとっても使える仕組みにします」
西村さんは一度、息を吸った。
「立候補した時の私は、ここにいた証明が欲しかったのだと思います。でも、会長の仕事は、自分がいた証明を残すことではありません」
梓の目がわずかに揺れる。
「次に困る人が、今より少し困らなくて済むようにすること。そのために、私はこの学校へ残り、生徒会長として働きたいです」
声は大きくない。
それでも、体育館の一番後ろまで届いた。
「途中からでも、選び直せる学校を作ります。西村千尋に、一票をお願いします」
一礼する。
拍手は、最初から大きかった。
梓が一番先に手を叩いている。
私も拍手した。
負けたくない。
その気持ちは、演説を聞く前より強くなっていた。
同時に、この人と選挙をしてよかったと思った。
西村さんが席へ戻る。
梓が何か言いかける。
けれど、西村さんが首を横に振った。
梓も口を閉じる。
今は、それでいいのだろう。
言うべきことは、舞台の上で言い切った。
次に、宮本先輩の名前が呼ばれた。
「佐久間真白候補、応援演説。三年一組、宮本莉々香さん」
先輩が立ち上がり、私を見る。
「行ってくるね」
「はい」
「五分」
「覚えていたんですね」
「真白ちゃんが何回も言ったから」
「超えないでください」
「大丈夫」
「その返事が一番不安です」
「信じて」
先輩は笑って、演台へ向かった。
全校生徒の視線が、その背中を追う。
普段はスピーカーの向こうにいる人が、今日は姿ごと声になる。
演台へ置かれた原稿は一枚だけ。ボールペンで直接書かれ、何度か書き直した跡がある。
先輩はマイクの高さを合わせた。
「佐久間真白候補の応援演説を務めます、三年一組、宮本莉々香です」
いつもの昼放送より、少しだけ硬い声。
「普段は『真白ちゃん』と呼んでいますが、今日は候補者としてお話しします」
前の方から小さな笑いが起きる。
私の隣にいない先輩へ、心の中でだけ言う。
そのままでお願いします。
「私が佐久間候補を推薦する理由は、私がこの学校で、佐久間候補に一番注意されてきた生徒の一人だからです」
今度は、笑いが大きくなった。
やはり、その話から入るらしい。
「私の言葉をきっかけに、生徒同士が揉めたことがありました。私を応援する人たちの企画が、学校の決まりに触れたこともあります。私自身、よかれと思って言ったことが、相手を困らせたこともあります」
笑いが静まっていく。
「そういう時、佐久間候補は、私や誰か一人を『問題のある人』にして終わらせませんでした」
先輩の声が、落ち着く。
「駄目なことは、駄目だとはっきり言います。でも、そこで終わりません。なぜ駄目なのかを説明して、どうすればできるのかを一緒に考えます」
先輩は原稿へ目を落とした。
「たとえば、許可のない企画が持ち込まれた時。中止にするだけではなく、本人の同意、安全管理、写真や音源の扱いを確認して、実施できる形へ直しました。新聞の記事が個人の関係を勝手に推測した時も、新聞部そのものを止めるのではなく、どこからが取材で、どこからが相手の気持ちを勝手に決めることなのかを話しました」
体育館の後方で、南が少しだけ姿勢を正した。
「私が、自分の言葉で誰かを困らせた時も同じでした。『もう何も言わないで』ではなく、『相手を見て、言葉を選んで』と言われました」
胸の奥が、静かに締まる。
それは、二月から何度も繰り返してきたことだった。
「私は、会長に必要なのは、何でも許す優しさでも、何でも禁止できる強さでもないと思います」
先輩が顔を上げる。
「必要な時に『駄目』と言えて、その理由を説明できること。そして、『駄目』の向こう側に、できる方法がないか探せることです。佐久間候補は、それをもう、生徒会の仕事としてやってきました」
会場が静かだった。
誰も笑わない。
「佐久間候補の公約は、相談窓口を分かりやすくすること。部活動や委員会の申請を、相談しやすい手続きに変えること。生徒会の議事録を、今より広く公開することです」
一つずつ、先輩は指で数える。
「派手な公約ではないかもしれません。でも、私は全部、これまで佐久間候補がやってきたことの続きだと思っています」
私の公約を、私より簡単な言葉で説明している。
「困ってから誰へ行けばいいか分からない人を減らす。やりたいことがあるのに、申請が難しくて勝手に始めてしまう人を減らす。生徒会が何を決めたのか分からなくて、不信感だけが残ることを減らす。佐久間候補は、問題が起きた後に叱るためではなく、問題になる前に話せる生徒会へ変えようとしています」
そこで、先輩は一度言葉を止めた。
私を見る。
「それから、もう一つ。佐久間候補は、自分が正しいと思っている時でも、相手から違うと言われたら考え直せる人です」
候補者討論会のことが浮かんだ。
西村さんへ、私たちが残る理由にならないのかと迫った時。
善意なら踏み込んでよいわけではないと、私はそこでようやく気づいた。
「間違えない会長はいないと思います。だから私は、間違えた時に戻れる人を選びたいです。説明して、謝って、必要なら決めたことを変えられる人を」
壇上脇で、会長が眼鏡を外した。
目元を押さえている。
まだ演説は終わっていない。
「私は三年生なので、春には卒業します」
体育館の空気が、わずかに変わった。
「だから、来年度の生徒会が私にとって都合がいいかどうかで、佐久間候補を推薦するわけではありません。私はもう、この学校を離れる側です」
先輩の指が、原稿の端を押さえる。
「それでも、卒業した後の学校を任せたいと思える人がいることは、すごく安心します」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「今ここに残る皆さんが、困った時に話を聞いてもらえること。何かを始めたい時に、最初から諦めなくていいこと。生徒会が間違えた時に、理由も分からないまま押し切られないこと。そのために、私は佐久間真白候補を推薦します」
最後まで、私的な「好き」は出てこなかった。
そのことが、かえって胸へ響いた。
「佐久間候補なら、皆さんの声を聞きながら、必要な時には責任を引き受けて前へ出ます。どうか、佐久間真白候補へ一票をお願いします」
先輩は深く頭を下げた。
拍手が起こる。
大きく、長い拍手だった。
私はすぐには手を動かせなかった。
喉の奥に何かがつかえて、息を吸うのに一拍かかる。
それから、両手を合わせた。
壇上脇では、会長が完全に泣いている。
しかも、目の前に集音用のマイクがあることを忘れていたらしい。
「……立派になって……尊い」
小さな呟きが、体育館のスピーカーから流れた。
一拍遅れて、笑いが広がる。
「会長」
私が呼ぶ。
会長は眼鏡を掛け直した。
「何でしょう」
「今の、全部入っていました」
「何のことでしょう」
「『尊い』まで」
「選挙管理委員長として、応援演説の完成度を評価しただけです」
「その評価語は選挙管理に必要ありません」
「個人的感想が一部混入しました」
「全部個人的でした」
笑いがもう一度起きる。
宮本先輩も演台で笑っていた。
「文香」
「はい」
「原稿、見てくれてありがとう」
会長の表情が止まる。
「私が話してよかった?」
少しの間。
会長は、今度はマイクから顔を離して答えた。
「はい」
声は聞こえなかった。
でも、口の動きで分かった。
先輩はもう一度頭を下げ、席へ戻ってきた。
「お疲れさまでした」
「五分、超えてない?」
「四分四十七秒です」
「ちゃんと測ってたんだ」
「当然です」
「どうだった?」
すぐには答えられなかった。
「……あとで言います」
「怒ってる?」
「怒っていません」
「よかった」
先輩はそれ以上聞かなかった。
選挙管理委員が、私の名前を呼ぶ。
「佐久間真白候補、立会演説をお願いします」
立ち上がる。
演台までの距離は、昨日までと同じはずだった。
なのに、一歩ごとに、さっき聞いた言葉が背中へ積もる。
梓の演説。
西村さんの公約。
宮本先輩の推薦。
会長の、余計な一言。
演台へ原稿を置く。
紙の文字が、ほんの少しだけ滲んで見えた。
瞬きを一度して、顔を上げる。
「生徒会長候補、二年二組、佐久間真白です」
自分の名前を、自分の声で体育館へ届ける。
「最初に、宮本先輩。応援演説をありがとうございました」
席へ戻った先輩が笑う。
「そして江口さん、西村候補。よい演説でした」
梓が目を丸くし、西村さんは小さく頭を下げた。
「私は、生徒会の生活指導に関わる中で、規則は人を止めるためだけにあるものではないと学びました」
原稿の一行目から、ゆっくり読む。
「何かをしたい人が、問題を起こしてから注意される。その繰り返しでは、同じことがまた起きます。相談する場所が分からない。申請の方法が分からない。生徒会が何を基準に決めたのか分からない。分からないまま動いた結果、誰かが困ることがあります」
体育館を見渡す。
「だから私は、三つのことを実行します」
指を一本立てる。
「一つ目。相談窓口を明確にします。生活、部活動、委員会、学校行事。どこへ相談すればよいか分からない時に、最初の窓口になる場所を作ります」
二本目。
「二つ目。部活動や委員会、校内企画の申請を分かりやすくします。必要な確認を減らすのではありません。何を準備すればよいのかを最初から示し、正式な申請の前にも相談できるようにします」
三本目。
「三つ目。生徒会議事録の公開範囲を広げます。個人情報を除き、何を話し合い、なぜその結論になったのかを、生徒の皆さんが確認できるようにします」
紙から顔を上げる。
「私は、生徒会の実務経験があります。それは西村候補より、私が持っているものです」
西村さんを見る。
「でも、経験があることと、いつも正しいことは同じではありません」
候補者討論会で、自分の正しさを押しつけかけたことを思い出す。
「私は、相手のためだと思って、相手が何を望むかを先に決めそうになることがあります。問題を早く解決したくて、正しい説明を急ぎすぎることもあります」
体育館が静かだった。
「会長になれば、もっと大きな判断をすることになります。その時、一人で正しいふりはしません。役員へ相談します。必要なら先生方へ確認します。生徒の皆さんへ理由を説明します。そして、間違っていたら決定を変えます」
会長が、静かに頷いた。
「西村候補の公約には、私の公約にないものがあります」
少しざわめきが起こる。
「校内放送を使った意見募集や、転入生・新入生が相談しやすい仕組みは、私にも必要だと思います」
西村さんの表情が変わった。
「選挙は、相手のよい提案まで否定するためのものではありません。私が当選した場合も、西村候補本人の意見を聞いた上で、必要なものは次の生徒会で検討します」
一度、息を吸う。
「ただし、実施すると決めた時は、私の責任で行います。西村候補の名前を、都合よく借りることはしません」
西村さんが、今度ははっきり頷いた。
「私は、誰か一人を悪者にして終わる生徒会にも、誰か一人の善意に頼って動く生徒会にもしたくありません」
春からの出来事が浮かぶ。
宮本先輩。
梓。
ひより。
千夏先輩。
南。
会長。
西村さん。
問題を起こした人と、困った人が、いつも別々だったわけではない。
「困った時に相談できること。何かを始めたい時に、方法を一緒に探せること。生徒会の判断に納得できない時に、理由を確かめられること。その三つを当たり前にします」
原稿の最後の一行へ目を落とす。
昨日までは、少し大げさに見えた言葉。
今なら、自分の声で言える。
「誰かを置き去りにしない生徒会を作ります。佐久間真白に、一票をお願いします」
一礼する。
顔を上げるより先に、拍手が聞こえた。
大きさだけでは、どちらへ票が入るか分からない。
それでいい。
今日ここにいる全員が、二人の言葉を聞いた上で選ぶ。
そのための選挙だった。
席へ戻る。
宮本先輩が、何も言わずに机の下へ小指を差し出した。
私はその指を見る。
「全校生徒の前ですよ」
「机の下」
「さっきと同じですね」
「終わったら考えるって言った」
「考えました」
「結果は?」
自分の小指を絡める。
先輩の目が大きくなった。
「これです」
「真白ちゃん」
「応援演説、ありがとうございました」
「うん」
「ちゃんと、候補者の話でした」
「文香にいっぱい直されたから」
「会長が?」
「『ここは推薦理由ではなく感想です』『ここは候補者の私生活です』『ここはあなたが言いたいだけです』って」
「ほとんど削られていませんか」
「最初の原稿、三枚あった」
「一枚になっていますね」
「文香、厳しかった」
思わず笑いそうになる。
壇上脇の会長が、こちらを見た。
「聞こえています」
「会長、職務へ戻ってください」
「戻っています」
先輩が、絡めた小指を少しだけ引いた。
「真白ちゃん」
「何ですか」
「さっきの演説で、一個だけ言わなかったことがある」
「会長に削られた内容なら、今も聞きません」
「違う」
先輩の声が小さくなる。
「私が真白ちゃんを応援したい理由。候補者としての理由じゃない方」
心臓が一度、大きく鳴った。
「今は言わないでください」
「うん」
「選挙が終わってから」
「聞いてくれるの?」
「逃げないと決めました」
先輩の指に力が入る。
「今、答えを決めないでください」
「うん」
「選挙が終わってからです」
「うん」
私も指を離さなかった。
その時、選挙管理委員がマイクを取った。
『以上で、立会演説会を終了します。各学年は教室へ戻り、投票を行ってください』
全校生徒が立ち上がる。
椅子を引く音が、体育館いっぱいに広がった。
向かいの候補者席で、西村さんと目が合う。
西村さんが小さく頭を下げる。
私も返した。
もう、言い残したことはない。
あとは、一票ずつ選ばれるだけだった。




