第三巻 第十一章 勝ちたい候補者
西村さんは、翌日から選挙運動へ戻った。
何かが変わっていた。
演説の声が大きくなったわけではない。笑顔を増やしたわけでもない。
言葉が、未来へ向くようになった。
「当選した場合」ではなく、「会長になったら」と言う。
「できれば」ではなく、「実施します」と言う。
それは小さな違いだったが、聞く側には伝わった。
昼休みの演説へ集まる生徒が増え、質問も具体的になる。
「途中で部活を変えたら、前の部の人と気まずくなりませんか」
「気まずくなる場合はあります。制度だけでは解決できません」
西村さんは、できないことも正直に話す。
「でも、部を変えることを裏切りにしない手続きを作れます。顧問同士で理由を共有しすぎず、本人がどこまで話すかを選べるようにします」
「人間関係は?」
「相談してください。生徒会が仲直りを命令することはできませんが、話す場所は用意できます」
拍手が起きる。
梓は横で満足そうに頷いた。
「支持率、逆転したわ」
千夏先輩が私へ一枚の表を見せる。
「調査を続けていたんですか」
「個人的な関心」
「選挙へ影響するので、公表しないでください」
「しない。二年生は西村候補が四十八、佐久間候補が四十四。三年生は佐久間候補が優勢。一年生は未定が多い」
「細かいですね」
「ファンクラブ票が割れた」
「一つの票田のように言わないでください」
「江口さんの声明が効いている。宮本さんを応援することと、投票先は別だと」
「よいことです」
「負けるかもしれないのに?」
「私のために先輩を支持する人しかいないなら、会長になるべきではありません」
「強がり?」
「少し」
「正直ね」
千夏先輩は表を折った。
「では、候補者として聞く。あなたは西村さんに勝っているところを、何だと思う?」
「経験です。生徒会の実務と、先生方との調整を知っています」
「負けているところは」
「新しい制度を考える力。人に頼るのは苦手ですが、一人で集中して準備する能力も高いです」
「性格は」
「比べられません」
「恋愛では」
「選挙と関係ありません」
「宮本さんに選ばれる自信は?」
「高橋先輩」
「ごめんなさい」
珍しく、すぐ謝った。
「でも、会員の中では選挙と重ねる人もいる。会長選で勝ったほうが宮本さんにもふさわしい、と」
「止めてください」
「止めている」
「先輩本人へ伝われば、傷つきます」
「分かってる。宮本さんは賞品じゃない」
「西村さんも、私も」
「ええ」
千夏先輩は少し俯いた。
「理想像を作るのは、簡単なのよ。会長になった佐久間さんと、宮本さん。転校してきた西村さんと、宮本さん。並べて、どちらが綺麗か勝手に決める」
「会長が喜びそうな話ですね」
「長谷川さんは、決めないわ」
即答だった。
「あの人は、組み合わせに感情を乱されても、本人たちの答えを待てる」
「詳しいですね」
「古参同士だから」
「高橋先輩は、直接話したこともなかったのに?」
「会員番号は十番台よ」
「否定しなくなりましたね」
「春に全部ばれたから」
千夏先輩は小さく笑った。
「私も待つ。選挙と恋愛を混ぜない。会員にも、もう一度伝える」
「ありがとうございます」
「だから、あなたは選挙に集中して」
「はい」
「宮本さんの演説原稿は?」
「知りません。見せてもらえません」
「長谷川さんは?」
「確認済みですが、内容を教えてくれません」
「楽しみね」
「私は怖いです」
「恋愛の告白を始めるかもしれないから?」
「否定できません」
「それは、少し見たい」
「高橋先輩」
「公私を分ける」
「今のは私です」
「ごめんなさい」
先輩の謝罪が早くなっている。
選挙三日前、新聞部が候補者特集を出した。
見出しは、
『選ぶのは、恋の勝者ではなく学校の代表』
だった。
「珍しく、よい見出しです」
私が言うと、南は胸を張った。
「珍しくは余計」
記事は候補者二人の公約を同じ分量で紹介し、討論会の発言も公平に載せていた。
宮本先輩との関係には、最後の一段だけ触れている。
『両候補が同じ生徒へ親しい感情を抱いているという噂もある。しかし、それは投票の基準ではない。好意は候補者の資格でも、欠格事由でもない』
「親しい感情、とは」
「恋愛って書くと断定になるから」
「私については断定できません」
「まだ?」
「南」
「ごめん」
「でも、記事はありがとうございます」
「取材したから書いただけ」
「照れていますか」
「佐久間さんに褒められても、宮本先輩ほど効かない」
「比べないでください」
「冗談」
南は少し声を落とした。
「匿名掲示板、また書き込みが増えてる」
「どんな」
「西村さんは目立ちたがり。編入生なのに会長へ出るのはおかしい。宮本先輩へ近づくため、って」
「削除依頼は」
「先生に伝えた。でも、全部は消せない」
「西村さんは知っていますか」
「たぶん」
「記事で、否定できますか」
「できる。でも、噂を紹介すれば、知らない人にも広げる」
「そうですね」
「だから、今は公約を書く。西村さんが何を考えて立ってるか、読めば分かるように」
「お願いします」
「佐久間さん」
「何」
「勝っても、負けても、あの子を一人にしないで」
「もちろんです」
「その約束、忘れないでね」
「なぜ、そんなことを」
南は答えなかった。
ただ、記事の端を指で撫でた。
そこには、西村さんの写真が載っている。
梓が撮った一枚。
公開放送で、暗くなる直前の舞台に立つ横顔だった。
放課後、私は宮本先輩の演説練習に付き合おうとした。
「駄目」
放送室から追い出された。
「私の応援演説ですよ」
「本番まで秘密」
「時間を測ります」
「文香に測ってもらった」
「内容確認は」
「文香がした」
「会長は何と」
「途中で泣いてた」
「何を書いたんですか」
「秘密」
「削除するよう言われた箇所は」
「卵焼きと動物のしおり」
「本当に削ったんですね」
「代わりに別の話を増やした」
「不安です」
「信じて」
扉を半分閉めながら、先輩が言う。
「私、真白ちゃんが恥ずかしいと思うことは話さない」
「先輩の基準が信用できません」
「ひどい」
「過去の発言を振り返ってください」
「でも、嫌なことは話さない」
真剣な目だった。
「分かりました」
「ありがとう」
「五分です」
「五分」
「超えたらマイクが切られます」
「分かってる」
「本当に?」
「真白ちゃん」
「何ですか」
「そんなに心配してくれるところ、好き」
「それを演説へ入れないでください」
「今、入れたくなった」
「宮本先輩!」
扉が閉まる。
中から、先輩の笑い声が聞こえた。




