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第三巻 第十章 父が出ていく日

 討論会の翌日、西村さんは学校を休んだ。

 体調不良とだけ連絡があった。

 選挙運動も、昼の放送も休止。梓は朝から落ち着かず、休み時間ごとにスマートフォンを確認している。

「連絡は?」

「既読にならない」

「家へ行きますか」

「候補者の真白が?」

「友人として」

「昨日、言われたこと忘れたの?」

「好意で囲まないで、でしょう」

「今行ったら、みんなで学校に残れって追い詰めるだけだよ」

「でも」

「待とう」

 昨日、宮本先輩が言った言葉を、今度は梓が言う。

「千尋が話せるようになるまで」

「選挙運動は」

「今日休んだくらいで負けるなら、私の応援が足りない」

「強気ですね」

「真白には負けないから」

「私もです」

 口では戦いながら、二人とも同じ人を心配していた。


 昼休み、宮本先輩が教室へ来た。

「千尋ちゃん、いないんだね」

「体調不良です」

「連絡、返ってこない」

「先輩にも?」

「うん」

 声が沈む。

「家、知ってる?」

「以前、送付先を見ました。個人情報なので勝手には」

「私、放送部の連絡先で知ってる」

「行くつもりですか」

「迷ってる」

 先輩は私の机の前で、指先を握った。

「行ったら、困らせるかな」

「残ってほしいと言ってしまうと思いますか」

「言うと思う」

「では、今日はやめましょう」

「真白ちゃんも?」

「行きたいです」

「じゃあ」

「行きたいから、行かないんです」

 先輩は少し考え、頷いた。

「分かった」

「放送部からは、必要な連絡だけ送ってください」

「うん」

「返事を求めないで」

「うん」

「先輩、落ち込まないでください」

「落ち込んでないよ」

「顔に出ています」

「真白ちゃんも」

「私は候補者なので」

「便利だね」

「何が」

「候補者」

「今は逃げていません」

「知ってる」

 先輩は笑おうとして、うまく笑えなかった。


 その日の西村さんは、父親を駅まで見送りに行っていた。

 転勤先での着任準備があるため、予定より早く家を出ることになったらしい。

 それを知ったのは、二日後だった。


 西村千尋は、父の大きな鞄を一つ持った。

「いいよ。重いから」

「駅までです」

「学校は」

「今日は休みます」

「選挙期間だろう」

「父を見送るほうが大事です」

 父は、それ以上何も言わなかった。

 二人で駅までの道を歩く。

 子どもの頃から何度も引っ越してきたが、父を見送る側になるのは初めてだ。

 いつもは自分も荷物を持ち、同じ電車へ乗ってきた。

「伯母さんの家には、日曜に荷物を運ぶ」

「うん」

「寮へ入りたいなら、まだ変更できる」

「しばらくは伯母さんのところから通う」

「分かった」

「学校へは、残る」

 父が足を止めた。

「選挙に勝ったら、じゃなかったのか」

「そう決めたつもりだった」

「変わった?」

「分からない」

「千尋は、分からないことが増えたな」

 責める声ではなかった。

「前は、全部すぐ決めたのに」

「決めていたんじゃないよ」

 千尋は鞄の持ち手を握り直した。

「ほかに選べると思っていなかっただけ」

「そうか」

「お父さんについていくことも、嫌ではなかった」

「うん」

「でも、今回は残りたい」

「宮本さんがいるから?」

 父には、莉々香のことを話していた。

 恋愛の意味だとは、まだ言っていない。

「それだけじゃない」

「それならいい」

「一人のためでも、いいでしょう」

「もちろん。ただ、その人がいなくなった時、千尋までいなくなりたくならないか心配だった」

 父は千尋が考えていたことを、同じように心配していた。

「宮本先輩は、春に卒業する」

「うん」

「それでも、ここにいたいと思う」

「選挙に負けても?」

 答えられなかった。

 父は急かさない。

「負けたら、恥ずかしい」

「そうだな」

「編入して半年で、生徒会長へ立候補して。人気のある先輩へ告白して。何でも自分から欲しがって、結局、選ばれなかった人になる」

「誰にそう言われた?」

「まだ、誰にも」

「じゃあ、千尋が自分に言ってるだけだ」

「同じことを、誰かが言うかもしれない」

「言うかもな」

 父は優しい嘘をつかなかった。

「人は勝手なことを言う。お父さんも、仕事を変えるたびに言われた」

「仕事は変えてないでしょう」

「場所を変えるたびに、逃げたとか、出世したとか、左遷されたとか。全部言われた。どれも、お父さんの生活そのものじゃない」

「私の生活は、私にしか分からない?」

「それでも、自分でも間違えるけどな」

 千尋は少し笑った。

 ホームへ続く階段の前で、父は鞄を受け取った。

「選挙、勝ちたいか」

「分からない」

「また増えた」

「最初は、負けるつもりだった」

「どうして」

「佐久間さんに負けて、終わりにしようと思った。学校も、宮本先輩への恋も」

「終われそう?」

「江口さんが、応援演説をすると言った」

「友達?」

「信仰上の敵」

「何だ、それ」

「私にも、よく分からない」

 二人で笑った。

「江口さんが、勝たせると言ってくれた。佐久間さんも、本気で負けろと言った」

「じゃあ、勝ちたいんじゃないか」

「怖い」

「怖いのと、勝ちたいのは両立する」

「似たことを、江口さんも言った」

「お父さんより、いい友達の言葉を信じなさい」

 発車案内が鳴る。

「行くよ」

「うん」

「困ったら連絡して」

「お父さんも」

「毎日する」

「毎日は多い」

「じゃあ二日に一回」

「三日」

「間を取って二日」

「分かった」

 父は改札を通り、振り返った。

「千尋」

「何」

「残ってくれて、少し寂しい。少し嬉しい」

 千尋の目が熱くなる。

「私も」

「勝っても負けても、電話して」

「うん」

 父の姿が見えなくなるまで、千尋は改札前に立っていた。

 泣かなかった。

 泣けば、父が戻ってくる気がしたから。

 スマートフォンには、たくさんの通知が届いていた。

 梓からは一件だけ。

『今日は休んで。明日から、取り返すよ』

 莉々香から。

『放送は代わったよ。返事はいらないから、ちゃんと食べてね』

 真白からは、何もなかった。

 少し寂しいと思った直後、選挙管理の連絡アプリが鳴った。

『候補者討論会の議事録を送ります。訂正は明日の正午まで。今日は返信不要です』

 業務の連絡だけだった。

 その下に、個人のメッセージが一つ。

『戻ってきた時は、本気で戦います』

 千尋は画面を見て、息を吐いた。

『望むところです』

 そう返した。

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