第三巻 第六章 敵陣の親友
選挙運動初日の朝、私は校門前で自分の名前を呼ばれた。
「生徒会長候補、佐久間真白さんです。おはようございます」
宮本先輩が、私の隣で元気よく挨拶する。
「先輩。声が大きいです」
「放送部だから」
「近隣の迷惑にならない範囲で」
「真白ちゃん、選挙運動なのに小声でどうするの」
「普通の声で届きます」
「じゃあ、普通の声で。おはようございます」
通りかかった一年生三人が、先輩を見て一斉に足を止めた。
「宮本先輩だ」
「朝から」
「今日も綺麗」
「候補者を見てください」
私が言うと、三人は慌てて頭を下げた。
「佐久間先輩も応援しています!」
「ファンクラブを解散させないでください!」
「それは公約に入れていません」
「解散させるんですか」
「現在も公認された団体ではありません」
「そんな」
「だから言い方」
宮本先輩が私の袖を引く。
「でも、規則を守れば、好きでいるのは自由です」
三人の顔が明るくなった。
「投票します!」
「単純すぎませんか」
「真白ちゃん、今の笑えばいいところだよ」
「選挙中に虚偽の笑顔は見せません」
「自然に笑って」
「先輩が余計なことをしなければ」
「そういうところ、かわいいよね」
三人が小さく悲鳴を上げた。
「先輩。選挙運動中に候補者を口説かないでください」
「恋愛か分からないって言ったでしょう」
「余計に悪いです」
「じゃあ、真白ちゃんの真面目なところ、候補者として好き」
「言い直せていません」
少し離れたところで、会長が額を押さえていた。
選挙管理側の巡回として立っている。胸には『選挙管理』の腕章があるが、その下にファンクラブ会員証の紐が見えていた。
「会長。何を下げているんですか」
「身分証です」
「非公認団体の会員証です」
「間違えました」
会長が会員証をしまうと、選挙管理腕章の裏から桃色の付箋が一枚覗いた。
『宮本さん応援演説・五分厳守』と、妙に丁寧な字で書かれている。
「それも選挙管理資料ですか」
「時間管理です」
「端に星が三つ描いてあります」
「識別記号です」
「朝から浮かれていますね」
「宮本さんが、佐久間さんを公然と」
「それ以上は言わないでください」
「応援しているだけです」
「今、別の言葉を飲み込みました」
「気のせいです」
会長は会員証をポケットへしまった。
校門の反対側には、西村さんと梓がいた。
「生徒会長候補、西村千尋です。途中からこの学校へ来た私だから見えたことを、皆さんへお話しします」
西村さんの声は、朝の空気によく通る。
梓はその隣で、手製の小さな看板を持っていた。
『途中からでも、選び直せる学校へ』
西村さんの三つ目の公約を、分かりやすくした言葉だ。
「昨日まで抽象的だったのに」
私が呟くと、宮本先輩が向こうを見る。
「梓ちゃん、徹夜したって」
「先輩は、なぜ知っているんですか」
「昨日、応援用の写真を選びたいって連絡が来たから」
「選挙に先輩の写真を使わせないでください」
「使わないよ。千尋ちゃんの写真」
「西村さんの?」
「四月から撮ってた中から、真面目な顔、笑ってる顔、放送中の顔を」
「選挙掲示に写真は一枚だけです」
「候補を選んでるんだって」
梓が、西村さんを撮っていた。
私は知らなかった。
最初は天敵として、途中から友人として。
梓のカメラには、私が見ていない西村さんがいるのだろう。
「真白ちゃん」
「何ですか」
「寂しい?」
「少し」
「私がいるよ」
「応援演説者としてですか」
「それもあるけど」
先輩は笑った。
「真白ちゃんが寂しい時に、そばにいたい人として」
答えに困っていると、校門をくぐった生徒がこちらを見た。
「選挙運動を続けてください」
「はい」
先輩はまた私の名前を呼ぶ。
赤くなった顔を隠せないまま、私も朝の挨拶をした。
昼休み、最初の校内演説が中庭で行われた。
初日は西村さん。
梓が放送部から借りた簡易マイクを準備し、千夏先輩が勝手に聴衆の動線を整えている。
「高橋先輩。特定候補を応援してよいのですか」
「応援ではない。混雑防止」
「西村さん側の腕章をつけています」
「梓さんに渡されたから」
「断れたでしょう」
「サイズがちょうどよかった」
黒い腕章には『西村候補運営』と白い文字がある。
縫製まで綺麗だ。
「誰が作ったんですか」
「私」
「完全に参加しています」
「運営上の助言だけ」
「その言い訳、前から変わりませんね」
ひよりは選挙管理委員の補助として、聴衆から少し離れた位置に立っていた。
「高橋先輩、こちらの線より前へ出ないでください」
「分かっている」
「真白ちゃんもです」
「私は見学です」
「候補者同士の接触と誤解されるので、反対側から見てください」
ひよりが一番厳格だった。
「小田さん、立派になりましたね」
会長が感心する。
「会長も、宮本先輩の隣ではなく、管理席へお願いします」
「ここからでも全体は見えます」
「目線が舞台に固定されています」
「司会の放送部員を確認しています」
「宮本先輩ですね」
「放送部員です」
「会長、こちらへ」
「はい」
ひよりに連行されていく会長を見て、私は少し安心した。
次期会長になっても、ひよりがいれば何とかなるかもしれない。
西村さんが演台へ立つ。
「私は、今年の四月にこの学校へ編入しました」
中庭へ集まったのは五十人ほど。教室の窓から見ている生徒もいる。
「転校初日、校舎の場所も、授業の進み方も、部活動の決まりも知りませんでした。皆さんは親切でした。でも、誰に、どこまで尋ねてよいのか分からなかった」
落ち着いた声で、自分の経験を話す。
「相談制度と聞くと、深刻な悩みを持つ人のためのものに思えます。私は、もっと小さなことを聞ける場所を作りたい。昼食を一緒に食べる人がいない。部活を変えたいけれど、途中から入ってよいか分からない。友人と少し気まずくなった。そういう時、名前を書かずに相談できる窓口を設けます」
公約が、言葉になっている。
昨日まで一人で終わらせるつもりだった人とは思えない。
梓が舞台袖で、じっと西村さんを見ていた。
視線に気づいた西村さんが、少しだけ笑う。
「また、校内放送を使い、意見を募集します。声を上げることが得意な人だけで、学校を決めないためです」
そこで演説は終わった。
拍手が起こる。
私も拍手した。
「真白ちゃん」
宮本先輩が隣で驚く。
「よい演説でした」
「対立候補なのに?」
「対立候補だから、よいところを認めてはいけないのですか」
「ううん」
先輩が嬉しそうに笑った。
「そういうところが、真白ちゃんだね」
「褒めても票は増えません」
「私の一票は、もう決まってるよ」
「それでもです」
演説後、西村さんが私のところへ来た。
「聞いてくださったのですね」
「候補者として、相手の公約を知る必要があります」
「それだけですか」
「友人としても」
「ありがとうございます」
「昨日までの公約より、具体的でした」
「江口さんに、二時間ほど質問されました」
「二時間」
「『途中からって、いつから』『居場所って、教室だけ』『相談した後は誰が答えるの』と」
「梓が」
「はい。逃げると追ってきます」
「友人ですから」
「そうですね」
西村さんは梓のいる方向を見る。
「頼んで、よかったと思います」
「勝ちたいですか」
私は聞いた。
西村さんの目が戻る。
「今は、昨日より」
「明日は?」
「分かりません」
「選挙までに、本気になってください」
「命令ですか」
「対立候補からのお願いです」
「変ですね」
「知っています」
「佐久間さんも、明日の演説で手加減しないでください」
「しません」
「宮本先輩の人気だけで勝とうとしないで」
「そんなつもりはありません」
「では、安心しました」
西村さんは一礼し、梓の元へ戻る。
梓がすぐに何かを言い、二人で掲示物を確認し始めた。
選挙では敵だ。
それでも、その姿を見て安心する自分がいた。




