第三巻 第五章 負けるための立候補
告示翌日、候補者二名の公約が掲示された。
私の公約は三つ。
一、相談窓口の明確化。
二、部活動・委員会の申請手続き簡素化。
三、生徒会議事録の公開範囲拡大。
派手さはないが、今まで仕事をする中で必要だと感じたことだ。
西村さんの公約も三つだった。
一、転入生・新入生向け相談制度の設置。
二、校内放送を活用した生徒意見の募集。
三、途中からでも居場所を選び直せる学校づくり。
最後だけ、具体性が薄い。
けれど、彼女が何を考えて書いたのかは分かった。
「千尋らしいね」
梓は掲示板の前で言った。
「話せた?」
「逃げられた」
「西村さんが?」
「私を見ると放送室へ入る。部外者だから追えない」
「信仰はどうしたの」
「放送部の活動は神聖だから」
「便利だね」
「でも、分かったことはある」
梓は西村さんの公約を指した。
「あの子、勝つつもりがない」
「なぜ」
「公約の説明を誰にもしてない。推薦人を集めたのも締切直前。選挙運動の計画もなし。応援演説を頼む相手も決めてない」
「準備が間に合わなかっただけじゃない?」
「千尋だよ。あの子が、本気で会長になるつもりなら、こんな雑なことする?」
しない。
公開放送では、原稿の一文字、ケーブルの一本まで確認した。
「負けるために出たってこと?」
「たぶん」
「なぜ」
「知らない。でも、真白に負けて、それで何かを終わらせるつもりなんじゃない?」
終わらせる。
宮本先輩への恋。
この学校で過ごした時間。
残るかどうか迷う自分。
選挙に負ければ、父についていく理由ができる。
「それは、私に失礼」
「うん」
「西村さんを支持する人にも」
「うん」
梓は掲示板から目を離さない。
「だから、怒ってる」
「本人に言って」
「言うよ」
「私も」
「真白は駄目」
「どうして」
「対立候補だから」
さっき、私が迷ったことを、梓ははっきり言った。
「真白が千尋を説得したら、立候補を取り下げさせたように見える。選挙で勝ちたいからって」
「そんなつもりは」
「なくても、そう見える」
「じゃあ、放っておくの?」
「私が行く」
梓が鞄を持ち直した。
「友達として、怒ってくる」
「梓」
「何」
「西村さんを傷つけないで」
「真白は、私を何だと思ってるの」
「敬虔な信者」
「合ってるけど」
梓は少し笑った。
「真白の友達でもあるよ」
「知ってる」
「だから、真白にも失礼だって怒る」
その日の放課後、梓は西村さんを放送室から連れ出した。
私は立ち会わなかった。
後になって二人から聞いた話を繋げると、会話は屋上前の階段で始まったらしい。
「千尋、負けるつもりでしょう」
梓が言うと、西村さんは否定しなかった。
「真白に負けて、学校を辞める理由にするつもり?」
「そこまで単純ではありません」
「じゃあ説明して」
「できません」
「どうして」
「言えば、止めるでしょう」
「当たり前じゃん!」
梓の声が階段へ響いた。
「真白に失礼だよ。本気で立候補した真白に、わざと負ける相手を押しつけるの?」
「わざと票を減らすつもりはありません」
「応援演説も頼んでないのに?」
「一人で話します」
「なんで」
「私のことだからです」
「何でも一人でやるの、格好いいと思ってる?」
西村さんの目が揺れた。
「思っていません」
「じゃあ、人を頼ってよ」
「誰に」
「私」
「……どうしてですか」
「応援演説、私がやる」
今度は西村さんが言葉を失った。
「友達でしょ?」
「莉々香様のことでは、私たち敵じゃないですか」
「それとこれとは別。真白にも、ちゃんと本気で負けなよ」
「梓さん」
「手を抜かれて勝っても、真白は嬉しくないよ」
「江口さんは、私に負けてほしいのですか」
「違う」
梓は一歩近づいた。
「応援を引き受けたら、私は千尋を勝たせる」
「佐久間さんは、親友でしょう」
「親友だから、本気で戦うの」
「私が勝てば、佐久間さんは会長になれません」
「分かってる」
「宮本先輩は、佐久間さんを応援します」
「それも分かってる」
「ファンクラブの中で、私をよく思わない人もいます」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも」
梓は手を差し出した。
「私は勝たせるために演説するの。負けるための応援が欲しいなら、別の人を探して」
西村さんは、その手を見た。
「後悔しますよ」
「するかもね」
「佐久間さんに負けてほしくないでしょう」
「うん」
「矛盾しています」
「人の気持ちなんて、そんなものでしょう」
どこかで聞いたような言葉だった。
西村さんは、ゆっくり手を重ねた。
「お願いします」
「はい。候補者さん」
放課後、梓は生徒会室へ来た。
「真白」
「話せた?」
「うん。私、西村千尋候補の応援演説をします」
分かっていたつもりでも、胸が揺れた。
「そっか」
「怒った?」
「ううん」
「寂しい?」
「少し」
正直に答えると、梓が困った顔をした。
「ごめん」
「謝らないで。西村さんを一人にしなかったの、梓らしいと思う」
「でも、選挙では敵だよ」
「分かってる」
「真白のことも、全部話す。弱いところも」
「応援演説で対立候補の弱点を話さないで」
「千尋の強さと比べるため」
「やめて」
「冗談」
「梓の冗談、分かりにくい」
「莉々香様を見習った」
「悪い部分を見習わないで」
梓は笑い、それから真面目な顔になった。
「私が知ってる千尋を、ちゃんと話す。転校生だから可哀想とか、莉々香様を好きだから勇気があるとか、そういう話はしない」
「うん」
「千尋が考えた学校を、私は支持する」
「うん」
「真白も、本気で来て」
「当然」
「負けないから」
「私も」
握手はしなかった。
そんなことをしなくても、私たちが友達であることは変わらない。
ただ、翌日から梓は本当に容赦がなかった。
西村さんの公約を一晩で具体化し、昼休みの演説場所を押さえ、選挙管理委員会へ掲示物の申請を出した。
千夏先輩が表を見て呟いた。
「江口さん、運営の才能があるわ」
「引き抜かないでください」
「次の誕生祭で」
「次はありません」
会長は、梓が提出した計画書を見ながら目を細めた。
「よい選挙になりそうですね」
「他人事のように」
「私は選挙管理側です。特定候補を応援できません」
「昨夜、宮本先輩の演説原稿へ『ここ、尊い』と付箋を貼りましたよね」
「文章表現の評価です」
「感想です」
「赤字ではなく、桃色の付箋でした」
「色は関係ありません」
会長は平然としている。
「佐久間さん」
「何でしょう」
「親友が対立候補の側へ行くのは、怖いですか」
「はい」
「それでも、止めませんでしたね」
「梓が決めたことです」
「会長になった後も、忘れないでください」
「何を」
「自分と違う側に立つ人も、敵とは限らないことを」
会長の言葉は、いつも少し先の私へ向けられている。
「まだ、勝っていません」
「だから今、言いました」
選挙まで、あと十二日。
初めての対立候補は、私の友人。
その応援演説者は、私の親友。
そして私の応援演説者は、私がたぶん恋をしている先輩だった。
公平でいるには、あまりに個人的な選挙が始まった。




