第三巻 第四章 締切五分前の候補者
翌日の放課後、会長は放送部の片付けをしていた宮本先輩を訪ねた。
私は、その場にいなかった。
後から西村さんに聞いた話では、会長は長い理由を説明しなかったらしい。
「宮本さん」
「はい」
「佐久間さんの応援演説を、お願いしたいの」
宮本先輩は驚き、すぐに頷いた。
「はい」
それだけだった。
会長が一晩考えたことも、自分が話したほうが安全だと分かっていたことも、先輩は聞かなかった。
翌朝、会長から正式に伝えられた私は、何度も確認した。
「本当によいのですか」
「はい」
「会長が譲った形になるのでは」
「譲っていません。選びました」
会長は静かに言った。
「宮本さんは、佐久間さんのためだけに生徒会室へ来ました。自分の人気を見せるためでも、放送部を宣伝するためでもない。その原稿には、私が知らない佐久間さんが書かれていました」
「甘い卵焼きの話も?」
「それは削っていただきます」
「よかった」
「動物のしおりは残しても」
「削ってください」
「残念です」
「会長」
「失礼しました」
会長は少し笑った。
「私が話せないことを話せる人を、応援演説者に選ぶ。それも会長としての判断です」
「ありがとうございます」
「宮本さんへ」
「先に会長へです」
私は頭を下げた。
会長は一瞬だけ寂しそうに見えたが、すぐにいつもの顔へ戻った。
「勝ってください、佐久間さん」
「努力します」
「約束では?」
「選挙ですから」
「そうですね」
告示当日、立候補の受付は午後四時までだった。
三時五十分の時点で、候補者は私一人。
「信任投票になりそうですね」
ひよりが立候補届を確認する。
「それでも、きちんと選挙運動はします」
「はい。応援しています」
「選挙管理の補助に入るなら、中立でいてください」
「心の中で応援します」
「顔に出ています」
「会長ほどではありません」
「それはそうですね」
会長は隣の机で、告示文を確認している。
「聞こえています」
「事実です」
三時五十四分。
廊下を走る足音がした。
扉が開く。
「立候補届を、提出します」
西村千尋さんが立っていた。
息を切らし、手に一枚の紙を持っている。
「西村さん」
「受付は、まだ間に合いますか」
会長が時計を見る。
「六分あります」
ひよりが書類を受け取った。
「記入漏れを確認します。候補者氏名、西村千尋。二年三組。推薦人は」
「いません。規定数の署名は、先ほど集めました」
別紙には、必要な十名分の署名がある。
「いつから」
私が尋ねる。
「昼休みからです」
「なぜ、急に」
「急ではありません」
西村さんは私を見る。
「ずっと考えていました」
「会長になりたいと?」
「はい」
嘘だ、と思った。
彼女は残るか去るかも決めていない。
転校するつもりで持っていた書類を、私は見た。
「西村さん。少し話を」
「受付が先です」
会長が止める。
「候補者の意思確認は、書類審査後に行います。佐久間さん、今は候補者として席を外してください」
「でも」
「公平に」
その一言で、私は何も言えなくなった。
生徒会室を出る。
廊下には梓がいた。
「千尋、間に合った?」
「知っていたの?」
「署名したから」
「なぜ止めなかったの」
「立候補するって言われて、止める理由ある?」
「転校するかもしれないの」
梓の顔から表情が消えた。
「何、それ」
「本人から聞いていないの?」
「聞いてない」
しまった、と思う。
でも、もう遅い。
「お父さんの転勤が決まったの。西村さんは、ついていくか残るか迷ってる」
「いつ」
「来月」
「じゃあ、会長になっても」
「任期を務められないかもしれない」
梓は扉を見る。
「だから、さっき変だったんだ」
「何が」
「署名を集めてるのに、誰にも会長になりたいって言わなかった。『立候補したいから、名前を貸して』って」
「それでも署名を?」
「友達だから」
「理由を聞かずに?」
「聞いたよ。『今は言えない』って言われた」
梓は唇を噛んだ。
「真白は、どうするの」
「どうするとは」
「千尋が相手でも、本気で選挙する?」
「当然です」
答えたものの、胸の中は揺れていた。
西村さんが本気で会長を目指すなら、全力で戦う。
しかし、去る前の思い出として立候補したのなら。
生徒会室の扉が開いた。
会長が出てくる。
「西村さんの立候補届を受理しました」
「意思確認は」
「立候補する意思は明確です。任期についても、当選した場合は学校へ残り、務めると回答しました」
「残ると決めたんですか」
「それ以上は、本人から聞いてください」
西村さんが会長の後ろに立っていた。
「西村さん」
「佐久間さん」
「二人で話せますか」
「今は、お話しできることがありません」
「なぜ立候補したのかも?」
「告示後の演説で話します」
「私にさえ?」
「あなたは対立候補です」
距離を置く言い方だった。
梓が一歩前へ出る。
「私には?」
「江口さんにも」
「友達でしょう」
「だからです」
西村さんは頭を下げた。
「勝手を言って、すみません」
そのまま廊下を歩いていく。
「千尋!」
梓が呼んでも、振り返らない。
私は追うことができなかった。
候補者としてではない自分が、どこまで踏み込んでよいのか分からなかった。
梓だけが、その背中を追う。
二人を見送りながら、立候補したことへの後悔が初めて胸をよぎった。




