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第三巻 第二章 ここに残る理由

 立候補を考えると言ってから一週間、私は学校中の生徒から同じ質問をされた。

「会長になるんですか」

「まだ決めていません」

 廊下で三回。

「佐久間さんなら、厳しい校則が増えますか」

「増やしません」

 食堂で二回。

「宮本先輩のファンクラブは解散させられますか」

「現在も非公認です」

 放送室前で五回。

 最後の質問をしたのは千夏先輩だった。

「解散させないで、とは言わないわ」

「言いに来た顔です」

「会員へ、不当に不利益な扱いをしないと約束して」

「違反をしなければ、何もしません」

「無許可の誕生祭は」

「次は許可を取ってください」

「申請すれば検討する?」

「内容によります」

「それで十分」

 千夏先輩は満足そうに頷いた。

「では、高橋千夏個人として、あなたを支持するわ」

「早いです。まだ立候補していません」

「選挙は告示前に八割が決まる」

「何の選挙を経験したんですか」

「学級委員を三回」

「規模が違います」

「人が人を選ぶ点は同じよ」

 千夏先輩は一枚の表を取り出した。

「現時点の支持動向。二年生は佐久間支持が四十五パーセント、未定四十、その他十五。三年生は」

「調べたんですか」

「自主的な聞き取り」

「選挙管理委員会へ届け出てください」

「統計よ」

「ファンクラブの連絡網を使いましたね」

「効率的だった」

「使用をやめてください」

 ファンクラブの規模は、今年に入ってさらに増えたらしい。

 宮本先輩本人は、正確な会員数を知らない。

 知れば「へえ、大変だあ」と他人事のように言い、その後で少し困るだろう。

「宮本さんの意見も、会員の投票へ影響する」

「先輩を選挙運動へ利用しないでください」

「本人が誰を支持しているかは、もう明らかよ」

「まだ候補者がいません」

「宮本さんが『真白ちゃん、向いてる』と三回言った」

「数えたんですか」

「記録よ」

「本人から離れてください」

「適切な距離は守っている」

 確かに、廊下の向こうに宮本先輩がいるのに、千夏先輩は近づかない。

 以前より会話はできるようになったが、自分から話しかけるのはまだ難しいらしい。

「高橋先輩」

「何」

「会長になったら、ではなく、今の私に意見をください」

 千夏先輩が私を見る。

「なぜ立候補したほうがよいと思うんですか」

「公平だから」

「皆、そう言います」

「では、別の理由」

 少し考えた。

「あなたは、私たちを嫌いにならなかった」

「ファンクラブを?」

「三月、体育館を勝手に使った。写真を並べ、放送音源のブースまで作った。怒られて当然だったし、活動を全部禁止されても仕方がなかった」

「反省していたので、次の方法を話しました」

「そこよ」

「どこですか」

「禁止して終わりにしなかった。私が宮本さんを好きでいること自体は、否定しなかった」

「誰かを好きになることは、規則違反ではありません」

「それを、当たり前に言える人が会長なら、少し安心する」

 千夏先輩は真っすぐに言った。

「誰かを好きだから、馬鹿になることはある。でも、馬鹿なことをしたからといって、好きな気持ちまで汚いわけじゃない」

「高橋先輩」

「これは、会員の意見ではない。私の意見」

 言い終えると、千夏先輩は少し照れたように目を逸らした。

「ありがとうございます」

「立候補する?」

「それは、まだ」

「慎重ね」

「怖いんです」

「何が」

「私の判断で、誰かの学校生活が変わることが」

 生活指導担当でも、判断はする。

 けれど、最後には会長がいる。先生がいる。

 自分が会長になれば、最初に名前を書かれるのは私だ。

「変えない会長は、いないのと同じよ」

 千夏先輩が言う。

「間違えたら、訂正すればいい。私たちが見ている」

「私たち、とは」

「生徒全員」

「ファンクラブではなく?」

「……それも含む」

「最後で不安になりました」

 それでも、少しだけ背中を押された。


 その日の放課後、私は西村さんに呼び止められた。

「お話があります」

「屋上前の階段ですか」

「よく覚えていますね」

「初めて二人で話した場所ですから」

「では、そこへ」

 あの頃、西村さんは宮本先輩の中に、いなくなった母親の声を探しているかもしれないと言った。

 今は、先輩本人を見ている。

 だからこそ、転校の文字が気になった。

 踊り場の窓は開いていた。

 九月の風が、夏の熱を少しだけ残している。

「父の転勤が決まりました」

 西村さんは、迷わず言った。

「来月、遠方へ移ります」

「西村さんも?」

「選べます。父についていくか、こちらへ残るか」

 胸がざわつく。

「どうするつもりですか」

「父と行くつもりでした」

「でした?」

「まだ、書類は出していません」

「なぜ私に」

「佐久間さんが、生徒会長へ立候補するかもしれないと聞いたからです」

「関係が?」

「あります」

 西村さんは窓の外へ目を向けた。

「あなたが会長になる学校を、見たいと思いました」

「買いかぶりです」

「そうかもしれません」

「否定してください」

「まだ会長になっていないので」

 少し笑う。

「父を一人で行かせたくありません。今までずっと、二人でした」

「はい」

「でも、この学校から離れたくない。放送部を辞めたくない。江口さんと喧嘩をしたい。小田さんのお菓子を食べたい。高橋先輩の無茶な企画を見たい。長谷川会長が感情を隠しきれないところも、もう少し見たい」

「最後は本人へ言わないでください」

「そして、宮本先輩のそばにいたい」

 はっきりした声だった。

 胸は痛んだが、逃げなかった。

「私も、先輩のそばにいたいです」

 初めて、西村さん本人へ言った。

「恋愛として?」

「……たぶん」

「たぶん」

「笑わないでください」

「笑っていません」

「口元が」

「嬉しいだけです」

「恋敵が増えて?」

「佐久間さんが、自分の気持ちから逃げなかったことが」

「まだ、言えていません」

「宮本先輩には?」

「言っていません」

「では、私が先に返事をいただくかもしれません」

「それは」

 嫌です、と言いかけて止めた。

「嫌ですか」

「分かって聞いているでしょう」

「はい」

「西村さんは、時々意地が悪いですね」

「この学校で覚えました」

「誰からですか」

「宮本先輩と、佐久間さんから」

「私は違います」

「そういうことにしておきます」

 懐かしい言い回しだった。

「残ってください、とは言いません」

「はい」

「でも、残ってほしいです」

 西村さんの目が揺れた。

「私もです。私自身が、そう思える理由が欲しい」

「先輩では、足りませんか」

「一人のために残れば、その人を理由にしてしまいます。もし恋が叶わなかった時、この学校へ残ったことまで後悔するかもしれない」

「それは、先輩に失礼ですね」

「はい。私にも」

 彼女はいつも、自分の弱さを見ないふりにしない。

「佐久間さんは、なぜ会長にならないのですか」

「まだ決めていません」

「怖いから?」

「そうです」

「私も怖いです」

「何が」

「残ることも、去ることも」

 二人で窓の外を見る。

 グラウンドでは運動部が声を上げ、校舎のどこかから吹奏楽部の音が聞こえる。

 ここでは毎日、誰かが何かを選んでいる。

「立候補します」

 気づけば、言っていた。

 西村さんが私を見る。

「私が会長に向いているかは、まだ分かりません。でも、怖いからやめるのは、違うと思います」

「はい」

「西村さんが残る理由には、しないでください」

「努力します」

「約束では?」

「努力です」

「私の言い方を使いましたね」

「便利なので」

 西村さんは笑った。

 私はその日のうちに、生徒会長選挙への立候補意思を会長へ伝えた。

 会長は静かに頷き、ひよりは拍手し、ほかの役員は安堵の息を吐いた。

 宮本先輩は、なぜか私以上に喜んだ。

「真白ちゃん、会長になるんだ」

「まだ候補者です」

「応援する」

「投票できるのは全校生徒ですから、一票だけお願いします」

「一票以上に応援したい」

「不正はしないでください」

「そうじゃなくて」

 先輩が笑う。

 私はまだ知らなかった。

 その言葉が、会長と先輩の間で一つの席を争うことになるとは。

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