↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/66

第三巻 プロローグ 選ばなかった朝

 九月一日、西村千尋は転校届の用紙を鞄へ入れて登校した。

 まだ何も書いていない。

 父が用意したのは、現在の学校へ提出する書類と、赴任先にある高校の案内だった。

「一緒に来るなら、今週中には決めたほうがいい」

 朝食の席で、父はそう言った。

「ここへ残るなら、伯母さんには話してある。学校の寮も、空きがあるそうだ」

「分かった」

「すぐに答えなくていい」

「今週中でしょう」

「そうだけど」

「それを、すぐと言うんじゃない?」

 責めたいわけではなかった。

 父も困っている。急な転勤を選んだわけではないし、自分を置いていきたいわけでもない。

 分かっているから、千尋はそれ以上何も言わなかった。

 駅までの道は、夏休み前と同じだった。

 パン屋の前に自転車が並び、交差点の角で小学生が信号を待っている。毎朝同じ犬を散歩させる女性がいて、千尋を見ると小さく会釈した。

 四月には知らなかった景色だ。

 それを、いつから自分の通学路だと思うようになったのだろう。

 学校へ着くと、昇降口で江口梓が待っていた。

「遅い」

「始業まで二十分あります」

「真白が生徒会室へ連れていかれた」

「また何かあったのですか」

「会長選挙」

 梓は重大事件を告げるような顔で言った。

「長谷川会長の任期、十月まででしょう。次の会長候補に、真白を推すって」

「佐久間さんを」

「本人は絶対嫌がる。だから、逃げる前に捕まえたらしい」

「誰がですか」

「ひよりちゃんと、現生徒会役員三人」

「佐久間さんでも逃げるのですね」

「人前に立つの、苦手だから」

 梓が歩き出す。千尋も隣へ並んだ。

「西村さんは、どう思う?」

「適任だと思います」

「だよね」

「江口さんは、応援演説を?」

「頼まれたらね。たぶん、長谷川会長がやると思うけど」

 廊下の先に、宮本莉々香がいた。

 夏休み前と同じように、窓際で一年生と話している。

「髪留め変えたんだ。青、似合ってるね」

 言われた一年生は頬を赤くしたが、隣の友人と揉めることはなかった。

「ありがとうございます。恋愛の意味じゃないのは分かっています」

「先に言われると、ちょっと寂しいな」

「でも嬉しいです!」

「そっか。よかった」

 莉々香が笑う。

 以前より、自分の言葉がどう届くかを見るようになった。

 それを教えたのは佐久間真白だ。

 莉々香が千尋と梓に気づいた。

「おはよう。二人で来たの?」

「昇降口で会いました」

「仲よくなったね」

「信仰上は敵です」

 梓が即座に訂正する。

「まだそれ言ってるの?」

「重要な一線です」

「千尋ちゃん、夏休み明けても落ち着いてるね」

「父の転勤が決まりました」

 言うつもりはなかった。

 けれど莉々香の顔を見たら、言葉が出ていた。

 莉々香の笑顔が消える。

「いつ?」

「来月です」

「千尋ちゃんも行くの?」

「まだ決めていません」

「選べるの?」

「はい。こちらへ残ることもできます」

「じゃあ」

 残って、と言いかけたのだろう。

 莉々香は口を閉じた。

 公開放送で自分が話した言葉を、覚えている。

 相手の気持ちまで先に決めない。

「千尋ちゃんは、どうしたい?」

「分かりません」

「そっか」

「宮本先輩は、残ってほしいですか」

 梓が千尋を見る。

 意地の悪い質問だったかもしれない。

 それでも、聞きたかった。

「残ってほしい」

 莉々香は迷わなかった。

 胸が温かくなり、同じ場所が痛む。

「でも、お父さんと離れたくないなら、行ってほしい。どっちを選んでも、千尋ちゃんが悪いみたいに思わないで」

「はい」

「離れても、放送はできるよ。音源、送り合えるし」

「はい」

「会おうと思えば、会える」

 誰かと交わした約束を思い出している顔だった。

 莉々香の視線が、生徒会室のある方向へ向く。

「佐久間さんにも、まだ言わないでいただけますか」

「どうして?」

「自分で話します」

「分かった」

 梓も黙って頷いた。

 始業予鈴が鳴る。

 莉々香は三年生の教室へ、梓と千尋は二年生の教室へ向かった。

 教室へ入る前、千尋は鞄の中の用紙へ触れた。

 残ってほしいと言われた。

 それだけで残ると決めるのは、莉々香へ自分の人生を背負わせることになる。

 だから、決められない。

 けれど。

 もし、この学校に自分がいたという証明を残せるなら。

 去った後にも、誰かの記憶だけではない形を残せるなら。

 千尋は、まだ何も書かれていない用紙から手を離した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。