第三巻 プロローグ 選ばなかった朝
九月一日、西村千尋は転校届の用紙を鞄へ入れて登校した。
まだ何も書いていない。
父が用意したのは、現在の学校へ提出する書類と、赴任先にある高校の案内だった。
「一緒に来るなら、今週中には決めたほうがいい」
朝食の席で、父はそう言った。
「ここへ残るなら、伯母さんには話してある。学校の寮も、空きがあるそうだ」
「分かった」
「すぐに答えなくていい」
「今週中でしょう」
「そうだけど」
「それを、すぐと言うんじゃない?」
責めたいわけではなかった。
父も困っている。急な転勤を選んだわけではないし、自分を置いていきたいわけでもない。
分かっているから、千尋はそれ以上何も言わなかった。
駅までの道は、夏休み前と同じだった。
パン屋の前に自転車が並び、交差点の角で小学生が信号を待っている。毎朝同じ犬を散歩させる女性がいて、千尋を見ると小さく会釈した。
四月には知らなかった景色だ。
それを、いつから自分の通学路だと思うようになったのだろう。
学校へ着くと、昇降口で江口梓が待っていた。
「遅い」
「始業まで二十分あります」
「真白が生徒会室へ連れていかれた」
「また何かあったのですか」
「会長選挙」
梓は重大事件を告げるような顔で言った。
「長谷川会長の任期、十月まででしょう。次の会長候補に、真白を推すって」
「佐久間さんを」
「本人は絶対嫌がる。だから、逃げる前に捕まえたらしい」
「誰がですか」
「ひよりちゃんと、現生徒会役員三人」
「佐久間さんでも逃げるのですね」
「人前に立つの、苦手だから」
梓が歩き出す。千尋も隣へ並んだ。
「西村さんは、どう思う?」
「適任だと思います」
「だよね」
「江口さんは、応援演説を?」
「頼まれたらね。たぶん、長谷川会長がやると思うけど」
廊下の先に、宮本莉々香がいた。
夏休み前と同じように、窓際で一年生と話している。
「髪留め変えたんだ。青、似合ってるね」
言われた一年生は頬を赤くしたが、隣の友人と揉めることはなかった。
「ありがとうございます。恋愛の意味じゃないのは分かっています」
「先に言われると、ちょっと寂しいな」
「でも嬉しいです!」
「そっか。よかった」
莉々香が笑う。
以前より、自分の言葉がどう届くかを見るようになった。
それを教えたのは佐久間真白だ。
莉々香が千尋と梓に気づいた。
「おはよう。二人で来たの?」
「昇降口で会いました」
「仲よくなったね」
「信仰上は敵です」
梓が即座に訂正する。
「まだそれ言ってるの?」
「重要な一線です」
「千尋ちゃん、夏休み明けても落ち着いてるね」
「父の転勤が決まりました」
言うつもりはなかった。
けれど莉々香の顔を見たら、言葉が出ていた。
莉々香の笑顔が消える。
「いつ?」
「来月です」
「千尋ちゃんも行くの?」
「まだ決めていません」
「選べるの?」
「はい。こちらへ残ることもできます」
「じゃあ」
残って、と言いかけたのだろう。
莉々香は口を閉じた。
公開放送で自分が話した言葉を、覚えている。
相手の気持ちまで先に決めない。
「千尋ちゃんは、どうしたい?」
「分かりません」
「そっか」
「宮本先輩は、残ってほしいですか」
梓が千尋を見る。
意地の悪い質問だったかもしれない。
それでも、聞きたかった。
「残ってほしい」
莉々香は迷わなかった。
胸が温かくなり、同じ場所が痛む。
「でも、お父さんと離れたくないなら、行ってほしい。どっちを選んでも、千尋ちゃんが悪いみたいに思わないで」
「はい」
「離れても、放送はできるよ。音源、送り合えるし」
「はい」
「会おうと思えば、会える」
誰かと交わした約束を思い出している顔だった。
莉々香の視線が、生徒会室のある方向へ向く。
「佐久間さんにも、まだ言わないでいただけますか」
「どうして?」
「自分で話します」
「分かった」
梓も黙って頷いた。
始業予鈴が鳴る。
莉々香は三年生の教室へ、梓と千尋は二年生の教室へ向かった。
教室へ入る前、千尋は鞄の中の用紙へ触れた。
残ってほしいと言われた。
それだけで残ると決めるのは、莉々香へ自分の人生を背負わせることになる。
だから、決められない。
けれど。
もし、この学校に自分がいたという証明を残せるなら。
去った後にも、誰かの記憶だけではない形を残せるなら。
千尋は、まだ何も書かれていない用紙から手を離した。




