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第二巻 終章 まだ、ここにいる

 八月の終わり、夏休み最後の生徒会当番の日。

 私は放送室の前で、宮本先輩を待っていた。

 廊下の窓から入る風には、ほんの少し秋の匂いが混じっている。

「お待たせ」

 先輩が扉を閉めて出てきた。

「編集、終わりましたか」

「うん。西村さんが先にやってくれてたから、早かった」

「今日は来ていないんですね」

「家の用事だって」

「そうですか」

 二人で昇降口へ向かう。

 誰もいない校舎では、足音がよく響いた。

「真白ちゃん」

「何ですか」

「今日、駅前の本屋へ寄らない?」

「参考書ですか」

「小説」

「受験生でしょう」

「一冊だけ」

「一時間で帰りますよ」

「来てくれるんだ」

「監視です」

「夏休みなのに?」

「先輩が寄り道しすぎないように」

「卒業しても?」

「その質問、気に入ったんですか」

「答えてくれるから」

「必要なら」

「会いたいって言ったら?」

「会います」

「好きって言ったら?」

 足が止まった。

 先輩も二歩先で止まり、振り返る。

「どういう意味で、ですか」

「まだ分からない」

「では、答えられません」

「真白ちゃんは?」

「私も、まだ言いません」

「まだ?」

 先輩の顔が明るくなる。

「今の、いつか言うみたい」

「揚げ足を取らないでください」

「言ってくれる?」

「先輩が先に、自分の気持ちを決めてください」

「真白ちゃんが言ったら分かるかも」

「人の答えで決めないで」

「じゃあ、一緒に考える?」

「どうやって」

「会って、話して、一緒に帰って」

 先輩が私へ手を差し出す。

「もっと、知る」

 公開放送の日、私が先輩へ言った言葉だった。

 私はその手を見た。

 握れば、何かが決まるわけではない。

 離さなければならないわけでもない。

「一時間だけですよ」

「本屋?」

「全部です」

「一時間で何が分かるかな」

「今日だけで決める必要はありません」

「そっか」

 手を重ねる。

 先輩は嬉しそうに指を絡めかけて、そこで止まった。

「指も、繋いでいい?」

 私が睨む。

「今、何をしようとしました?」

「ちょっとだけ、恋人みたいに」

「まだ違います」

「分かった。普通に握る」

「まだ?」

「また揚げ足を」

「真白ちゃん、顔、赤い」

「暑いだけです」

「廊下、涼しいよ」

「先輩の手が熱いんです」

「真白ちゃんも」

 言い合いながら、昇降口まで歩く。

 途中、曲がり角から会長が顔を出した。

「会長」

「偶然ですね」

「今日は進路説明会では?」

「終わりました」

「なぜ三年棟と反対側に」

「校内巡回です」

 会長の視線が、繋いだ手へ落ちる。

 口元が震えた。

「何も言わないでください」

「言いません」

「本当に?」

「はい」

 私たちが横を通り過ぎる。

 背後から、かすかな声が聞こえた。

「尊い……」

「会長!」

「聞こえていません!」

「言った本人が決めないでください!」

 宮本先輩が声を立てて笑う。

 私は先輩の手を引き、逃げるように階段を下りた。

「真白ちゃん、速い」

「会長が追ってくる前に帰ります」

「文香、追ってこないよ」

「分かりません。写真を撮るために梓を呼ぶかも」

「じゃあ急ごう」

 先輩も走り出す。

 手は繋いだままだった。

 監視役と監視対象。

 友人。先輩と後輩。

 そのどれでもあるし、どれか一つでは足りなくなり始めている。

 今はまだ、名前を決めなくていい。

 私たちは、まだここにいる。

 同じ学校で、同じ季節の中に。

 だから、もう少しだけ、この人を知りたいと思った。


幕間 次の場所


 西村千尋が家へ帰ると、玄関に見慣れない靴があった。

 父の革靴だ。

 この時間に家へいることは珍しい。

「ただいま」

「おかえり」

 リビングから声が返る。

 テーブルには、開封された封筒と、印刷された何枚かの書類が置かれていた。

 千尋は鞄を下ろさず、その文字を見た。

 人事異動。

 赴任予定地。

 十月一日付。

 何度も見てきた書式だった。

「急なんだけど」

 父が言う。

「また、転勤が決まった」

「そう」

 声は、いつもどおり出た。

「今度は遠い。通える距離じゃない」

「そう」

「学校のこともある。千尋は、ここへ残る選択もできる」

 初めての提案だった。

 以前は、父についていく以外の選択肢を考えたこともなかった。

「親戚の家から通うか、学校の寮へ入れるか相談する。もちろん、一緒に来てもいい。向こうの学校は」

「少し、考えさせて」

 父が黙る。

「分かった。急がなくていい」

 でも、急がなければならない。

 夏休みが明ければ、すぐに手続きの期限が来る。

 千尋は自分の部屋へ入った。

 まだ完全には開けていない段ボール箱が、壁際に二つ積まれている。

 春に届いてから、必要なものだけを取り出した。

 どうせ、また詰めることになると思っていたから。

 机の上には、公開放送の日に梓からもらった写真がある。

 舞台で原稿を読む自分。

 隣にいる莉々香。

 暗くなる直前、舞台袖の真白を見ている莉々香。

 六人で雨宿りをした日に、ひよりが撮った写真もある。全員、傘の下で笑っている。高橋先輩だけはカメラへ気づかず、宮本先輩を見ていた。

 写真の裏には、梓の字で書かれている。

『転校初日の敵へ。次はもっとちゃんと笑って』

「勝手ですね」

 呟く。

 それなのに、笑ってしまった。

 スマートフォンが鳴る。

 放送部の連絡だった。

『明日の昼、臨時で打ち合わせできる人?』

 宮本先輩の投稿へ、小田さんが菓子の絵文字をつけ、江口さんが「部外者だけど行く」と返し、高橋先輩が議題を尋ねている。長谷川会長は「生徒会室を使用できます」と書き、その直後、佐久間さんが「勝手に決めないでください」と訂正していた。

 賑やかな画面。

 千尋は返信欄を開く。

『行きます』

 四文字を打ち、送信する。

 すぐに宮本先輩から、笑顔の絵文字が返ってきた。

 胸が痛む。

 ここへ残りたい。

 父を一人で行かせたくない。

 宮本先輩のそばにいたい。

 佐久間さんたちと、もっと同じ時間を過ごしたい。

 どれも本当だった。

 千尋は段ボール箱の前へしゃがみ込む。

 封を切る。

 春から出していなかった本や、小さな置物や、前の学校の放送部でもらった記念品を、一つずつ取り出した。

 残ると決めたわけではない。

 それでも、今夜だけは。

 ここを、自分の部屋にしてもいいと思った。

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