第二章 宮本先輩は何も知らない
昼休みになった途端、教室の空気が変わった。
弁当箱を開く音に混じって、天井近くのスピーカーから短い音楽が流れる。普段なら梓との会話に紛れて意識もしない校内放送だった。
『こんにちは。二月十四日、金曜日。お昼の放送を始めます』
柔らかく、よく通る声。
無理に明るく作っていないのに、教室のざわめきが一段下がった。
梓は箸を止め、背筋を伸ばしている。私と話す気は、もうないらしい。
『今日はバレンタインですね。放送室にも、朝から甘い匂いが届いています。暖房の近くへチョコレートを置いている人は、溶かさないように気をつけてください』
教室のあちこちで笑いが起きた。
続いて曲紹介。学校からのお知らせ。最後に、放送部へ届いた短いメッセージが読まれる。
『一年二組の方から、“友達に渡すつもりだったチョコレートを、登校中に自分で食べてしまいました。どうしたらいいですか”』
少しの間。
『もう一つ買いましょう。自分で食べたくなるくらいおいしそうなものを選べるの、素敵だと思います』
また笑いが広がる。
大げさなことは何も言っていない。ただ、失敗を笑わず、少し見方を変えて返した。それだけで、声の向こうにいる誰かの肩が軽くなるような気がした。
「……人気がある理由は、少し分かった」
私が呟くと、梓は得意げに頷いた。
「でしょう?」
「でも、様付けはしない」
「そこはこれから」
「これからもない」
放送が終わると、梓はようやく箸を動かし始めた。私は弁当を半分残したまま、席を立つ。
「どこ行くの」
「放送室。会長から、本人へ説明するよう言われてる」
「私も行く」
「来なくていい」
「廊下まで」
「来なくていい」
「遠くから見守るだけ」
「なおさら来ないで」
教室を出ても、梓は十歩ほど後ろをついてきた。階段を上がり、特別教室棟へ渡る廊下まで来て、ようやく柱の陰に止まる。
「それ、見守っているつもり?」
「私はここから先へは行かないから」
「最初から来ないでほしかった」
放送室の前には、数人の生徒が残っていた。
リクエスト用紙を箱へ入れる生徒。放送部員へ感想を伝える生徒。中には、扉の小窓から中を覗いているだけの人もいる。
「用事があるなら、通路を塞がないでください」
腕章を見せると、彼女たちは素直に道を空けた。そのうちの一人が私の顔を見て、小声で何かを囁く。
昨日の件で、もう私のことまで知られているのだろうか。
扉を二度叩く。
「失礼します。生徒会の佐久間です」
中では三人の放送部員が片づけをしていた。
中央の机で原稿をそろえていた生徒が顔を上げる。肩を少し越す黒髪。切れ長の目はきつく見えてもおかしくないのに、口元には人懐こい笑みがあった。
写真で確認するまでもない。
たぶん、この人が宮本莉々香先輩だ。
「生徒会の子?」
「一年三組、佐久間真白です。宮本莉々香先輩にお話があります」
「私だよ」
先輩は手元の原稿を隣の部員へ渡し、私の前まで来た。
近くで見ると、確かに目立つ。背が高いわけでも、派手な髪型をしているわけでもない。それなのに、こちらへ注意を向けられた瞬間、周囲の音が少し遠くなった。
「佐久間真白ちゃん」
「はい」
「真面目そうで、かわいい名前だね」
「さっそくですが、そういう発言を控えてください」
「どの発言?」
「いまの発言です」
莉々香先輩は目を丸くした。後ろで、ほかの放送部員が笑いを堪えている。
「名前を褒めただけだよ」
「真面目そうでかわいい、まで名前に含まれますか」
「真白ちゃんの印象」
「初対面の後輩へ不用意にかわいいと言わないでください」
「不用意じゃないよ。ちゃんと見て言った」
「そういう問題ではありません」
会話を始めて一分も経っていないのに、ひどく疲れる。
私は昨日の報告書を取り出した。
「昨日、宮本先輩へチョコレートを渡す順番をめぐって、一年生二人が廊下で喧嘩をしました」
「私に?」
「宮本先輩にです」
「なんで?」
演技ではない。本気で分からない顔をしている。
「お二人とも、宮本先輩から好きと言われたと主張しています」
「名前は?」
伝えると、莉々香先輩は少し考えた。
「ああ。黒板を消してた子と、髪を耳にかけた子」
「覚えているんですね」
「顔を見れば、たぶんもっと分かるよ」
「二人とも、自分への告白だと思っています」
「告白?」
「毎朝きちんと黒板を消すところが好きだと」
「うん。好き」
「髪を耳にかけた方が好きだとも」
「そっちも好き」
「だから、その言い方です」
莉々香先輩は首を傾ける。
「二人とも好きじゃ、だめなの?」
「少なくとも、本人たちは恋愛感情として受け取っています」
「付き合ってほしいとは言ってないよ」
「言わなくても、そう聞こえる場合があります」
「私が言うと?」
「宮本先輩が言うからです」
また沈黙。
やがて先輩は、自分の胸元を指さした。
「私って、そんなに?」
「それを私に聞かないでください」
「真白ちゃんは、私のこと知らなかったんでしょう」
「昨日まで名前も知りませんでした」
「じゃあ、分からないね」
「ですが、現に問題は起きています」
「そうだね」
軽く流されると思った。ところが莉々香先輩は笑みを消し、報告書へ目を落とした。
「二人、怪我は?」
「ありません。髪と制服が少し乱れた程度です」
「私、謝った方がいい?」
「直接会う前に、担任か生徒会を通してください。二人ともまだ感情的です」
「分かった。真白ちゃんに任せる」
「なぜ私に」
「私より分かってそうだから」
「先輩自身の問題です」
「うん。でも、私には分からなかったから」
その一言だけは、妙に素直だった。
責任から逃げようとしているのではない。何が起きたのか分からないから、分かる人に頼ろうとしている。
「分からないで終わらせないでください」
「真白ちゃんが教えてくれる?」
「監視役ですから」
「監視役?」
「本日から一か月、宮本先輩とファンクラブの特別監視を命じられました」
言葉にすると、改めておかしな役目だった。
莉々香先輩は驚いたあと、楽しそうに笑う。
「じゃあ、これからよく会えるね」
「問題を起こさなければ会いません」
「それは寂しいな」
「そういうことを言わないでください」
「寂しいと思っただけだよ」
私は報告書で口元を隠した。
後ろの部員たちが、今度こそ声を立てて笑ったからであって、ほかに理由はない。
放送室を出ると、柱の陰にいたはずの梓が、三人に増えていた。
梓のほかに、小田ひよりと、知らない一年生が並んでいる。三人とも扉へ耳を寄せていたらしく、私と目が合うと姿勢を正した。
「何をしているの」
「見守り」
梓が答える。
「会話、聞いてたよね」
「途中から」
「最初からいたでしょ」
「真白ちゃんって呼ばれてたね」
「そこはどうでもいいの」
ひよりは胸の前で手を合わせ、穏やかに微笑んでいる。
「佐久間さん、さすがです。莉々香先輩へあれだけ注意できる人、初めて見ました」
「小田さん、ファンクラブに詳しいんだよね」
「会員です」
「生徒会庶務が二人目」
「会長も入れれば三人じゃない?」
梓が言った。
「会長?」
「あ」
ひよりが梓の口を塞いだ。
「いま、何て言った?」
「何も」
「会長がどうしたの」
「真白、午後の授業始まるよ」
「ごまかさないで」
予鈴が鳴る。
結局、私は三人を追及できないまま、教室へ戻ることになった。
ただ一つ、監視すべき相手が想定よりずっと多いらしいことだけは分かった。




