第二巻 第十二章 舞台袖から見える人
公開放送当日。
開場一時間前の講堂は、すでに熱気を帯びていた。
「受付、入場券の色を再確認。青は二年、緑は一年、白は三年。再入場には半券が必要。廊下で立ち止まらせないで」
千夏先輩の指示が飛ぶ。
「音響、マイク二番にわずかな雑音」
「ケーブルを交換します!」
「舞台袖、予備原稿は」
「三部あります」
「一部を司会机の下へ。水は常温。冷たいものは避けて」
「はい!」
完全に運営責任者である。
私は客席入口で、集まった生徒を確認していた。
入場券を持たない生徒も十数名いるが、講堂前に留まらないよう、放送部が中庭へスピーカーを設置した。校内放送も同時に流すため、教室でも聞ける。
「真白ちゃん!」
ひよりが走ってくる。
「一年生の列、全員入りました」
「ありがとう。転倒した人は?」
「いません」
「高橋先輩が床の小さな段差までテープで」
「見た」
黄色と黒の警告テープが、芸術的なほどまっすぐ貼られている。
「会長は?」
「来賓席です」
「来賓じゃない」
「生徒会長席、とご自分で札を」
「外して」
「もう座っています」
客席最前列の端に、会長がいた。
表向きは全体を見渡せる位置だ。膝の上には進行表、首からは運営用の無線。
ただし、宮本先輩が出てくる舞台中央を最もよく見られる席でもある。
目が合うと、会長は真顔で親指を立てた。
私は首を振った。
「真白」
梓がカメラを抱えて現れる。
「客席後方、撮影位置につくね」
「フラッシュは禁止。移動は曲間だけ。観客の顔は許可なく撮らないで」
「全部覚えてる」
「西村さんも撮って」
梓が目を丸くした。
「言われなくても」
「なら、いい」
「真白」
「何」
「今日、莉々香様に告白する?」
「しない」
「即答」
「公開放送の日だし」
「終わったあと」
「しない」
「じゃあ、いつするの」
「なんで、する前提なの」
梓は呆れた顔をした。
「ここまで来て?」
「どこまで」
「手を握って、嫉妬を認めて、恋敵と友情を結んで」
「友情は普通に結ばせてよ」
「あとは告白だけじゃん」
「好きかどうか、まだ分からない」
「真白」
梓は真面目な顔になった。
「私は莉々香様の信者だから、莉々香様が誰を選んでも受け入れる」
「急にどうしたの?」
「できれば孤高でいてほしいけど」
「受け入れてない」
「でも、誰かを選ぶなら、その人にはちゃんと莉々香様を見てほしい」
「西村さんは見てる」
「うん。だから困ってる」
梓は私の肩を軽く叩いた。
「真白も、ちゃんと見なよ。卒業まで、ずっと監視役の陰に隠れてるつもり?」
返す言葉がなかった。
「じゃあ、撮ってくる」
梓が去る。
入れ替わりに南がやって来た。腕には『新聞部・取材』の腕章がある。
「今日は記事を止めないでね」
「企画そのものは構いません。個人の恋愛を煽らないでください」
「分かってる。嫌がらせの件も書かない。放送部と運営の努力を中心にする」
「珍しく信用できる」
「珍しくは余計」
「でも、ありがとう」
南は少し照れたように笑った。
「私は、勝手に物語にしすぎたから」
「自覚があったんだ」
「記事を書く人間は、人を一行で説明したくなるんだよ。『人気者』『監視役』『恋する転校生』。分かりやすいでしょう」
「人は一行ではありません」
「うん。西村さんの紙を見て、ちょっと反省した」
「南が書いたんじゃないよね」
「違う。でも、似たことを記事でしてた」
「今後は気をつけて」
「善処します」
「約束して」
「努力します」
「南」
「開場するよ!」
逃げた。
開場時刻になる。
客席が埋まり、ざわめきが講堂を満たす。
舞台袖で宮本先輩と西村さんが最終確認をしていた。
宮本先輩は放送部の白いシャツに細い紺のリボン。西村さんも同じ制服だが、髪を普段より低い位置で結んでいる。
「西村さん、髪」
宮本先輩が気づいた。
「変でしょうか」
「ううん。似合ってる。横顔がよく見えて、綺麗」
「ありがとうございます」
「緊張してる?」
「少し」
「私も」
「先輩も?」
「こんなに人がいると思わなかった」
「先輩は、ご自分の人気をまだ理解していませんね」
「放送部が人気なんだよ」
「半分は、そういうことにしておきます」
西村さんが私の言い方を使った。
宮本先輩が笑う。
「真白ちゃんみたい」
「似てきたのでしょうか」
「二人、最近仲いいよね」
「嫌ですか」
西村さんが聞く。
宮本先輩は一瞬、詰まった。
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「ちょっとだけ、私の知らない真白ちゃんを知ってそうで、ずるい」
今度は私が固まった。
西村さんが笑う。
「佐久間さん。お願いができましたね」
「何の話ですか」
「宮本先輩も、わがままをおっしゃっています」
「私、言った?」
「言いました」
先輩が恥ずかしそうに目を伏せる。
その顔を見て、少し嬉しいと思った。
「先輩」
「何?」
「私の知らない先輩を、西村さんはたくさん知っています」
「うん」
「放送のことも、声のことも。私は少し悔しいです」
「うん」
「だから、これから教えてください」
先輩が私を見る。
「私も、先輩のことを知りたいです」
告白ではない。
それでも今の私に言える、最もまっすぐな言葉だった。
「……はい」
宮本先輩が答える。
西村さんが腕時計を見た。
「本番一分前です」
「今、時間を言う?」
「大事なところだったよ」
「公開放送のほうが大事です」
「そうだけど」
舞台監督が開始の合図を出す。
私は二人へヘッドセットを渡した。
「行ってください」
「うん」
「はい」
二人が舞台へ出る。
客席から大きな拍手が起こった。
私は舞台袖の暗がりから、二人の背中を見送った。
公開放送は、最初の二十分まで完璧だった。
部活動の紹介。寄せられた感謝の手紙。軽い相談へ、二人が違う角度から答える。
『好きな人へ、かわいいと言えません。どうしたらいいですか』
という手紙に、宮本先輩は笑った。
「その人の、かわいいと思ったところを、そのまま言えばいいんじゃないかな」
客席のあちこちから小さな悲鳴が上がる。
「ただし、相手の反応を見てください」
西村さんが続けた。
「嬉しそうなら、もう一度。困っていたら、言葉の意味を説明する。言った側だけで、その言葉の意味は決まりません」
宮本先輩が頷く。
「私も、最近教えてもらいました」
「どなたに?」
「すごく真面目で、怒ると怖いけど、困ってる人を放っておけない子に」
客席の視線が一斉に舞台袖へ向いた。
隠れているはずなのに。
「個人が特定できる言い方は避けてください」
私は無線で伝えた。
宮本先輩のイヤホンへ届く。
「今も怒られました」
笑いが起きた。
会長は最前列で目元を押さえ、梓は後方でシャッターを切っている。
平和だ。
そう思った直後、舞台袖の音響担当が顔色を変えた。
「ノイズです」
スピーカーから、低い雑音が流れる。
すぐに消えた。しかし、ミキサーの警告灯が点滅している。
「予備系統へ切り替えます」
担当が操作する。
舞台上の二人は、何事もないように次の手紙を紹介していた。
再び雑音。今度は大きい。
客席がざわめく。
「主電源ではありません。ミキサー内部かも」
「校内放送への出力は」
「生きています。講堂スピーカーだけ不安定です」
「予備の簡易アンプは」
「音量が足りません」
私は千夏先輩へ無線を入れる。
「客席を静かにしてください。機器トラブルです」
『了解。中止判断は?』
「三分ください」
舞台上では、西村さんが次の手紙を持ち上げた。
最後の一通。
『ずっと同じ場所にいられない人を、好きになってもいいですか』
その瞬間、講堂の音がすべて落ちた。
マイクも、返しのスピーカーも、舞台照明の一部も消える。
非常灯だけが残った。
客席から悲鳴が上がる。
「停電?」
「講堂の一系統だけです!」
音響担当が叫ぶ。
舞台上の二人は暗がりの中で動けずにいた。
私は舞台へ出ようとする。
その前に、会長の声が客席から響いた。
「皆さん、そのまま席でお待ちください! 非常灯は点いています。移動しないでください!」
千夏先輩と実行委員が通路へ立ち、観客を落ち着かせる。
ひよりが扉を開け、外の明かりを入れた。
少し遅れて顧問から無線が入る。落ちたのは舞台と音響の系統だけで、非常設備と客席側の電源に異常はないという。
私は舞台へ上がった。
「二人とも、大丈夫ですか」
「うん」
「はい」
西村さんの手が震えている。
暗闇のせいではない。
最後の手紙を読む直前だった。
「中断します」
私が言うと、西村さんが首を振った。
「続けたいです」
「音が出ません」
「講堂は、それほど広くありません」
「百八十人います」
「静かなら、声は届きます」
放送経験者の判断だった。
宮本先輩も頷く。
「真白ちゃん。客席を静かにしてくれる?」
「無理です」
「できるよ」
「なぜ、そう思うんですか」
「真白ちゃんの声、よく通るから」
「褒めている場合では」
「信じてる」
暗がりの中で、先輩の目だけが見えた。
私は客席へ向き直る。
百八十人の顔が、こちらを見ている。
人前に立つのは苦手だ。
生徒会の生活指導担当になっても、それは変わらない。
でも、困っている人を放ってはおけない。
「皆さん!」
腹から声を出す。
ざわめきが少し小さくなる。
「機器トラブルです。非常設備に異常はありません。公開放送を、生の声で続けます」
完全には静まらない。
後方で誰かが話している。
「最後の手紙です。聞きたい方は、静かにしてください」
梓がカメラを下ろした。
会長が席へ座る。
千夏先輩が通路の一年生へ合図する。
波が引くように、講堂が静かになった。
舞台の上で、紙の擦れる音まで聞こえた。
「お願いします」
私は二人へ言った。
西村さんが一歩前へ出る。
マイクはない。
それでも、彼女の声は客席の奥へ向かって伸びた。
「最後のお便りです。『ずっと同じ場所にいられない人を、好きになってもいいですか。いつか離れるなら、最初から近づかないほうが、相手のためでしょうか』」
一文字ずつ、丁寧に読む。
「この手紙を書いたのは、私です」
客席がわずかに揺れる。
西村さんは続けた。
「私は父の転勤で、何度か引っ越しました。前の高校も一年で辞め、この春、こちらへ来ました。いつまた離れるか分かりません。だから、誰かと深く関わらないほうがいいと思っていました」
宮本先輩が隣に立つ。
「でも、転校初日に、好きになれそうな人を見つけました」
今度は、はっきり客席がざわめいた。
私が睨むと静かになる。
「その方が人気者だとは、知りませんでした。知ってからも、好きでいることをやめようとは思いませんでした」
西村さんの視線が、宮本先輩へ向く。
「私は今も、いつか離れることが怖いです。それでも、近づかなければよかったとは思いません。この学校で出会った方々を、いなかったことにしたくありません」
声が、ほんの少し震えた。
「だから、私の答えは、好きになってもいい、です。離れる日が来ても、今日までが消えるわけではありません」
静寂の中、宮本先輩が息を吸う音がした。
「私も、いいと思います」
マイクなしでも、先輩の声は温かい。
「でも、好きになられた人には、選ぶ権利があります。待っていてほしいと言うのか、離れても続けたいと言うのか、ここで終わりにしたいと言うのか。それを勝手に決めないで、聞いてほしいです」
宮本先輩は、客席ではなく、西村さんを見ていた。
「いなくなるから近づかない、は、相手の気持ちまで先に決めることだから」
「はい」
「私は、離れるのが寂しいです」
先輩の視線が、舞台袖の私へ移る。
「卒業したら、毎日会えなくなる人がいます。今まで考えないようにしてたけど、寂しい」
胸が苦しくなる。
「だから、今、一緒にいる時間を大事にしたい。離れた後のことは、その時、二人で決めたいです」
誰と、とは言わなかった。
西村さんへ向けた言葉であり、放送を聞く全員へ向けた言葉であり、たぶん私へ向けた言葉でもあった。
沈黙の後、一つの拍手が鳴った。
梓だった。
次にひより。千夏先輩。会長。
拍手は広がり、暗い講堂を満たした。
機械を通さない音が、二人へ届く。
宮本先輩は驚いた顔で客席を見た。
西村さんは泣いていなかった。
ただ、唇を噛み、何度も頭を下げていた。
電源が復旧したのは、終了予定時刻の五分後だった。
原因は老朽化した分電盤の一時的な不具合で、嫌がらせとは無関係だった。
最後まで問題ばかりの公開放送だったが、けが人はなく、観客も全員無事に退場した。
講堂前には、感想を伝えたい生徒が集まった。
列を作ろうとした千夏先輩を、私は止めた。
「今日は解散させます」
「でも、秩序立てれば」
「出演者を休ませてください」
「……そうね」
千夏先輩はすぐに切り替え、校内放送で感想箱の設置を案内した。
会長は電源事故の報告へ向かい、ひよりは片付ける部員へ飲み物を配る。南は記事を書くため走り去った。
梓だけが、舞台袖でカメラの画面を確認していた。
「暗くなってからは、撮れなかった」
「当然でしょ」
「でも、最後の一枚だけ」
見せられた画面には、停電直前の二人が写っていた。
最後の手紙を持つ西村さん。その横で、西村さんではなく、舞台袖を見る宮本先輩。
視線の先にいたのは、私だ。
「偶然だし」
「何も言ってない」
「梓の顔に書いてる」
「今度、この言い方使おう」
「やめて」
梓は写真を保護設定にした。
「展示はしないよ」
「お願い」
「これは、本人たちにだけ渡す」
「私には」
「欲しいの?」
「……記録として」
「便利だね、記録」
「一枚、お願い」
「素直でよろしい」
梓が笑う。
その後ろに、西村さんが立っていた。
「江口さん」
「お疲れさま」
「写真、ありがとうございました」
「まだ見せてないけど」
「撮ってくださっていたので」
「仕事だから」
「信仰ではなく?」
「両方」
「そうですか」
西村さんは少し笑った。
「私も、いただけますか」
「いいよ。今日のは全部」
「宮本先輩だけの写真も?」
「それは審査する」
「厳しいですね」
「信仰上」
「便利な言葉ですね」
「真白と同じこと言わないで」
二人の会話が、以前よりずっと自然になっている。
私は少し離れて、そのことを嬉しいと思った。




