第二巻 第十一章 放送前日の手紙
公開放送前日、最後のリハーサルが講堂で行われた。
舞台中央に机を二つ。マイクが二本。背後には放送部の校章入りパネル。客席後方に臨時のミキサー卓を置き、舞台袖と無線で繋ぐ。
昨年の誕生祭とは違い、今回は最初の企画段階から必要な許可が揃った健全な催しだ。
ただし、客席を歩き回る千夏先輩の目だけは、去年と同じだった。
「三列目右端、椅子の間隔が二センチ狭い」
「分かるんですか」
「通路の線と合っていない」
「直します」
実行委員の一年生が、すっかり千夏先輩の部下になっている。
「高橋先輩、卒業したらイベント会社に入れそうですね」
「興味はないわ」
「では何に興味が」
「……まだ決めていない」
三年生には、進路という言葉がついて回る。
宮本先輩も、会長も、千夏先輩も、来年にはこの学校にいない。
当たり前のことなのに、急に胸が冷えた。
「佐久間さん?」
「何でもありません」
「あなたも、褒められた時の宮本さんみたいな顔をするのね」
「どんな顔ですか」
「隠したいことがある顔」
「高橋先輩に言われたくありません」
「そうね」
否定しないところが意外だった。
舞台では、宮本先輩と西村さんがオープニングを練習している。
「お昼休みの四十分、今日はいつもの放送室を飛び出して、講堂からお届けします」
「司会は三年、宮本莉々香と」
「二年、西村千尋です」
二人の声が広い講堂へ響く。
マイク越しでも、声の違いがよく分かる。
宮本先輩が場を温め、西村さんが輪郭を整える。どちらか一人では生まれない呼吸だった。
悔しいと思う。
同時に、綺麗だとも思う。
この二つは、両立するらしい。
「真白」
隣で梓がカメラを構えていた。
「撮影許可は」
「もらった。今日は公式記録係」
首から放送部発行の許可証を下げている。
「よかったね」
「うん。でも、二人を撮るの、難しい」
「技術的に?」
「気持ち的に」
梓はファインダーを覗いたまま言った。
「西村さんと並ぶ莉々香様、ちゃんと綺麗なんだよね」
「そうだね」
「認めたくない?」
「少し」
「真白、素直になった」
「梓には言われたくない」
「私は最初から素直だよ。敬虔な信者だから」
「自称しないで」
シャッター音が響く。
「でも、莉々香様だけじゃなくて、西村さんもちゃんと撮る」
「どうして」
「この放送は、二人で作るから」
梓はカメラを下ろした。
「嫌いだからって、いなかったことにするのは違うでしょう」
「もう嫌いじゃないんじゃない?」
「信仰上の敵ではある」
「便利な言葉だね、信仰」
「真白の監視よりは正直」
「それを言われると弱い」
二人で笑った。
レンズの先で、西村さんがこちらを見た。梓が片手を上げると、西村さんも小さく会釈した。
リハーサル後、紹介する手紙の最終確認を行った。
部活動への感謝。友人へ謝りたいこと。卒業する先輩へ伝えたい言葉。軽い恋愛相談も二通ある。
最後の一通だけ、差出人欄が空白だった。
『ずっと同じ場所にいられない人を、好きになってもいいですか。いつか離れるなら、最初から近づかないほうが、相手のためでしょうか』
私は読み終え、顔を上げた。
「これは」
「私が書きました」
西村さんが言った。
宮本先輩も知らなかったようで、彼女を見る。
「公開放送で読むの?」
「採用するかは、皆さんにお任せします」
「お父さんの転勤のこと?」
私は尋ねた。
「それだけではありません」
「じゃあ」
「私が、一つの場所へ長くいられないということです」
西村さんは手紙へ目を落とした。
「転勤が決まっていなくても、いつも考えています。次はいつか。ここで誰かと仲良くなっても、また別れるのではないか」
「だから、最初から近づかなかった」
宮本先輩の声が静かになる。
「前の学校では、そうでした」
「この学校では?」
「できませんでした」
「私にデートを申し込んだから?」
「それもあります」
「それも?」
「佐久間さんに監視され、江口さんに敵視され、長谷川会長に観察され、高橋先輩に情報を集められ、小田さんにお菓子をいただき、笹原さんに記事を書かれました」
「最後の二つ以外は、ごめん」
「真白、私のお菓子は?」
「いいことだよ」
ひよりが嬉しそうに笑う。
会長は咳払いした。
「観察ではなく、生徒会長として見守りを」
「会長。今は黙っていてください」
「はい」
西村さんの口元が緩む。
「一人でいることを、許してもらえませんでした」
「迷惑でしたか」
梓が不安そうに聞く。
「いいえ」
「じゃあ、よかった」
「江口さん」
「何」
「私を嫌いだと、最初に言ってくださって、ありがとうございました」
「それ、お礼を言うところ?」
「今まで、皆さん親切でした。転校生だから、またいなくなるかもしれないから、優しくしてくれた。でも、本音を言うほど近づいてはくれなかった」
「私は遠慮しないから」
「知っています」
「今も信仰上の敵だからね」
「それも知っています」
梓は照れたように鼻を鳴らした。
「手紙、読むなら読めば。私は、ちゃんと聞く」
「ありがとうございます」
会長が手紙を手に取った。
「内容は規定に触れません。ただ、匿名であっても、西村さんのものだと気づく生徒はいるでしょう」
「構いません」
「答えは、司会である二人の言葉として返すことになります」
「はい」
「宮本さんは?」
宮本先輩は手紙を見つめていた。
「読みたい」
「理由を聞いても?」
「私も、考えたいから」
「何をですか」
私の声が、少し硬くなった。
先輩は私を見る。
「誰かと離れること」
「先輩も卒業しますからね」
「うん」
分かっていたはずの言葉が、講堂の広さを急に変えた。
あと九か月もない。
今は毎日のように会って、発言を注意して、同じ机で原稿を読む。来年になれば、それは終わる。
監視役も、終わる。
「真白ちゃん?」
「何でもありません」
「顔色が」
「少し疲れただけです」
「座る?」
「大丈夫です」
逃げるように資料へ目を落とす。
会長が私を見ていた。
楽しむ目ではなかった。
「この手紙を最後に読みましょう」
会長が言う。
「答えは一つでなくて構いません。宮本さんと西村さん、それぞれの言葉で話してください」
「はい」
二人が答える。
「ただし、公開の場で話せる範囲を超えないこと。誰かへ返事を強要する内容にしないこと」
「分かりました」
宮本先輩が頷く。
私には、その視線が一瞬だけ自分へ向いたように思えた。
片付けが終わる頃、講堂の外は夕焼けに染まっていた。
私は舞台袖でケーブルを巻いていた西村さんへ声をかける。
「手伝う」
「ありがとうございます」
二人で長いケーブルを輪にする。
「昨日は、ごめん」
私が言う。
「謝ることはありません」
「ある。西村さんが先輩を好きなのは嫌だって、本人に言った」
「聞きました」
「聞いたの?」
「宮本先輩が、嘘をつかずに説明してくださいました」
「どこまで」
「手を握ったことも」
「先輩」
舞台の反対側で椅子を運ぶ宮本先輩を睨む。目が合うと、にこやかに手を振られた。
「西村さんは、怒らないの?」
「どうしてですか」
「私が、あなたの好意を嫌だって」
「誰かに好かれている人を好きになれば、嫌がられる可能性はあります」
「それでも」
「佐久間さんは、私を追い出そうとはしませんでした」
「当然」
「それで十分です」
ケーブルの輪が一つ増える。
「私は、あなたが羨ましい」
言ってしまった。
「私を?」
「自分の気持ちを、言葉にできるから」
「言葉にしてから、間違いに気づくこともあります」
「それでも、言わなければ何も始まらない」
「佐久間さんも、昨日、言ったのでしょう」
「好きとは言ってない」
「嫌だ、と言うことも気持ちです」
西村さんの言葉は、ときどき逃げ道を塞ぐ。
「西村さん」
「はい」
「私は、先輩が好きなのかな」
「私に聞くのですか」
「聞くだけ。決めてもらうつもりはない」
西村さんは少し考えた。
「宮本先輩が私を選んだら、祝福できますか」
胸が縮む。
「……できないと思う」
「では、私と同じです」
「同じ?」
「私も、宮本先輩があなたを選べば、すぐには祝福できません」
穏やかな声だった。
「それでも、宮本先輩が決めたことなら受け入れます。時間はかかるでしょうけれど」
「強いね」
「弱いから、先に決めているんです」
「何を」
「相手の答えを尊重する、と」
ケーブルを巻き終える。
西村さんは結束帯を留めた。
「私は、先輩が好きです。佐久間さんのことも、好きになりました」
「どういう意味で?」
「今は、友人として」
「今は?」
「江口さんに怒られそうだから、冗談です」
「西村さんも冗談を言うんだね」
「この学校で覚えました」
笑い合った。
その時、舞台上から梓の声が飛んでくる。
「千尋! 真白を口説かないで!」
「聞こえていたんですか」
「カメラは音も拾うの!」
「録音許可、出してないよ」
「今のは機材テスト!」
「梓!」
私が追いかけると、梓は笑いながら客席へ逃げた。
西村さんも笑っている。
宮本先輩だけが、なぜか少し不満そうな顔で私たちを見ていた。




