第二巻 幕間 言葉を選ぶ夜
その夜、宮本莉々香は自室の机で、公開放送の台本を開いていた。
同じ行を、もう十分ほど見ている。
『好きな人へ、かわいいと言えません。どうしたらいいですか』
明後日の公開放送で紹介する、匿名の相談だった。
以前の自分なら、迷わず答えられた。
かわいいと思った時に、かわいいと言えばいい。好きなところを見つけたら、好きだと伝えればいい。
言葉は、もらえれば嬉しいものだと思っていた。
莉々香は、幼い頃から人の顔を覚えるのが得意だった。
髪を切ったこと、新しい筆箱、昨日より上手にできた音読。気づいたことを口にすると、相手は大抵笑った。
だから言った。
笑ってほしくて、言った。
それで誰かが泣いたり、友人同士で争ったり、自分へ恋愛の返事を求めたりするとは、去年まで本当に分かっていなかった。
人気者だと言われても、今でも実感が薄い。
体育館へ集まった四十人を見た時は、怖いより先に、申し訳ないと思った。自分が知らないあいだに、四十人分の期待が積み上がっていた。
その期待へ、何を返せばいいのか分からない。
真白は、何も返さなくていいと言った。
ただ、相手を見て、言葉がどう届いたのかを考えればいいと。
西村千尋も、同じことを別の言い方で教えてくれた。
褒め言葉は、褒め言葉のまま受け取る。恋愛の気持ちは、恋愛の気持ちとして自分から伝える。
二人は似ていない。
それなのに、莉々香が曖昧にしてきたものを、どちらも見逃してくれない。
スマートフォンが震えた。
文香からだった。
『明日のリハーサル、予定どおり実施します。今日は早めに休んでください』
生徒会長らしい文面の下に、もう一通届く。
『追伸。佐久間さんとは、きちんと話せましたか』
莉々香は返信する。
『話したよ。真白ちゃんは、西村さんが私を好きなのが嫌なんだって』
送った直後、既読がついた。
返事は来ない。
一分後。
『すみません。少し心を整えていました』
『大丈夫?』
『大丈夫ではありませんが、大丈夫です』
『どっち?』
『生徒会長としては大丈夫です』
意味が分からない。
莉々香は笑いながら、次の文を打った。
『私も、真白ちゃんが西村さんと仲がいいと、少し嫌かも』
また既読だけがつく。
今度は二分待った。
『宮本さん』
『なに?』
『その気持ちは、佐久間さんご本人へお伝えください』
『言おうとしたけど、真白ちゃん、帰っちゃった』
返信が途絶えた。
電話をかけると、三度目の呼び出しで文香が出た。
『……もしもし』
「文香、具合悪い?」
『いいえ』
「声、震えてる」
『進路について考えていました』
「私と真白ちゃんの話じゃなくて?」
『違います』
「でも今、真白ちゃんが何て言ったか、聞きたそう」
『聞きたくありません』
「聞きたい顔してる」
『電話です』
「声に出てる」
電話の向こうで、文香が深く息を吐いた。
『莉々香』
名前で呼ばれる。
二人きりの時、文香は時々、昔と同じ呼び方をする。
『私は、あなたのファンです』
「知ってる」
『知った上で、忘れてください』
「難しいよ」
『努力してください。私は二人が近づくことを嬉しく思いますが、その気持ちを理由に、あなたたちの答えを急がせたくありません』
「うん」
『西村さんの気持ちも、私たちが楽しむための物語ではありません』
「文香は、楽しいの?」
『……時々』
正直な答えに、莉々香はまた笑った。
『それでも、莉々香が自分で決めることです』
「私、分からない」
『何がですか』
「西村さんに好きって言われると、恥ずかしいけど嬉しい。真白ちゃんが嫌だって言うと、それも嬉しかった。でも、二人とも傷つけたくない」
『誰も傷つけずに恋愛をする方法を、私は知りません』
「百合に詳しそうなのに」
『何のことでしょう』
「会長の机に漫画、あったよ」
『あれは小田さんの忘れ物です』
「ひよりちゃんが、名前も書いてない本を置いていくかな?」
『よい作品でした』
「読んだんだ」
文香が咳払いする。
『創作と現実は違います。現実では、正しい組み合わせを外から決めることはできません』
「うん」
『傷つけないことだけを考えれば、何も選べなくなります。大切なのは、傷つけた時に逃げないことではないでしょうか』
「文香なら、どうする?」
『答えません』
「どうして」
『今の私は、生徒会長よりファンに近いからです』
それを自分で言えるところが、文香らしい。
「ありがとう」
『私は何も』
「話してくれた」
『友人ですから』
「文香、そういう真面目なところ、好きだよ」
電話の向こうが無音になった。
「文香?」
『切ります』
「怒った?」
『耐えられないだけです』
「何に?」
『おやすみなさい!』
通話が切れた。
莉々香は画面を見て、首を傾げた。
数秒後、文香から短いメッセージが届く。
『今の「好き」は友人として、と理解しています』
莉々香は考える。
文香の好きは分かる。長い友人として、信頼している。
ひよりへの好きも分かる。素直で優しい後輩として。
梓は少し分かりにくい。自分を拝むようなことを言うくせに、真白を傷つければ、きっと自分へ本気で怒る。
千夏のことは、これから知っていきたいと思う。
千尋の好きは、はっきりしている。
では、真白への好きは。
「分からないなあ」
声に出す。
でも、分からないままでいたいとは思わなかった。
真白が自分のことで悩み、嫉妬したことを嬉しいと思った。
真白が千尋と笑うと、胸が落ち着かなかった。
眠る時にそばにいてほしいと思う。
卒業しても会いたい。
それを全部「友達だから」で片づけることが、少しずるい気がし始めている。
莉々香は台本へ目を戻した。
相談への答えの余白へ、ボールペンで書き込む。
『言った後、相手を見る。相手の答えを、先に決めない』
字はあまり綺麗ではない。
真白なら、行間が狭いと赤い付箋を貼るだろう。
それを想像すると、会いたくなった。
メッセージを開く。
『明日、少し早く来られる?』
打って、消した。
もう夜だ。真白はきっと、明日の運営に備えて休んでいる。
代わりに、台本の写真を送った。
五分後、返信が来る。
『行間が狭いです。明日、書き直してください』
思ったとおりだった。
その下に、もう一文。
『でも、内容はよいと思います』
莉々香はしばらく、その短い文章を見ていた。
『ありがとう。真白ちゃん、そういうところ好き』
今度は消さずに送る。
既読がつき、返事が来るまで三分かかった。
『明日は八時半に講堂です。遅れないでください』
答えになっていない。
それでも、文面の向こうで真白が赤くなっている気がした。
莉々香は机へ頬杖をつき、笑った。




