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第二巻 第十章 言えなかった答え

 翌日、私は放送室へ行かなかった。

 台本確認は生徒会の仕事である。自分で予定表へ書き込み、会長にも報告していた。

 それでも、行かなかった。

 代わりにひよりへ頼み、確認済みの箇所へ付箋を貼ってもらった。

「真白ちゃん、具合が悪いんですか?」

「仕事が重なった」

「でも、今日は書類、少ないですよ」

「備品庫の整理がある」

「昨日、終わりました」

「議事録の確認」

「会長が午前中に」

「ひより」

「はい」

「少しだけ、一人にして」

 ひよりは目を瞬き、静かに頷いた。

「お茶、ここへ置きますね」

「ありがとう」

「甘いものも」

 机の端へ、小さな包みを置く。

「何も聞かないんだね」

「聞いてほしい時は、真白ちゃんから話してくれると思うので」

 優しい。

 宮本先輩とは違う形で、ひよりは人の気持ちをそのまま受け止める。

「ひよりは、宮本先輩が好き?」

「はい!」

 迷いのない返事だった。

「どういう意味で?」

「素敵な先輩としてです。放送も好きですし、いつも人のよいところを見つけてくださるところも」

「恋愛じゃなくて?」

「たぶん、違います」

「たぶん」

「恋愛をしたことがないので、絶対とは言えません。でも、宮本先輩に恋人ができたら、幸せになってほしいと思います」

「相手が西村さんでも?」

「はい。真白ちゃんでも」

「なんで私が出るの」

「違いましたか?」

 純粋な目で聞かれると、怒ることもできない。

「違う」

「そうですか」

 ひよりは本当に残念そうでも嬉しそうでもなく、事実として受け取った。

「でも、真白ちゃんは宮本先輩のお話をする時、少しだけ声が変わります」

「変わりません」

「柔らかくなります」

「説教の話ばかりですよ」

「それでもです」

「ひよりまで、会長みたいなことを」

「会長は、もっと楽しそうです」

「知っています」

 ひよりが部屋を出た後、私はしばらくお茶を見ていた。

 西村さんが宮本先輩を好きなのが嫌なのか。

 嫌だ。

 認めてしまえば、驚くほど簡単だった。

 西村さんが嫌いなわけではない。むしろ、彼女のまっすぐさを尊敬している。だからこそ、怖い。

 私が立ち止まっているあいだに、彼女は宮本先輩を知っていく。

 先輩も彼女を知り、いつか同じ意味の「好き」を返すかもしれない。

 それを想像すると、胸が痛む。

 では私は、宮本先輩を恋愛として好きなのか。

 そこまで考えると、また足が止まった。

 好き、と口にするだけで、何かが決まってしまう気がする。

 監視役という安全な場所へは戻れなくなる。

 机へ伏せそうになった時、扉が開いた。

「真白ちゃん」

 顔を上げる。

 宮本先輩が立っていた。

「ノックしてください」

「したよ。三回」

「聞こえませんでした」

「考え事?」

「仕事です」

 先輩は室内を見回した。

「ひよりちゃん、台本を持ってきてくれた」

「そうですか」

「真白ちゃんが忙しいって」

「はい」

「何の仕事?」

「いろいろです」

「机の上、お茶とクッキーしかないけど」

「これから始めます」

 先輩は私の向かいへ座った。

「怒ってる?」

「怒っていません」

「私に?」

「怒っていません」

「西村さんに?」

「違います」

「自分に?」

 答えられなかった。

 先輩は急かさず、待っている。

「昨日は、すみませんでした」

 私が先に言った。

「何が?」

「あのような言い方をして」

「嫌だって言ったらどうする、って?」

「はい」

「まだ答え、考えてる」

「考えなくて結構です」

「私が考えたいの」

 先輩の声が低くなる。

 放送の時とも、誰かを褒める時とも違う、私へだけ届く声。

「真白ちゃんが嫌なら、西村さんと話さない、とかはできない。放送部の仲間だし、私も西村さんを知りたい」

「当然です」

「でも、真白ちゃんが嫌だと思ってることを、何も知らないままにはしたくない」

「なぜですか」

「大事だから」

 簡単に言われた。

 先輩にとっての「大事」が、恋愛ではないことは分かっている。

 それでも、胸の痛みが少しほどける。

「私は」

 声が震えそうになり、一度止めた。

「西村さんが先輩を好きなのが、嫌です」

 先輩の目が大きくなる。

「どうしてかは、まだ分かりません」

 嘘だった。

 全部ではなくても、もう分かり始めている。

「西村さんが嫌いだからではありません。先輩に近づく人を、全員嫌だと思うわけでもない。ただ、西村さんが先輩を恋愛として好きだと言うと、落ち着かないんです」

「うん」

「監視役として不適切です」

「今、それ関係ある?」

「あります。公平でいなければ」

「真白ちゃんは公平だよ」

「昨日は、西村さんへ強く言いすぎました」

「守ってたでしょう」

「そのあとです」

「それでも」

 先輩は机越しに手を伸ばしかけ、止めた。

 私が触れられたくないかもしれないと考えたのだろう。

 その躊躇いが、この人の変化だった。

「手、どうしたんですか」

「握ってもいい?」

 聞かれてしまうと、余計に恥ずかしい。

「なぜ」

「真白ちゃん、泣きそうだから」

「泣きません」

「じゃあ、私が握りたい」

「それは理由になっていません」

「だめ?」

 私は手のひらを上へ向けた。

 先輩の指が重なる。

 温かい。

 握るというより、確かめるような触れ方だった。

「私も、真白ちゃんが誰かに取られそうだと、嫌かも」

「誰に取られるんですか」

「分からないけど」

「意味も分からず同じことを言わないでください」

「同じじゃない?」

「違います」

「そっか」

 先輩は少し笑った。

「でも、嫌って言ってくれて嬉しかった」

「喜ばないでください」

「真白ちゃんが、私のことでわがままを言うの、初めてだから」

「わがままでは」

「じゃあ、お願い?」

「何もお願いしていません」

「してくれてもいいよ」

 握られた手が熱い。

「今は、ありません」

「いつかできたら言ってね」

「先輩にできることなら」

「うん」

「でも、西村さんへの態度を変える必要はありません」

「分かりました」

「公開放送も、二人で成功させてください」

「真白ちゃんも一緒にね」

「私は舞台袖です」

「それでも、一緒」

 先輩の指に、少し力が入った。

 その時、扉の外で何かが倒れる音がした。

 私は手を引き、扉を開ける。

 会長と梓と南が、折り重なって床に倒れていた。

「何をしているんですか」

「廊下を歩いていたら、急に扉が」

「三人で耳を当てていましたね」

「私は止めようと」

 会長が立ち上がる。

 目元を押さえている。

「泣いているんですか」

「埃が」

「廊下は今朝、掃除しました」

「心の埃です」

「意味が分かりません」

 梓は私と宮本先輩を見比べた。

「手、握ってた?」

「握っていません」

「見えたよ」

「幻です」

「真白ちゃん、嘘はよくないよ」

「先輩は黙ってください」

 南は床に落とした手帳を拾い、ものすごい速さで書いている。

「没収します」

「待って、これは歴史的瞬間」

「個人の会話です」

「記事にはしない。創作の参考」

「余計に駄目です」

 会長が私の肩へ手を置いた。

「佐久間さん」

「何ですか」

「よく、言えましたね」

 からかいではない、優しい声だった。

 私は反射的な文句を飲み込む。

「……聞いていたんですね」

「申し訳ありません」

「本当に」

「ただ、生徒会長として一つ」

「何でしょう」

「監視役が個人的な感情を持つことと、公平に職務を行うことは、両立します。感情がないことが公平なのではありません。自分の感情を知った上で、判断を委ねないことが大切です」

「会長」

「私が、よい例でしょう」

「最後で台無しです」

「推しへの情熱を抱えながら、公平な生徒会運営を」

「会員証を隠しています」

「公私を分けています」

「公開放送の入場券を職権で確保しようとしました」

「未遂です」

「私が止めたからです」

 宮本先輩が笑う。

「文香、真白ちゃんに怒られてばっかりだね」

「宮本さん。その呼び方は今、少し」

 会長が胸元を押さえた。

「同級生でしょう」

「分かっています。しかし、親しい呼び方を直接聞くと」

「会長。廊下へ戻ってください」

「はい」

 私は三人を追い出した。

 扉を閉める直前、梓が親指を立てる。

「真白、今日だけはよくやった」

「何もしてない」

「信仰上、複雑だけどね」

「早く行って」

 扉を閉める。

 背後で宮本先輩がまだ笑っていた。

「楽しそうですね」

「うん」

「私は疲れました」

「でも、顔はさっきより柔らかい」

「先輩のせいです」

「それ、嬉しいな」

 また簡単に喜ぶ。

 私は机の上の台本を取った。

「確認を始めます。遅れていますから」

「はい、監視役さん」

「その呼び方もやめてください」

「じゃあ、真白ちゃん」

「……それで結構です」


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