第二巻 第九章 好きな人を守る方法
公開放送の入場券は、配布開始から二十分で予定枚数に達した。
講堂の定員は百八十名。運営席と出演者の関係者席を除く、一般席は百五十席だった。
千夏先輩が用意した学年別の配布窓口は完璧に機能し、廊下に列が伸びることもなかった。
「すごいですね」
私が素直に言うと、千夏先輩は腕章を直した。
「当然よ。去年の反省を活かしただけ」
「今回は入場案内を学年ごとに時間差で配信したんですね」
「一斉だと受付へ人が集中するから」
「成長しています」
「上から言わないで」
「褒めたつもりですが」
「佐久間さんの褒め方は、叱責に聞こえるのよ」
「宮本先輩を見習いますか」
「それは無理」
即答だった。
千夏先輩は入場券の残数を確認する。
「問題は、落選した会員ね」
「抽選ではなく先着です」
「出遅れた会員の中で、当日、講堂前へ集まろうという話が出ている」
「止めてください」
「もう通知した。でも、会員でない生徒までは管理できない」
「十分です。ありがとうございます」
「宮本さんのためだから」
「本人へ言えばいいのに」
「言う必要はない」
「そうですか」
「……今のは、冷たいという意味ではなく」
「分かっています」
千夏先輩なりの距離だ。
遠くから見ることしかできなかった頃とは、もう違う。話しかけられれば答えるし、必要なら隣にも立つ。それでも、自分の働きを宮本先輩に褒めてもらうための道具にはしない。
「高橋先輩は、宮本先輩をアイドルだと思っていますか」
「そうね」
「一人の生徒としてではなく?」
千夏先輩は少し考えた。
「アイドルとして見ていたほうが、安全だったのよ」
「安全?」
「勝手に好きでいて、勝手に応援するだけなら、拒絶されない。近づかなければ、嫌われることもない」
意外な言葉だった。
「西村さんは、怖くないのかしらね」
「何がですか」
「本人を知ったうえで、嫌われるかもしれないことが」
「怖いと思います」
「そうは見えない」
「怖くても、言う人なんです」
「詳しいのね」
「何度か話しましたから」
「監視役として?」
「……はい」
少し間が空いた。
千夏先輩が、珍しく笑う。
「便利ね、監視役」
「南と同じことを言わないでください」
けれど、公開放送の一週間前には、実施そのものが揺らいでいた。
放送室の扉へ、一枚の紙が貼られていた。
『西村千尋は宮本莉々香を利用している』
手書きではなく、印刷された文字だった。
朝一番に見つけた放送部員が剥がし、生徒会へ届けた。見た生徒は少なかったが、写真が学校の生徒の使う匿名掲示板にも上がっていた。
「投稿者は特定できますか」
生徒会室で私が尋ねると、会長は首を振った。
「学校外のサービスです。先生方には削除依頼を出していただきました」
「内容は広まっています」
「はい」
紙には、転校生である西村さんが学校で居場所を作るため、人気のある宮本先輩へ近づいたと書かれていた。放送部へ入ったのも、公開放送の司会に選ばれたのも、すべて最初からの計算だと。
「馬鹿みたい」
梓が低い声で言った。
机の前に立ち、紙を睨んでいる。
「西村さんは、こんな回りくどい計算をする人じゃない。利用するなら、もっと上手くやる」
「擁護になっていますか、それ」
「褒めてない」
「分かっています」
千夏先輩はファンクラブの連絡掲示板を開いていた。
「会員の投稿だとは思わない」
「根拠は」
「昨日までの書き込みは一通り見た。西村さんを快く思っていない者はいるけれど、こういう話を広げようとしていた人はいない」
「会員外の可能性もあります」
「もちろん。だから断定はしない」
会長が紙を封筒へ入れた。
「犯人探しは先生方へ任せます。私たちは、西村さんと宮本さんの安全、公開放送の実施可否を検討します」
「中止するんですか」
梓が聞く。
「二人が望むなら、延期も含めて考えます」
「それじゃ、書いた人の思いどおりでしょう」
「実施することが西村さんを傷つけるなら、意地で続けるべきではありません」
「でも」
「江口さん」
会長の声は柔らかいが、強かった。
「守るとは、私たちが正しいと思う形へ押し込むことではありません」
梓が口を閉じる。
会長は机の上へ手を置いた。
「宮本さんを理想像として消費することも、西村さんを物語の悪役にすることも、同じです。本人が選べるようにする。それが先です」
「会長が言うと、重みがありますね」
私が言うと、会長は少し眉を上げた。
「どういう意味ですか」
「古参会員なので」
「今は真面目な話をしています」
「私も真面目です」
「真白、そこは黙ってようよ」
梓にまで止められた。
会長の言葉なら、私は信用できた。
莉々香先輩を好きでいる気持ちを、先輩自身の負担に変えない人だからだ。
「二人には、私から話します」
私は言った。
「佐久間さん一人で?」
「放送室へ行きます。会長が行けば、話が大きくなります」
「もう大事です」
「それでもです」
会長は少し考え、頷いた。
「お願いします」
「真白、私も」
「梓は待っていて」
「でも」
「怒ったまま、西村さんを守ろうとしないで。今は、二人がどうしたいかを聞くから」
梓は唇を結んだ。
「……分かった」
小さな返事だった。
放送室には、宮本先輩と西村さんだけがいた。
二人とも、すでに紙のことを知っていた。
「公開放送、どうする?」
私は単刀直入に聞いた。
「やるよ」
宮本先輩が答える。
「西村さんは」
「出演します」
「無理してない?」
「していません」
「嫌なら、延期できる」
「嫌です」
西村さんの声が、初めて鋭くなった。
「私が逃げたと思われるから、ではありません」
すぐに続ける。
「私は、この学校で初めて、自分から入りたい部活を選びました。宮本先輩と放送をしたいと思いました。けれど、それだけではありません。部長に技術を認めていただいて、司会を任されました」
「はい」
「そのことを、誰かの言葉で手放したくありません」
「分かった」
「信じるのですか」
「何を」
「私が、宮本先輩を利用していないと」
「信じるも何も、見てるから」
西村さんが黙る。
「先輩に近づくために放送部を選んだ。それは事実でしょ。でも、練習をして、仕事を覚えて、任された役目を果たしてる。利用してるだけなら、原稿の一文字にあれほど悩まない」
「佐久間さん」
「それに」
私は一度、息を吸った。
「誰が誰を、どんなふうに好きになるかを、周りが決めていいわけじゃない」
口にすると、胸の奥が痛んだ。
「真白ちゃん」
宮本先輩の声がする。
私は先輩を見なかった。
「ただし、先輩が嫌がることをすれば止める。会員でも、西村さんでも同じ」
「はい」
「会長には、二人が実施を望んでいると伝える。安全対策を増やして、実施する方向で進めるから、二人は台本に集中して」
「ありがとうございます」
西村さんは深く頭を下げた。
顔を上げたとき、目の縁が少し赤かった。
泣いてはいない。
たぶん、この人は簡単には泣かない。
「西村さん」
宮本先輩が呼ぶ。
「私も、利用されたなんて思ってないよ」
「……はい」
「もし利用してても、放送が上手くなるなら、少しくらい」
「先輩」
「冗談」
「今は冗談を言う場面ではありません」
「ごめんなさい」
西村さんが吹き出した。
「宮本先輩らしいです」
「褒められた?」
「半分は」
「残り半分は?」
「呆れました」
「そっか」
二人が笑う。
私はようやく、肩の力を抜いた。
「真白ちゃん」
宮本先輩が私へ近づいた。
「ありがとう」
「仕事です」
「うん。でも、ありがとう」
「……はい」
「さっきの、格好よかった」
「褒めなくて結構です」
「西村さんが私を好きでも、悪くないって言ったところ」
「一般論です」
「でも、ちょっと苦しそうだった」
息が詰まる。
先輩は、私の顔を覗き込んだ。
「真白ちゃんは、嫌?」
「何がですか」
「西村さんが、私を好きなの」
逃げられない問いだった。
私は指先を握る。
「嫌だと言ったら、どうするんですか」
問い返すと、先輩が固まった。
「それは」
「困るでしょう。だから、聞かないでください」
「真白ちゃん」
「台本の確認は明日です。失礼します」
扉へ向かう。
「佐久間さん」
西村さんに呼び止められた。
「私が宮本先輩を好きでいることは、あなたを傷つけていますか」
振り返れなかった。
「分からない」
それだけ答え、放送室を出た。
廊下の窓から、雨上がりの光が差していた。
胸の棘は、もう名前をつけずに済ませられるほど小さくなかった




