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第二巻 第八章 声に似た記憶

六月の半ば、西村さんが放送中に原稿を読み飛ばした。

 ほんの一行だった。

 次の音楽紹介へ自然に繋げたため、教室で聞いていた生徒のほとんどは気づかなかっただろう。

 けれど、放送室で立ち会っていた私は見た。

 原稿の余白にある『家族から届いた、忘れられない言葉』という次回予告を見た瞬間、西村さんの指が止まったのを。

「お疲れさま」

 放送終了のランプが消え、宮本先輩がヘッドホンを外した。

「西村さん、最後のところ、大丈夫?」

「はい。行を一つ見失いました」

「珍しいね」

「すみません」

「謝らなくていいよ。ちゃんと繋がってたし」

 宮本先輩は、そこで言葉を切った。

 以前なら「そういう冷静なところ、好き」と続けていたかもしれない。

 西村さんの反応を見て、言わなかった。

「今日は、少し疲れてる?」

「いいえ」

「何かあったなら」

「ありません」

 西村さんは原稿を揃えた。

 あまりに綺麗に角を合わせるので、かえって不自然だった。

「次の授業がありますから、先に失礼します」

「西村さん」

「午後の練習には戻ります」

 一礼して、放送室を出ていく。

 宮本先輩が扉を見つめた。

「何か、言い方を間違えたかな」

「先輩のせいではないと思います」

「でも」

「追いかけないんですか」

「追いかけてほしくない顔だったから」

 先輩はそういうところだけ、よく見ている。

 だから余計に、本人の自覚がないまま人を惹きつける。

「真白ちゃんは、何か知ってる?」

 屋上前で聞いた話が頭をよぎる。

 父親の転勤。何度も変わった家。いなくなった母親。優しい声は帰る場所に似ているという言葉。

「私からは話せません」

「そっか」

「本人に聞いてください」

「聞いていいのかな」

「それも、先輩が決めることです」

「真白ちゃん、最近そればっかり」

「先輩が自分で決めないからです」

「決めてるよ」

「では、どうするんですか」

 宮本先輩は少し考えた。

「午後まで待つ」

「はい」

「戻ってきたら、いつもどおりにする」

「それで?」

「話したそうなら聞く。話したくなさそうなら、発声練習する」

「よいと思います」

「真白ちゃんが褒めてくれた」

「判断を肯定しただけです」

「嬉しい」

 笑顔を向けられる。

 その笑顔が誰にでも向けられるものだと、私は知っている。

 なのに、自分へ向けられた時だけは、少し違うと思いたくなる。

「先輩」

「何?」

「西村さんのことを、どう思っていますか」

 先輩は瞬いた。

「急だね」

「答えたくなければ、結構です」

「気になるよ」

「好きですか」

「友達として?」

「……どちらでも」

 聞いたくせに、心臓がうるさい。

「好きだよ。真面目で、一緒に放送すると楽しいし。たまに寂しそうだから、放っておけない」

「恋愛としては」

「分からない」

 先輩は逃げずに答えた。

「私、誰かをそういうふうに好きになったことがないから。西村さんに好きって言われると、嬉しい。でも、同じものを返せるかは分からない」

「そうですか」

「真白ちゃんは?」

「なぜ私に返すんですか」

「誰かを恋愛で好きになったこと、ある?」

「ありません」

 即答した。

 先輩が私を見る。

「今も?」

「どういう意味ですか」

「そのまま」

「ありません」

 二度目は、少し遅れた。

「そっか」

 宮本先輩は、なぜか寂しそうに笑った。

 その理由を聞く前に予鈴が鳴る。

「授業へ戻りましょう」

「うん」

 私は先に扉へ向かった。

 これ以上、顔を見られたくなかった。


 午後、西村さんは約束どおり練習へ戻った。

 宮本先輩は何も聞かず、いつもの発声練習を始めた。

「あめんぼ赤いな、あいうえお」

「浮藻に小蝦も泳いでる」

 二人の声が重なる。

 同じ文章でも、まるで違う音になる。

 宮本先輩の声は明るく、温度がある。西村さんの声は静かで、輪郭が綺麗だ。

 練習が一段落した頃、宮本先輩が古い音源ファイルを開いた。

「去年の文化祭の放送、聞いてみる?」

「はい」

「西村さんが聞いたの、どれだろう」

 スピーカーから、ざらついた環境音が流れる。文化祭当日の臨時放送だ。

『迷子のお知らせです。赤いリボンをつけた、小学校一年生の――』

 今より少し高い、宮本先輩の声。

 西村さんの肩が揺れた。

「これです」

「本当に?」

「はい」

 先輩は音量を少し上げた。

『大丈夫です。お姉さんが一緒にいます。お母さまは、放送室前の受付までお越しください』

 原稿にはない言葉だったのだろう。後半だけ、声が柔らかくなる。

 西村さんは目を閉じた。

「西村さん?」

「母の声を、私はほとんど覚えていません」

 突然の告白だった。

 先輩は黙って、続きを待つ。

「顔は写真で知っています。でも、声は残っていない。父も、録音は持っていませんでした」

「うん」

「だから、宮本先輩の声が母に似ているわけではないんです」

「そっか」

「似ているはずがないのに、初めて聞いた時、懐かしいと思いました」

 西村さんは目を開けた。

「帰ってもいい、と言われた気がしたんです」

 放送室が静かになる。

 窓の外で、雨が降り始めていた。

「それで、私を好きになったの?」

 宮本先輩の問いは、優しかった。

「最初は、そうだったのかもしれません」

「今は?」

「分かりません」

 西村さんは、初めてその言葉を怖がっていた。

「私は、先輩を見ているつもりです。でも、先輩の中に、自分が欲しかったものを見ているだけかもしれない」

「それでも、いいんじゃないかな」

「いいのですか」

「最初に好きになる理由って、たぶん、勝手でしょう」

 宮本先輩が微笑む。

「声が好きでも、顔が好きでも、優しくされたからでも。そこから、その人の嫌なところとか、思ってたのと違うところを知って。それでも一緒にいたいか考えるんじゃない?」

「先輩は、それをしたことがあるのですか」

「ないけど」

 西村さんが、ほんの少し笑った。

「説得力がありません」

「ごめん」

「でも、ありがとうございます」

「うん」

「やはり、好きです」

「今言う?」

「今だからです」

 宮本先輩が赤くなる。

 私は二人から目を逸らした。

 ここにいるべきではなかった気がする。

「真白ちゃん」

 呼ばれる。

「何ですか」

「帰らないでね」

「まだ何もしていません」

「今、帰ろうとしたでしょう」

「二人で話したほうが」

「いてほしい」

 また、簡単にそういうことを言う。

「監視役だからですか」

「違うよ」

「では、なぜ」

 宮本先輩は少し困った。

「真白ちゃんだから」

 説明になっていない。

 でも、その言葉だけで足が止まった。

 西村さんが私を見る。

 悲しそうでも、悔しそうでもない。

 ただ、何かを確かめた目だった。



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