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第二巻 第七章 雨宿りと信仰上の敵

 梅雨に入ると、放送部の公開収録準備は本格化した。

 私が放送室へ行く回数は、南の記録によれば五月の一・三倍になったらしい。

 聞いていないのに教えられた。

「つまり、嫉妬も一・三倍」

「業務量です」

「便利な言葉だね、業務」

「南にとっての取材と同じでしょう」

「私は自分の好奇心を仕事だと偽ってないよ」

「新聞部の活動でしょう」

「半分は」

「残り半分を自覚しているだけ、会長よりましですね」

「会長、何かしたの?」

「公開放送の司会台本を、保管用と称して三部複写していました」

「一部、売ってくれないかな」

「南も同類でした」


 その日の放課後、急に雨が降った。

 放送室で台本を確認していた私は、生徒会室へ戻るため廊下へ出たところで、窓を打つ激しい音に足を止めた。

「傘、持ってきた?」

 隣で宮本先輩が聞く。

「折り畳みがあります」

「さすが真白ちゃん」

「先輩は?」

「朝、晴れてたから」

「天気予報を見てください」

「真白ちゃん、入れてくれる?」

「方向が違うでしょう」

「途中まで」

「仕方ありませんね」

「ありがとう。そういうところ、好き」

「今のは、貸さない選択肢をなくす言い方です」

「じゃあ、貸してくれなくても好き」

「訂正になっていません」

 先輩が笑う。

 放送室の中から西村さんが出てきた。鞄を持ち、紺色の傘を手にしている。

「宮本先輩。よろしければ、私の傘へ」

「西村さんも方向、逆じゃなかった?」

「送ります」

「でも」

「デートです」

「雨の中を歩くだけだよ」

「私はデートだと思っています」

 いつかと同じ理屈だった。

 宮本先輩が私を見る。

「真白ちゃん、どうしよう」

「好きにしてください」

「またその言い方」

「何ですか」

「ちょっと冷たい」

 胸が痛む。

 先輩が誰の傘に入るかなんて、私には関係がない。そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。

「……私の傘は小さいです」

「うん」

「二人だと濡れます」

「うん」

「西村さんの傘のほうが大きそうです」

「では、三人で駅まで行きましょう」

 西村さんが言った。

「三人?」

「佐久間さんも。傘は二本あります」

「私は生徒会室へ」

「会長から、今日は直帰していいと聞きました」

「いつの間に」

「先ほど廊下でお会いして」

「会長が何か吹き込みましたね」

「『雨の相合傘は古典ですが、よいものです』と」

「あの人は」

 私は生徒会室の方向を睨んだ。

 その頃、くしゃみでもしていればいい。


 結局、私たちは三人で昇降口へ向かった。

 そこで、傘立ての前に立ち尽くす梓を見つけた。

「傘がないの?」

「盗まれた」

「間違えて持っていかれたんでしょう」

「名前、大きく書いてたのに」

「どんな傘ですか」

「白地に星の模様」

「それなら、さっき一年生が職員室へ届けていましたよ」

 ひよりが教室側からやって来た。彼女は黄色い大きな傘を持っている。

「骨が一本折れていたので、先生が預かってくれました」

「朝は無事だったのに」

「風で飛ばされたみたいです」

「今日の帰り、どうしよう」

「私の傘へ入りますか?」

「ひよりちゃん!」

 梓が抱きつく。

「黄色い傘の天使……」

「苦しいです」

 そこへ千夏先輩が来た。黒い傘を二本持っている。

「予備があるわ」

「なぜ二本も」

「運営責任者は不測の事態へ備えるものよ」

「公開放送は来月です」

「習慣」

 梓が一本を受け取る。

「ありがとうございます。高橋先輩は?」

「もう一本がある」

「では解決ですね」

 私が言うと、宮本先輩が少し残念そうにした。

「みんなで帰れると思ったのに」

「方向が違います」

「駅までは同じだよ」

 気づけば、六人で駅へ向かうことになった。

 傘は四本。

 ひよりと梓。千夏先輩は一人。西村さんの傘に宮本先輩。そして私は一人。

 それが最も自然な組み合わせのはずだった。

「真白ちゃん、こっち来る?」

 宮本先輩が西村さんの傘の下から呼ぶ。

「狭くなります」

「西村さんの傘、大きいよ」

「三人は無理です」

「では、宮本先輩は佐久間さんの傘へどうぞ」

 西村さんが自然に身を引いた。

「いいの?」

「はい。お二人は話すことがありそうなので」

「ありません」

「真白ちゃんはないの?」

「先輩まで」

 宮本先輩が私の傘へ入ってくる。

 小さいと言ったのに。肩が触れそうな距離になった。

 反対側を歩く西村さんは、一人で傘を差している。

「西村さん」

「何でしょう」

「あなたも、こちらへ寄ってください。二本を近づければ濡れません」

「ありがとうございます」

 三人で並ぶ。二本の傘の縁が、ときどきぶつかった。

 前では梓が振り返り、複雑な顔をしている。

「あれは、ありなの?」

「何が」

 ひよりが尋ねる。

「莉々香様を巡る二人が、左右から」

「雨に濡れなくて、よかったですね」

「ひよりちゃんの世界は平和だね」

「はい」

 駅に着く頃には、雨脚がさらに強くなっていた。

 電車が一時運転を見合わせているという案内が流れ、改札前は人で溢れている。

「しばらく動かないみたい」

 宮本先輩が運行情報を見る。

「学校へ戻りますか」

「この雨だと、戻るのも大変だね」

「駅ビルで待ちましょう」

 千夏先輩が即座に全員を誘導した。

「三階の休憩スペースが空いているはず。階段は混むから、東側のエスカレーターを使う」

「本当に頼りになりますね」

「普通よ」

「去年の誕生祭を任せられた理由が分かります」

「任せられてはいないわ。私が企画したの」

「胸を張らないでください」


 休憩スペースの席を確保し、ひよりが売店で温かい飲み物を買ってきた。

 雨音と駅のざわめきの中、私たちは即席の放課後会議を始めた。

「公開放送の客席、三年生を先に入れる案は不公平だと思う」

 梓が言う。

「学年ごとに時間をずらすだけです。席は指定です」

「でも莉々香様と同じ三年生は、精神的な近さが」

「ありません」

「古参への敬意は?」

「会長が喜ぶだけです」

「会長は別格」

「何の格ですか」

 宮本先輩が笑った。

「私の放送を一番長く聞いてくれてるのは、文香かもね」

「知っていたんですか」

「ファンなのは去年知ったけど、一年の時から昼の放送の感想をくれてたから」

「会長は、最初から先輩へ直接話せたんですね」

 千夏先輩が小声で言う。

「うん。同じクラスだったし」

「そう」

「高橋さんも、今は話してくれるでしょう」

「必要があれば」

「必要がなくても話したいな」

 千夏先輩の顔が固まる。

「私と?」

「うん。去年のことも、まだちゃんとお礼を言えてないし」

「言われました」

「あれだけじゃ足りないよ。私のせいで大変だったでしょう」

「あなたのせいでは」

 千夏先輩は言いかけて、視線を落とした。

「半分くらいは、私が勝手にやったことだから」

「じゃあ、半分は私のせい?」

「違う。そういう意味では」

 宮本先輩が楽しそうに笑う。

「高橋さん、話すと面白いね」

「面白くありません」

「そういう真面目なところ、かわいい」

 千夏先輩が立ち上がった。

「お手洗いへ」

 機械のような歩き方で去っていく。

 梓が合掌した。

「高橋先輩、耐えて」

「先輩が追い詰めたんでしょう」

「褒めただけなのに」

「それで何人が追い詰められたと思っているんですか」

 宮本先輩は、少ししょんぼりした。

「ごめん」

「落ち込まないでください。高橋先輩は喜んでいます」

「そうなの?」

「限界を迎えただけです」

「それは大丈夫なの?」

「慣れてもらうしかありません」

 西村さんが、声を立てずに笑った。

「宮本先輩の周りには、いろいろな好きがありますね」

「西村さんのは、どれ?」

 宮本先輩が尋ねた。

「何度も申し上げています」

「恋愛、だよね」

「はい」

「まだ、私のことを知ってる途中?」

「はい」

「知って、違うと思ったら?」

「その時は、きちんとお伝えします」

「そっか」

「今のところ、知るほど好きになっています」

 宮本先輩は紙コップへ口をつけた。飲んでいるふりをして、表情を隠している。

 梓が私の横で震えていた。

「真白。私は今、何を信じれば」

「ひよりのクッキーでも信じたら」

「持ってきていますよ」

 ひよりが鞄から包みを出す。

「どうして」

「雨の日は、お腹が空くかと思って」

「ひよりちゃんを信じる」

 梓は即座に宗旨替えした。


 電車が動き始めた頃には、外は暗くなっていた。

 路線の違う千夏先輩とひよりが先に帰り、宮本先輩も反対側のホームへ向かう。

「真白ちゃん、また明日」

「はい。気をつけて」

「西村さんも」

「また明日、宮本先輩」

 先輩が手を振って去る。

 私と梓と西村さんは、同じ路線だった。

 混雑したホームで電車を待つ。

「西村さん」

 梓が不意に呼んだ。

「はい」

「私は、あなたが苦手」

「知っています」

「莉々香様を、私たちの理想から連れ出そうとしてるみたいで」

「宮本先輩は、最初から皆さんの理想の中にはいません」

 梓の眉が寄る。

「どういう意味」

「一人の人です。皆さんが作った星でも、像でもありません」

「そんなこと、分かってる」

「本当に?」

「分かってる!」

 強い声に、周囲の人が振り返った。

 梓は唇を噛み、声を落とす。

「分かってるよ。分かってるから、近づきすぎないようにしてる。莉々香様が困ることは、したくない」

「写真を展示したのに?」

「学校行事の写真だけ。隠し撮りはしてない。本人が嫌だって言った写真は使わない」

「そうですか」

「あなたは、好きって言えば何をしてもいいと思ってる?」

「思っていません」

「だったら」

「私は、断られたら引きます」

 西村さんの声は静かだった。

「宮本先輩が嫌だと言えば、部活以外では近づきません。好意に応える義務もないと分かっています」

「……ずるい」

「何がですか」

「そんなに正しいことを言われたら、嫌いにくい」

 西村さんが目を瞬く。

 梓は顔を背けた。

「でも、応援はしないから」

「構いません」

「莉々香様にふさわしいか、ずっと見る」

「お願いします」

「そこは嫌がってよ」

「江口さんは、よく見ている方ですから」

「何を」

「宮本先輩も。佐久間さんも」

 梓が私を見る。

「真白は、ついで?」

「どうでしょう」

「何、その含み」

 電車が入ってきた。

 風が三人の髪を揺らす。

 乗り込む直前、西村さんが小さく笑った。

「この学校へ来て、よかったです」

 その言葉を、私は覚えていた。

 後になって、何度も思い出すことになる。


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