終章 いつもの「好き」
三月半ば、誕生祭で使った最後の備品を体育館倉庫へ返却した。
外へ出ると、日はまだ高い。校庭の隅に残っていた雪もほとんど消え、風の中に湿った土の匂いが混じっている。
体育館裏の階段に、莉々香先輩が座っていた。
「宮本先輩。こんなところで何をしているんですか」
「放送部の片づけが終わったから、少し休んでた」
「風邪をひきますよ」
「真白ちゃんも座る?」
「私は生徒会室へ戻ります」
「一分だけ」
直接誘われたわけでもない。階段の空いている部分を示されただけだ。
私は少し迷い、一段離れて腰を下ろした。
「誕生祭、終わってからも放送部で話題になってる」
「匿名の有志が有名になったからですか」
「それもある。二人とも、もう匿名じゃないけど」
「最後まで匿名だと言い張っています」
「かわいいよね」
「本人たちの前で言わないでください」
「分かった」
先輩は素直に頷いた。
以前なら、なぜだめなのか尋ねただろう。少しずつでも、自分の言葉の届き方を考えるようになっている。
「真白ちゃん」
「はい」
「私、何も言わない方がいいのかな」
「何も?」
「かわいいとか、好きとか」
先輩は校庭を見たまま続ける。
「最近、言う前に考えるようになった。これを言ったら、また勘違いさせるかなって。そうすると、何を言えばいいか分からなくなる」
「言葉を捨てる必要はありません」
「でも、また誰かが困るかも」
「先輩の言葉で救われている人もいます。昼の放送を楽しみにしている人も、褒められて嬉しかった人も」
「喧嘩した人もいる」
「だから、相手と場所を考えてください。何か起きたら、知らないふりをせず向き合う。それで十分だと思います」
「難しいね」
「簡単ではありません」
「真白ちゃんは、いつも考えて話してる?」
「できるだけ」
「それで、あんなにかたいんだ」
「余計です」
先輩が笑う。
以前と変わらない笑い方に、少し安心した。
「監視役、最初は一か月くらいって話だったよね」
「はい。来週、文香会長と継続の必要性を検討します」
「終わるかもしれないんだ」
「問題が落ち着いていますから」
「そっか」
風が二人の間を通った。
役目が終われば、放送室へ行く理由はなくなる。廊下で見かけても、生活指導上の問題がなければ声をかける必要もない。
それが本来の状態なのに、胸の中に小さな空白ができた。
「寂しいですか」
先輩が私へ尋ねる。
「なぜ私が」
「私は寂しいから」
「また誤解される言い方を」
「いまは、真白ちゃんしかいないよ」
「そういう問題では」
いつもの言葉を最後まで言えなかった。
周りに誰もいなければ、言ってよいという話ではない。それでも、先輩が私にだけ向けた言葉だと思うと、否定する気持ちが少し弱くなる。
「真白ちゃんって、誰かが困ってると、本気で怒るよね」
「そうでしょうか」
「うん。私のことも、ファンクラブの子のことも、喧嘩した子のことも、全部ちゃんと見てる」
先輩は私へ顔を向けた。
「そういうところ、好きだよ」
反射的に注意しようとした。
しかし、声が出ない。
これまで相談に来た生徒たちも、同じだったのだろうか。
自分へ向けられた一言を、何度も思い返し、そこに特別な意味を探してしまう。
「……また、そういうことを」
「褒めただけだよ」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっています」
二度繰り返すと、先輩はそれ以上言わなかった。
校舎から、放課後を知らせるチャイムが聞こえる。
「生徒会室へ戻らないと」
「うん」
立ち上がった私へ、先輩が手を振った。
「またね、真白ちゃん」
「監視役が終われば、会う用事は減ります」
「用事がなくても会えばいいでしょう」
「先輩」
「それもだめ?」
何がだめなのか、うまく説明できなかった。
「……考えておきます」
「真白ちゃんが考えてる間、待ってる」
莉々香先輩は追いかけない。
返事を迫らず、階段に座ったまま私を見送った。
校舎へ戻る途中、私は何度も胸の中で繰り返していた。
そういうところ、好きだよ。
莉々香先輩にとっては、まだ、いつもの「好き」にすぎない。
私にとっても、そうであるはずだった。
けれど、その言葉だけが、春の近づく風の中で、いつまでも消えずに残っていた。
とりあえずここまで。続きは近いうちにかきます。




