第十一章 四十人ぶんの拍手
三月七日、午後二時四十分。
体育館前には、開始二十分前ですでに列ができていた。
参加者は一年生から三年生まで。制服の胸元に、受付で渡された小さな番号札を付けている。事前申込み三十八人。当日参加二人。合計四十人。
人数制限を設けてはいなかったが、最終的には予定どおりの数へ収まった。
「通路を空けて、二列でお待ちください。受付が済んだ方から入場できます」
私が案内すると、列は素直に動いた。
番号札を逆さに付けた一年生が目の前を通り、私は呼び止める。
「ちょっと待って。番号、ひっくり返ってる」
「あ、本当だ」
留め具を外して向きを直すと、その子は照れたように笑った。
「ありがとう、佐久間さん」
「どういたしまして。中では走らないでね」
「はーい」
妙に軽い返事を残し、彼女は友達のところへ戻っていった。
ファンクラブと聞いて心配していたが、ほとんどの生徒は普通だった。友達と小声で話し、記念品の栞を見せ合い、展示パネルを遠くから気にしている。
廊下で喧嘩をしていた二人の姿もあった。
今日はそれぞれ別の友人と来ている。目が合うと少し気まずそうにしたものの、互いに会釈を交わした。
「その後、問題ない?」
私が尋ねると、赤い箱を持っていた方が頷いた。
「はい。チョコも、順番を決めずに渡しました」
「二人とも同時に出したら、莉々香先輩が困ってました」
もう一人が笑う。
「宮本先輩から、何か言われた?」
「ありがとうって。それだけです」
声に落胆はなかった。
自分だけが特別だという期待を失っても、莉々香先輩を嫌いになったわけではないらしい。
「今日は喧嘩しないでね」
「もうしません」
「たぶん」
「たぶんを付けないで」
二人は笑いながら体育館へ入った。
午後二時五十五分。
莉々香先輩を迎えに、私は体育準備室へ向かった。
先輩は折り畳み椅子へ座り、膝の上で両手を組んでいた。放送の原稿を読むときでも見たことのない姿勢だ。
「宮本先輩、間もなく始まります」
「帰っていい?」
「昨日は全校放送より少ないと言っていましたよね」
「顔が見えると違った」
「まだ見ていないでしょう」
「廊下の列、見えた」
先輩は立ち上がり、準備室の小窓から体育館を覗いた。
ステージ前の椅子は、ほとんど埋まっている。後方の写真展示には人が集まり、側面の視聴覚ブースでは順番待ちができていた。
広い体育館の中では、四十人は決して多くない。それでも、一人の生徒の誕生日を祝うために集まった人数としては十分だった。
「……これ、みんな私のために来たの?」
「そうです」
「四十人くらいいない?」
「四十人です」
「私、四十人にも好かれてたの?」
「おそらく、実際にはもっとです」
莉々香先輩は小窓から離れ、壁へ背を預けた。
「へえ……大変だあ」
「いまさら他人事みたいに言わないでください」
「だって、まだ実感ないよ」
「あと五分で実感します」
「真白ちゃん、怖いこと言うね」
そう言いながら、先輩は制服の襟元を整えた。
鏡もないのに、前髪を指先で直す。
「変じゃない?」
「いつもどおりです」
「かわいい?」
「なぜ私に聞くんですか」
「監視役だから」
「関係ありません」
「じゃあ、後輩として」
答えを待つ目が、少しだけ不安そうだった。
「……よくお似合いです」
「何が?」
「制服が」
「毎日着てるけど」
「前髪も問題ありません」
「かわいいとは言ってくれないんだ」
「ご自分で分かっているでしょう」
「分かってないよ」
本当に分かっていないのかもしれない。
「大丈夫です」
私は言い直した。
「皆さんが会いたかった宮本先輩、そのままです」
先輩の目がゆっくり細められる。
「それ、うれしい」
体育館から、開会を告げるひよりの声が聞こえた。
私は準備室の扉を開く。
「行きましょう」
「うん」
先輩は一歩進み、私の隣で止まった。
「真白ちゃん」
「何ですか」
「隣にいてね」
「います」
今度は役目を付け足さずに答えた。
最初の十分間、莉々香先輩は舞台袖で待機した。
ひよりが司会を務め、千夏先輩が企画の趣旨を紙へ書いて渡す。自分で読む予定だったが、莉々香先輩が来ると知ってから声を出す自信を失ったらしい。
「本日は、校内放送文化振興会へご参加いただき、ありがとうございます」
ひよりは落ち着いていた。
「この催しは、放送部の活動と、私たちが日々耳にしている校内放送を振り返るため、有志によって企画されました。そして本日は、誕生日を迎えた放送部員の宮本莉々香先輩にも、ご参加いただいています」
会場がざわめく。
事前に本人参加を知らせたのは、実行委員の一部だけだった。一般参加者には、安全のため当日まで伏せていたのである。
文香先輩は後方に立ち、会場全体を確認するふりをしながら、誰より早く姿勢を正した。梓は写真パネルの陰で両手を組んでいる。
「宮本先輩、どうぞ」
私が促すと、莉々香先輩は舞台袖からステージへ出た。
一瞬、会場が静まり返る。
四十人の視線が、たった一人へ集まった。
莉々香先輩の歩みが、ほんのわずかに遅くなる。私は約束どおり半歩後ろについた。
やがて、拍手が起きる。
最初は前列のひより。次に梓。その音が後ろへ広がり、体育館の高い天井へ反響した。
莉々香先輩は驚いたように瞬きをしてから、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
マイクを通した声ではない。
それでも、静かな体育館の一番後ろまで届いた。
「えっと……誕生祭って聞いてはいたんですけど、こんなに来ると思ってなくて。正直、何を話せばいいか、まだあまり分かってません」
会場から小さな笑いが起きる。
「でも、私の放送を聞いてくれて、今日ここへ来てくれて、ありがとうございます。私も一緒に楽しませてください」
もう一度、拍手。
莉々香先輩は舞台を降り、前列端に用意された席へ座った。隣は私の運営席。そのさらに二つ向こうに、文香先輩がいつの間にか移動している。
「会長。後方の安全確認は」
「小田さんと交代しました」
「聞いていません」
「いま伝えました」
眼鏡の奥は、すでにステージへ向いている。
最初の企画は、過去の放送音源鑑賞だった。
体育館のスピーカーから、莉々香先輩の初放送が流れる。
『こんにちは。五月十二日、月曜日。お昼の放送を始めます』
少し硬く、今より高い声。
隣で本人が両手を膝へ置き、身を小さくしている。
「全然違いますね」
小声で言うと、肘で軽く押された。
「言わないで」
「皆さん聞いています」
「真白ちゃんまで聞かなくていいでしょう」
「運営確認です」
「絶対楽しんでる」
曲名を読み間違えた部分で、会場に穏やかな笑いが広がる。文香先輩は一人だけ、懐かしそうに目を細めていた。
最後の『終わったあ』まで流れると、拍手と笑いが同時に起きる。
莉々香先輩は両手で顔を隠した。
「これを選んだの誰?」
「匿名の放送部員です」
「あとで探す」
視聴覚ブースの方で、二人の部員が身を縮めた。
続いて文化祭、体育祭、昼休みのリクエスト紹介。放送ごとに声の出し方が変わっていく。聞き比べると、莉々香先輩がただ思いつきで話しているのではなく、場面に合わせて練習してきたことが分かった。
ファンたちも、容姿だけを見て集まったわけではない。
声に助けられた人。毎日の昼放送を楽しみにしている人。失敗した日の放送まで大切に覚えている人。
四十人には、四十人分の理由がある。
休憩時間になると、参加者は写真展示と視聴覚ブースへ分かれた。
莉々香先輩も後方へ歩く。
私とひよりが左右につき、人が一か所へ集まりすぎないよう誘導する。参加者たちは話しかけたい様子だったが、運営の指示を守って一定の距離を保った。
「これ、全部梓ちゃんが撮ったの?」
「ほとんどは」
梓は展示パネルの前で、先ほどまでの信仰心が嘘のように固くなっている。
「梓ちゃん」
「はい」
「写真、ありがとう」
「…………」
「梓?」
「いま話しかけられた」
「見れば分かる」
「莉々香様に、名前を呼ばれた」
「普段も何度か呼ばれてるでしょ」
「写真を見ながらは初めて」
莉々香先輩は、後ろ姿だけの写真を見つけて笑った。
「これ、私?」
「歩き方で分かるそうです」
「梓ちゃん、すごいね」
梓は展示パネルへ手をつき、ゆっくりしゃがみ込んだ。
「褒めないように言ったでしょう」
「写真の話だよ」
「内容に関係なく効きます」
「梓ちゃん、大丈夫?」
「近づかないでください。悪化します」
ひよりが梓を回収し、壁際の椅子へ連れていった。
視聴覚ブースでは、莉々香先輩が自分で六番のボタンを押した。
ヘッドホンから音声が流れ、本人はまた顔を赤くする。近くで見守っていた参加者たちは、声を立てずに笑った。
「匿名の有志さん」
莉々香先輩が呼びかける。
二人の放送部員が、おそるおそる前へ出た。
「これ作ってくれたの、二人?」
「有志です」
「匿名です」
「顔出てるけど」
二人は揃って俯いた。
「恥ずかしいけど、残してくれてありがとう。私、最初の放送のこと、忘れかけてた」
「こちらこそ」
「いつも放送、ありがとうございます」
ようやく返った声は小さかった。
それでも二人の表情は、緊張より喜びの方が大きい。
千夏先輩が遠くの音響卓から、その様子を見ていた。
休憩後は、事前募集した質問への回答だった。
好きな季節。放送前に行う練習。読み間違えたときの切り替え方。卒業までに担当したい番組。
莉々香先輩は一つずつ考え、普段より慎重に答えた。
「放送するとき、どんなことを大切にしていますか」
ひよりが最後の質問を読む。
「聞いてる人を、一人にしないこと」
莉々香先輩は、少し考えて続けた。
「放送って、誰が聞いてるか分からないから。教室で友達と聞いてる人も、一人でお弁当を食べながら聞いてる人もいる。どっちの人にも、同じように届けばいいなって思ってます」
会場が静かになった。
私も、昼休みに初めて意識して聞いた放送を思い出す。友達へのチョコを自分で食べてしまったという相談へ、先輩は笑わずに答えていた。
ひよりが質問箱を閉じようとした、そのとき。
後方から声が上がった。
「莉々香先輩が、いま一番好きな人は誰ですか」
空気が変わった。
声の主は見えない。悪意のある言い方でもなかった。ただ、皆がどこかで知りたがっていた問いなのだろう。
ひよりが困ったように私を見る。
文香先輩は立ち上がりかけた。
莉々香先輩は、ステージ上で目を見開いている。
「事前に募集した質問以外は受け付けません」
私は席を立った。
「でも、みんな気になってると思います」
別の声が言う。
「答える必要はありません。個人の交友関係を、公の場で答えさせる企画ではないので」
参加者たちは黙った。
四十人の視線が、今度は私へ集まる。
たったそれだけで、息が詰まりそうになる。
莉々香先輩がこれまで何気なく投げた「好き」を、受け取った人も同じだったのかもしれない。周囲が見ている中で、特別な意味を否定することも、受け入れることも難しい。
「真白ちゃん」
ステージから呼ばれた。
「私、答えるよ」
「無理に答える必要はありません」
「無理じゃない」
先輩は立ち上がり、マイクを持った。
「私、好きな人はいっぱいいるよ。頑張ってる人も、笑うとかわいい人も、優しい人も好き」
以前なら、そのまま言い切っただろう。
しかし先輩は、そこで一度言葉を止めた。
「でも、私が好きって言ったことで、困った人もいるって、最近知りました」
前列に座っていた、バレンタインの二人が顔を見合わせる。
「私は、かわいいと思ったらかわいいって言うし、好きだと思ったら好きって言ってきた。それが告白みたいに聞こえることも、私が思ってたよりあるみたいです」
先輩の目が、私へ向いた。
「だから、誰が一番かは答えません。まだ、自分でも分からないから」
会場の緊張が少し解けた。
「それと、私の言葉で困ったときは、ちゃんと言ってください。真白ちゃんに怒られる前に、自分で気づけるようになりたいから」
笑いが起きる。
「どうして私を入れるんですか」
「監視役だから」
「反省してください」
「してるよ」
莉々香先輩も笑った。
「今日ここへ来て、私が知らないところで、こんなに放送を聞いてくれてる人がいたって分かりました。忘れてたことを覚えててくれた人も、写真を残してくれた人もいた」
音響卓の千夏先輩が、俯く。
「たぶん、知らないうちに困らせた人もいると思う。でも、今日来てくれたことは、本当にうれしいです。ありがとう」
先輩が頭を下げた。
一拍遅れて、拍手が起きる。
四十人ぶんの拍手は、昨日の空っぽだった体育館とはまるで違う場所を作った。
莉々香先輩は顔を上げ、まっすぐ前を見ている。
その横顔を見ながら、私は初めて、彼女が人気者であることを素直に受け入れた。
最後にケーキが配られた。
四十人分に切り分ける作業は、千夏先輩の計算どおり進んだ。アレルギー対応のゼリーも、該当者へ間違いなく渡される。
莉々香先輩の分だけ、苺が一つ多かった。
「これ、高橋さんが?」
「はい」
ひよりが答える。
「高橋さん、どこ?」
「音響卓に」
千夏先輩が逃げるより先に、莉々香先輩は立ち上がった。
私は約束どおり、ゆっくり近づくよう伝える。
「野生動物じゃないんだから」
「高橋先輩の心の準備です」
音響卓では、千夏先輩がケーブルを必要以上に丁寧に巻いていた。
「高橋さん」
莉々香先輩が呼ぶ。
千夏先輩の手が止まった。
「今回の企画、全部考えてくれたんだって?」
「…………」
「高橋さん?」
「返事をしてください」
「いま話しかけられた」
「見れば分かります」
「莉々香さんに、話しかけられた」
「だから返事をしてください」
莉々香先輩は笑いを堪えながら待っている。
千夏先輩は眼鏡を外し、一度深呼吸して、掛け直した。
「はい。企画しました」
「すごかった。私、自分の昔の放送なんて、ほとんど忘れてた」
「勝手に集めて、申し訳ありません」
「嫌じゃなかったよ。恥ずかしかったけど」
「写真も」
「面白かった」
「本人が来るとは、思っていませんでした」
「私も、呼ばれると思ってなかった」
二人は初めて互いの顔を見る。
同じ学年で、同じ学校へ二年間通ってきた。それでも、片方だけがもう片方を知り、もう片方は名前すら知らなかった。
「高橋さん」
「はい」
「私のために、ありがとう」
千夏先輩の目に涙が浮かんだ。
泣くほどのことなのか、私には分からない。けれど、それを軽いと決めつけることも、もうできなかった。
「……お誕生日、おめでとうございます」
「うん。ありがとう」
千夏先輩はようやく、二年間言えなかった言葉を本人へ伝えた。




