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第十章 誕生祭前夜

 三月六日、体育館には放課後の冷気が残っていた。

 ステージ前へ椅子を四十脚並べる。縦五列、横八席。避難通路を確保し、床へ細いテープで位置を示す。

 後方には可動式の展示パネルを六枚。梓が選んだ写真を、季節順に貼っていく。

 春の入学式。初夏の校内放送。体育祭。文化祭。冬の中庭。

 題名は私の監督により、かなり普通になった。

『一年生・初めての昼放送』

『体育祭場内放送』

『文化祭特別番組』

 それでも、梓はパネルの隅へ小さな紙を忍ばせている。

『春風と莉々香様』

「梓」

「小さいから」

「大きさの問題じゃない」

「一枚だけ」

「外して」

 梓は渋々紙を剥がし、制服のポケットへしまった。

「真白は展示の心が分かってない」

「本人へ見せても問題ない展示にするのが、私の仕事」

「本人が来なければ、もっと自由だったのに」

「来てもらうよう頼んだの、梓たちでしょ」

「私は頼んでない。本人が来たら直視できないから」

「文香会長と同じこと言ってる」

 ステージ前では、文香先輩が座席の配置を確認している。

 施設管理責任者の腕章を付け、真剣な顔をしているが、中央最前列の椅子だけ位置が少し前だった。

「会長。その椅子を戻してください」

「列が歪んでいたので」

「一脚だけ前へ出ています」

「誤差です」

「二十センチは誤差ではありません」

 椅子を押し戻すと、文香先輩は小さく息をついた。

「私は会場全体を確認する必要があります」

「後方に立ってください」

「音響も確認しなければ」

「視聴覚ブースは側面です」

「ステージ上の安全も」

「私が付き添います」

「……そうでしたね」

 残念そうにしないでほしい。


 体育館側面では、放送部の匿名有志二名が視聴覚ブースを組み立てていた。

 誰が見ても正体は明らかになってしまったが、本人たちは最後まで匿名を主張している。

 四つの木箱へヘッドホンをつなぎ、選曲表を机へ固定。隣には使い方の説明書まで置かれた。

「試運転します」

 ひよりが一番のボタンを押す。

 ヘッドホンからは、外へ漏れない程度の音量で莉々香先輩の初放送が流れた。

「問題ありません」

「二番も」

「全部確認しましょう」

 有志二人は真剣だった。自分たちが聞きたいだけでは、と疑ったが、音量やボタンの戻りまで確かめる姿を見ると何も言えない。

 受付では、千夏先輩が記念品を四十個ずつ袋詰めしている。

 中身は、放送部のマイクを図案化した栞と、誕生祭の日付入りの小さなカード。莉々香先輩の写真や名前は、本人の許可を得た範囲でしか使っていない。

「ケーキは明日、開始一時間前に到着します。乳製品、卵、小麦を使用。アレルギーのある参加者には、個包装のゼリーを用意しました」

「飲み物は」

「紙パックの紅茶とりんごジュース。ごみ袋は六枚。余った食品は持ち帰らせません」

「問題ありません」

 千夏先輩の実務には、本当に隙がない。

「あとは、宮本先輩への挨拶ですね」

「ありません」

「明日、企画責任者として」

「私は音響卓にいます」

「始まる前に紹介します」

「佐久間さん」

 千夏先輩は手を止め、真剣な顔で私を見た。

「一つ相談があります」

「何でしょう」

「体調不良で欠席する場合の手順を」

「当日に仮病を使わないでください」

「仮病ではなく、精神的な」

「宮本先輩が来るだけです」

「その“だけ”が問題です」

「同学年でしょう」

「アイドルとファンに学年は関係ありません」

「宮本先輩はアイドルではありません」

「私にとってはそうです」

 言い切る声には、照れも迷いもなかった。

 直接話したことがなくても、遠くから見て、放送を聞いて、元気をもらった。千夏先輩にとっては、それで十分なのだろう。

「では、アイドルへ三年間の感謝を伝えてください」

「三年間ではありません。ファンになったのは一年生の十二月からなので、二年と三か月です」

「文香会長と競わなくていいです」

 千夏先輩は袋詰めへ戻った。

「挨拶は考えておきます」

「お願いします」

「声が出なかった場合は」

「待ちます」

「どれくらい」

「出るまでです」

 千夏先輩は深く息を吐いた。


 準備が終わったのは、日が落ちてからだった。

 暖房の切れた体育館に、四十脚の椅子と展示パネルだけが残る。明日になれば、ここへ人が集まる。

 最後の戸締まりを確認していると、体育館の扉が少しだけ開いた。

「まだいる?」

 莉々香先輩だった。

「宮本先輩。どうして」

「放送部の片づけが終わったから。ちょっと見たくなって」

「当日まで入らない予定では」

「中までは行かないよ」

 先輩は入口に立ったまま、薄暗い体育館を見渡した。

 後方の写真は、この距離ではよく見えない。視聴覚ブースも、白い布をかけてある。四十の椅子だけが、ステージへ向かって整然と並んでいた。

「本当に四十人来るんだ」

「現時点では四十一人です。飛び入り参加も可能です」

「増えた」

「梓が参加表へ二度名前を書いていたので、実数は四十人です」

「梓ちゃんらしいね」

「らしいで済ませないでください」

 莉々香先輩は笑ったあと、体育館の床へ視線を落とした。

「私、明日ちゃんと話せるかな」

「全校放送をしている方が、四十人を前に緊張するんですか」

「放送は顔が見えないから」

 先輩の声が、広い体育館へ小さく反響した。

「みんなが私のこと知ってて、私はみんなのこと知らないんでしょう」

「そうですね」

「何を言えばいいか、分からない」

 いつもは考える前に褒め言葉を口にする人が、明日の言葉を見つけられずにいる。

「立派なことを言う必要はありません」

「生徒会っぽくないね」

「正直な感想です」

「ありがとう、でいい?」

「十分です」

「真白ちゃん、隣にいてね」

「運営担当として」

「うん」

 先輩はそれ以上頼まず、入口から離れた。

「おやすみ、真白ちゃん」

「おやすみなさい、宮本先輩」

 扉が閉まる。

 四十脚の椅子を前に、私まで少し緊張していることへ気づいた。

 私は祝われる側でも、企画した側でもない。ただの監視役だ。

 それなのに、明日がうまくいってほしいと、誰より願っている気がした。


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