第九章 匿名の有志
莉々香先輩の参加が決まった翌日、高橋千夏先輩は生徒会室で停止した。
倒れたのではない。椅子へ座り、承諾書の『本人参加予定』という文字を見つめたまま、三分ほど動かなくなったのである。
「高橋先輩」
呼びかけても反応がない。
「聞こえていますか」
「聞こえています」
「では、返事をしてください」
「状況を処理しています」
眼鏡の奥で、目だけが何度も文字を追っている。
「宮本さんが来るんですか」
「出席していただけるそうです」
「どうして」
「誕生祭だからでは」
「本人が来る誕生祭なんて聞いていません」
「参加を依頼してほしいと、ファンクラブ側からも言われました」
「誰がそんなことを」
千夏先輩は企画書の連絡担当一覧を開き、名前を一つずつ確認し始めた。
「犯人を探さないでください」
「犯人ではありません。新しい実行委員長候補です」
「交代するつもりですか」
「本人の前に立つ業務だけ」
「企画者として紹介します」
「やめてください」
「宮本先輩は、企画してくれた人にお礼を言いたいそうです」
千夏先輩は両手で顔を覆った。
普段の無表情からは想像もつかない反応である。
「私の名前を出したんですか」
「企画責任者ですから」
「佐久間さん」
「はい」
「あなたには、人の心がありません」
「企画書にご自身で記名しています」
「書類の中の名前と、莉々香さんが口にする名前は別物です」
「同じです」
文香先輩は二人のやり取りを聞きながら、修正された進行表を手に取った。
「本人が参加するなら、登壇時間と控え場所が必要ですね」
「会長まで当然のように進めないでください」
「いまさら中止にはできません」
「中止にするとは言っていません」
千夏先輩は顔を上げた。耳まで赤いのに、声だけは事務的へ戻っている。
「入場は開始五分後。舞台袖から登壇。挨拶三分。質疑応答は事前募集から五問。写真撮影は禁止。個別の贈り物は受付で預かり、本人へ直接渡させない。これでどうでしょう」
「立ち直るのが早いですね」
「運営を止めるわけにはいきません」
文香先輩が頷く。
「控え場所は体育準備室を借りましょう。佐久間さんが付き添えば、移動時の混乱も防げます」
「私がですか」
「監視役でしょう」
「最近、その言葉で何でも押しつけていませんか」
「適任です」
千夏先輩まで頷いた。
「宮本さんも、佐久間さんがいれば安心すると」
「本人から聞いたんですか」
「企画書に書いてありました」
莉々香先輩が承諾書の余白へ、『真白ちゃんもいます』と書き足していた。
「どうして、こんなことまで」
「本人の参加条件として尊重しましょう」
文香先輩の声が少し弾んでいる。
「会長」
「何ですか」
「尊重する方向が偏っています」
「安全管理上、信頼する人の付き添いは大切です」
「私はいつから、そこまで信頼されたんですか」
尋ねても、二人とも答えなかった。
本人参加に伴う修正は、想像以上に多かった。
まず、写真の選別。
学校行事で撮影されたものに限ると聞いていたが、梓が持ち込んだ箱には二百枚近い写真が入っていた。
生徒会室の長机へ並べると、ひよりが一枚ずつ裏面の日時を確認し、私が展示可能か判断する。梓は題名を付ける担当を自称した。
「これは?」
私が写真を持ち上げる。
遠くの廊下を莉々香先輩が歩いている。顔はほとんど見えず、後ろ姿だけだった。
「『放送室へ向かう午後三時四十二分』」
「展示しない」
「どうして」
「ただの後ろ姿」
「光の入り方がいいでしょう」
「宮本先輩だって判別できない」
「歩き方で分かる」
「怖いことを言わないで」
次は体育祭の写真。マイクを持った莉々香先輩が、グラウンドを見ながら笑っている。
「これはよく撮れてるね」
「題名は『勝利を告げる女神』」
「題名だけ変えて」
「じゃあ『秋空に響く祝福』」
「普通に『体育祭場内放送』で」
「真白には情緒がない」
「梓の情緒は展示規則に入ってないの」
ひよりが一枚の写真をこちらへ滑らせた。
「これは佐久間さんも写っていますね」
放送室前で、私が莉々香先輩へ書類を見せている。先輩は少し身を屈め、私の顔を覗き込むように笑っていた。
「いつ撮ったの」
梓は天井を見た。
「偶然」
「あなたが撮ったの?」
「廊下を通ったら、二人がいたから」
「削除して」
「学校内の記録だよ」
「監視業務に写真は必要ない」
「でも、莉々香様の表情がいい」
言われて、写真へ視線を戻した。
普段と同じ笑顔に見える。けれど、周囲へ向けるときより少しだけ気が抜けているような気もした。
そんなことを考えた自分に腹が立ち、写真を裏返す。
「展示しない」
「真白が写ってるから?」
「特定の生徒との関係を推測される可能性がある」
「もう記事になったのに」
「だから」
梓は残念そうに写真を箱へ戻した。
文香先輩は書類を確認しながら、箱の位置を何度も見ている。
「会長、欲しそうにしないでください」
「していません」
「視線が動いています」
「展示候補を確認しているだけです」
「箱へ戻しました」
「そうですか」
声が少し沈んだ。
次に確認したのは、仮設視聴覚コーナーだった。
放送準備室へ案内されると、机の上に四つの木箱が並んでいる。それぞれに番号付きの押しボタンと、ヘッドホンの差し込み口が付いていた。
横には選曲表。
一番は、莉々香先輩の初放送。
二番は、初めて一人で曲紹介を担当した回。
三番は、文化祭特別番組。
四番は、体育祭の場内放送。
五番は、曜日を一日読み間違えた天気予報。
六番には、『マイク切り忘れ音声』と書かれている。
「これを作った人は」
私が尋ねると、案内してくれた放送部員二人が同時に目をそらした。
「有志です」
「お二人では?」
「違います」
「声が揃いましたね」
「偶然です」
木箱の裏側を確認する。配線はきれいに束ねられ、感電防止の覆いまで付いている。電源は乾電池式で、体育館のコンセントを占有しない。
「音源の使用について、顧問の許可は」
「いただきました」
一人が書面を差し出した。
正式な許可印がある。放送部の活動紹介を目的とし、個人への中傷や授業連絡を含む音源は使用しないこと。条件も明確だった。
「ずいぶん準備がよいですね」
「校内放送文化の振興ですから」
「高橋先輩と同じことを言っています」
「偶然です」
もう一人が答える。
「宮本先輩には伝えましたか」
二人はまた目をそらした。
「当日、本人が来ます」
「えっ」
今度は声が揃わなかった。
片方はヘッドホンを落とし、もう片方は木箱の角へ膝をぶつけた。
「知らなかったんですね」
「聞いてません」
「高橋先輩から、本人参加に変更されたと」
「本人って、宮本先輩?」
「ほかに誰がいるんですか」
二人は顔を見合わせ、素早く装置を確認し始めた。
「六番を外した方が」
「でも初期の名音源」
「本人の前で流すのは」
「先に許可を」
「直接聞ける?」
「無理」
「無理」
この学校には、同じ病気の人が何人いるのだろう。
「私から確認します」
言った途端、二人が同時に頭を下げた。
「お願いします」
「佐久間さんなら」
「最近、皆さん私を便利な連絡係だと思っていませんか」
「宮本先輩と普通に話せるので」
「私は監視役です」
「それでもすごいです」
褒められているのに、少しも嬉しくなかった。
六番の音源は、その日の放課後に莉々香先輩と一緒に聞いた。
放送室のヘッドホンを片方ずつ使う。二人で一つの机へ身を寄せなければ、コードが届かない。
『以上で、お昼の放送を終わります。担当は、一年二組の宮本莉々香でした』
短い終業音。
数秒の雑音。
それから、今より少し幼い声が入る。
『終わったあ……曲名、間違えた。もうやだ』
奥で誰かが笑い、『マイク、切れてないよ』と教える。
『えっ』
音声はそこで終わった。
隣の莉々香先輩は、両手で顔を覆っていた。
「これ、全校に流れたの?」
「文香会長は、日付まで覚えていました」
「長谷川さん、怖いね」
「宮本先輩が言いますか」
「私、忘れてたもん」
先輩は顔を上げ、もう一度再生ボタンへ手を伸ばす。
「聞くんですか」
「自分の声だけど、もう別の人みたい」
再び、初々しい放送が流れた。
莉々香先輩は恥ずかしそうにしながら、最後まで聞いている。
「展示してもいいですか」
「うん。これが好きな人もいるんでしょう?」
「かなりいるようです」
「変なの」
「嫌ではないんですか」
「恥ずかしいけど。消してって言ったら、作った子が悲しむかな」
「無理に許可する必要はありません」
「無理じゃないよ」
先輩はヘッドホンを外した。
「私が忘れたことを、覚えててくれたんでしょう。だったら、いい」
いつもの軽い調子とは違う。
私は返事をせず、使用許可欄へ丸を付けた。
「真白ちゃん」
「はい」
「近いね」
言われて初めて、肩が触れそうな距離にいると気づいた。慌てて椅子を引くと、ヘッドホンのコードが机の角へ引っかかる。
「確認は終わりました」
「顔、赤いよ」
「暖房が強いだけです」
「そういうことにしておく?」
「そういうことです」
莉々香先輩は追及せず、楽しそうにヘッドホンを片づけた。
その日の夕方、梓へ写真のことで注意する予定だったが、すっかり忘れていた。




