幕間 名前を読んでほしい人たち
新聞部の記事が回収された翌日、放送室前に新しい箱が置かれた。
白い紙を貼った普通の段ボール箱。中央には、『お名前を呼んでほしい方はこちら』と書いてある。
「これは何?」
箱の前にいた一年生へ尋ねると、彼女は胸を張った。
「莉々香先輩に名前を読んでもらうための、特別リクエスト箱です」
「放送部の許可は」
「まだです」
「撤去して」
「どうして」
「許可なく廊下へ物を置かないで。それに、放送内容は放送部が決めるの」
箱の中には、すでに十数枚の紙が入っていた。
名前とクラス。読んでほしい呼び方。希望する一言。
『今日も頑張ってるね、と言ってほしい』
『髪型がかわいい、と褒めてほしい』
『下の名前にちゃんを付けてください』
中には、『好きと言ってください』というものまである。
「これを全部、宮本先輩に読ませるつもり?」
「可能な分だけ」
「本人がどんな気持ちになるか、考えた?」
「莉々香先輩は優しいから」
「優しいからって、何でも頼んでいい理由にはならないよ」
箱を設置した生徒は、不満そうに唇を尖らせた。
「でも、佐久間さんは毎週名前を呼んでもらってる」
「監視業務で話してるから」
「新聞にも載った」
「私が望んだことじゃない」
「私たちだって、一回くらい」
彼女の気持ちは分からなくもない。
放送で聞く声が、自分の名前を呼ぶ。たった一度でも、特別な記憶になるのだろう。
だからこそ、全員分を莉々香先輩へ背負わせることはできない。
「通常のリクエスト箱へ、放送で読める内容として送って。採用するかは放送部が判断する」
「この箱は」
「撤去する。中の用紙は、書いた人に返して」
「誰が書いたか分からないものもあります」
「じゃあ廃棄」
箱を抱えたところで、放送室の扉が開いた。
「真白ちゃん、何持ってるの?」
莉々香先輩が出てくる。
箱を設置した生徒は、一瞬で姿勢を正した。
「宮本先輩に名前を読んでほしい生徒の、特別リクエスト箱だそうです」
「名前?」
「許可なく設置されていたので、撤去します」
莉々香先輩は箱の紙を読み、投稿用紙を一枚だけ手に取った。
「こんなにいるんだ」
「読まなくて結構です」
「名前を読むだけなら、できるよ」
「全員分ですか」
「放送の最後に、一人ずつ」
「一日一人でも、すでに十数日かかります。今後さらに増えたら、通常の放送が圧迫されます」
「じゃあ、まとめて」
「名前を呼ぶ意味がなくなります」
「難しいね」
先輩は用紙を箱へ戻した。
「でも、呼んでほしいって思ってくれたの、うれしいな」
設置した生徒の顔が明るくなる。
「宮本先輩」
「分かってる。全部読むとは言ってないよ」
先輩は彼女へ向き直った。
「箱を作ってくれてありがとう。でも、放送部には学校のお知らせも、曲のリクエストも来るから、私のことだけには使えないんだ。ごめんね」
「……はい」
「普通のリクエストとして送ってくれたら、担当の人みんなで選びます」
「莉々香先輩が読むとは限らないですか」
「うん。でも、誰が読んでも届くようにするのが放送部だから」
生徒は少し考え、箱から自分の用紙を探した。
「じゃあ、曲のリクエストに書き直します」
「ありがとう」
彼女が去ったあと、私は箱を持ち直した。
「宮本先輩、以前なら全部読むと言っていましたか」
「そうかも」
「今日は断れましたね」
「真白ちゃんが、返事を強要するのもだめって言ってたから」
「私はファンクラブに向けて言いました」
「私も、嫌なことは断っていいんでしょう?」
「もちろんです」
莉々香先輩は、箱の中身をもう一度見た。
「断るのって、思ったより難しいね」
「全部引き受ける必要はありません。先輩にも、できることとできないことがあります」
「真白ちゃんに頼まれても?」
「内容によります」
「じゃあ、ちゃんと考える」
「最初からそうしてください」
先輩は少し笑い、箱の側面を指で軽く叩いた。
「でも、名前を呼んでほしいって思ってくれるのは、うれしい」
「それ自体は悪いことではありません。放送を私物化しない範囲なら」
「真白ちゃんも、呼ばれたらうれしい?」
「私の話はしていません」
「真白ちゃん」
「……何ですか」
「今日は助かった。ありがとう」
ただ名前を呼ばれて、礼を言われただけだった。
それなのに、一瞬だけ返事が遅れた。
「どういたしまして」
「今日は素直だね」
「箱を持っているので、反論するのが面倒なだけです」
「そっか」
莉々香先輩は楽しそうに笑って放送室へ戻った。
私は特別リクエスト箱を生徒会室へ運ぶ。
自分の名前を呼んでほしいと願う十数人の気持ちを、少しだけ理解してしまったことは、誰にも言わなかった。




