第二話 運命の少女
「私はデスティーナ。異世界から渡ってきた神、とでも言っておこう」
首から十字架をかけたその少女は尻餅をついた匡真を見下ろし、静かに、されど堂々と名乗る。
匡真はその、名乗りでは到底聞くことのない言葉を聞き、動揺を隠せずにいる。
「…神、だって?というか…異世界?どういうことなんだ、何が今起こったんだ…?」
ああ、意味がわからない。わかるはずがない。
俺の脳は今ショートしている。まともな思考回路が働かないし、そもそもこんな異常を処理する回路は俺の脳には存在しない。
ふと、壁に付着した血痕を見て、あの光景を思い出す。
「いや、そもそも、人が、人が死んだ。腸が飛び出てて、肉が食われてて、目に、光が無くて」
脳に焼き付く心的外傷。
人はあんなにも弱いのだと、一匹の獣に無抵抗に喰い殺される弱者なのだと実感させられる。
人の死体はとても鮮やかで、無駄がなくて、だから怖かった。
どれだけ目を逸らしても、どれだけ目を塞いでも目の前にあるかのように思い出される。
この少女がいなかったら本当に俺は、あんな、あんな目に――。
「…あの、ありがとう。本当に、君がいてくれなかったら、俺は、俺は…!」
必死に感謝する。
目から涙が溢れそうなほど、俺はこの子に助けてもらえたことが嬉しかった。
何があろうとこの恩は忘れることはない。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
今はただこの子に、デスティーナに感謝することしかできない。
「れ、礼には及ばん。断罪者として当然のことをしたまでだ」
彼女は少し顔を赤らめて照れくさそうに言う。
それでいて満足気に振る舞う姿は、とても神様と名乗る者のしていい代物ではない可憐さだろう。
「だが、辛い光景だっただろう。人の死体を見るのは私も気分が悪い」
そう彼女は亡骸に目を向ける。
憐れみの目を向けられた亡骸にはハエが群がり、この路地裏中に異臭を放っていた。
――きっと、この人にも幸せな日々があったのだろう。
家族との団欒、友人との交流、社会での生活。
この人には、当たり前の平穏な日々が待っていたはずなんだ。
その平穏を、あの異常は奪った。
ただ本能のままに、食欲を満たそうという生命として当たり前の欲望で、その人の過去を、現在を、未来を奪った。
「其方、立てるか?」
救世主のような彼女は、心配そうな表情でこちらに手を差し伸べた。
匡真に差し伸べられたその手は、とても頼もしくて、とても綺麗だった。
「うん、立てる。ちょっと疲れてるだけだから」
差し伸べられた手を取る。
彼女を心配させまいとかけた言葉だったが、どうやらあまり効果はなかったようだ。
すると、彼女は振り返り、首にかけていた十字架に何か喋りかけた。
「――ああ、後は頼む」
「ん?なにか言った?」
「いや、なんでもない。さあ、一先ず外に出よう。ここは陰気臭くてかなわん」
そう言い、彼女は路地裏の外へそそくさと出ようとする。
だが、その前に気になることがある。
「…これはどうするんだ?」
そう言い、捕食者だったものと、人間だったものに目を向ける。
いくら路地裏とはいえ、これを放置するのはまずいだろう。
警察に連絡するかしたほうが良いのではないか。
「心配ない。これは私のところが処理してくれる。地上界の公的機関には頼らなくて良い」
振り返らずに彼女はそう言い、スタスタと歩いていく。
時々よくわからない言葉を言うが、それに関しては後々聞けばいいだろう。
匡真もその後を追い、あの異常を背に外へ出ようとする。
だがその直前、デスティーナはこちらに振り返り告げる。
「さて、ここまで名乗り上げてしまったが、其方にはここでの出来事は忘れてもらうぞ」
「――え?」
そう彼女は匡真に手を向け、その手から光を発した。
「っ!」
咄嗟にその光に右の掌を前に突き出す。
光はその手で遮られたが、恐らく意味はない。
光はきっとこの手を通り過ぎ、匡真へと当たるだろう。
そして光は段々弱まり、彼女は言う。
「すまないな、普通の人間にはあまり知ってほしくないことだ。恨むな」
そう言い残し、彼女は路地裏の壁を蹴り、屋上へと去っていった。
匡真は呆然とする。
この路地裏で見た死体、人を喰らう獣、その獣との死闘、そして彼女、デスティーナとの邂逅。
このとても短い時間の、とても狭い場所で起きた異常な出来事を、五十泉匡真は、
「……なんだったんだ、今の」
――五十泉匡真は、覚えていた。
彼女の言い残した言葉も覚えている。
そこから発せられた光の事も覚えている。
彼女に助けられた事、彼女に手を差し伸べられ、その手を取ったことも、覚えている。
「なんか夢みたいだったな…。でも、人は本当に死んだんだ。これは現実なんだ」
そう言って匡真は背後の死体を見ようとするが、
「――ない?」
この一瞬で死体も、獣だったものも無くなっていた。
壁や床にベッタリとついていたはずの血痕も、跡形一つ無くなっていた。
まるで幻のように、この現実から消えていた。
「そんな、そんなはずがない。だってあったはずなんだ。あの死体が、あの獣がいたはずなんだ」
これは現実なんだと自分に言い聞かせる。
目を背けるなと、現実から逃げることは絶対にあってはならないと自分自身が叫んでいる。
だが、本当に夢だったら?
「そうだ、ないんだ。あの死体は、あの獣はなかったんだ。死んだ人はいなかったし、あんな人を喰う獣がこんな東京のド真ん中にいるはずがない。そうだ、きっとそうなんだ」
俺は逃げたかった。
あの死体は嘘であってほしいって、俺は思いたかった。
死んだ人はいないんだって、あの人は生きているとか、はたまたあの人という存在自体が嘘だったりして――。
「……そんなわけないだろうが、この馬鹿野郎…」
逃げようとした、幻へ、夢へ逃げようとした。
でも、現実は逃がしてはくれない。
人は死んだ。人を喰らう獣はいた。
ただそれだけ、それだけなんだ。
「あいつ、俺をどうしたかったんだよ。本当に俺に関わらせないようにしようとしたのか?」
そう匡真は訝しんだ。
と言っても俺はもう当事者だ、被害者だ。無関係でいられるかっての。
「クッソ、あいつどこ行ったんだ、デスティーナ!」
そう叫び、五十泉匡真は街を駆け、先程自身を助けた女を探しに行った。




