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必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


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第38話

 いてほしいからだ、という言葉が、エリゼの頭から離れなかった。


 夜、自室の机に向かって土壌記録を書こうとしたが、ペンが止まった。数字を書いているつもりで、気づいたら「いてほしい」と書いていた。慌てて消した。


 リーナが洗濯物を取りに来て、エリゼの顔を見た。


「奥様、顔が赤いですよ」


「秋になっても暖かい日が続いているから」


「窓が閉まっていますよ」


「……」


「何かありましたか」


 エリゼはペンを置いた。


「少し聞いてもらえる?」


 リーナが洗濯物を椅子に置いて、向かいに座った。



 夕方のやり取りを話した。「いてほしいからだ」という言葉まで。


 リーナがしばらく黙っていた。


 それから、口を開いた。


「それはもう、プロポーズに近いですよ」


「違う」


「どう違うんですか」


「プロポーズはもっと、はっきりした——」


「辺境伯様に、はっきりした言葉を期待してどうするんですか」


 エリゼは黙った。


「あの方の言葉の量で言えば、『いてほしい』は十分すぎる告白だと思いますよ」


 それは確かにそうかもしれなかった。


「……奥様は、どうしたいですか」


 リーナが静かに聞いた。


「意地悪な問いね」


「正直な問いです」


 エリゼは窓の外を見た。秋の夜の闇が広がっていた。遠くに農村の灯りが見えた。


「そばにいたい、と思っている」


 声に出すと、思っていたよりすんなり出てきた。


「レイナルト様のそばに。それは——確かだ」


「なら」


「でも、アンナさんのことが」


「奥様が決めることではないと、前にも言いましたよ」


 リーナが静かに言った。


「辺境伯様が前に進む準備ができたとき、奥様がそこにいればいい。それだけではないですか」


 エリゼはしばらく黙っていた。


 窓の外の灯りが、ゆっくりと揺れた。



 同じ夜、城の別の棟でも、似たような会話が続いていた。


 レイナルトがゲルハルトを呼んだのは、夜の十時を過ぎた頃だった。


「ゲルハルト、少し聞きたいことがある」


 珍しい言い出し方だった。ゲルハルトが椅子を引いて向かいに座った。


「今日、エリゼに言った言葉のことだ」


「……聞いておりました」


「わかっていた」


 レイナルトが杯を手に取って、置いた。


「あの言葉を、どう思う」


 ゲルハルトは少し考えてから答えた。


「旦那様のお気持ちが、初めて言葉になった、と思います」


「……」


「遅すぎることはありませんでした。でも——あとは、覚悟の問題かと」


 レイナルトが視線を落とした。


 しばらく間があった。


「アンナへの、後ろめたさがある」


 低い声だった。


「三年間、あいつのことを考え続けてきた。その俺が——別の誰かを想うことが、許されるのかと」


 ゲルハルトは答えをすぐには返さなかった。


 暖炉の火が揺れた。風が窓を鳴らした。


「旦那様」


 やがてゲルハルトが言った。


「アンナ様は、旦那様にいつも笑っていてほしいとおっしゃっていた。覚えておられますか」


 レイナルトが顔を上げた。


「農民のマルタさんから、エリゼ様もその話を聞いたそうです。私も、何度もアンナ様から聞きました」


「……ああ」


「アンナ様がご心配されていたのは、旦那様が一人になることでした。笑えなくなることでした」


 ゲルハルトが静かに続けた。


「旦那様は今、笑っておられます。エリゼ様の前では。アンナ様が望んでいたことを、旦那様はもう、やっておられます」


 レイナルトが何も言わなかった。


 暖炉の火が、静かに揺れ続けていた。


 答えは出なかったが、何かが少しずつ、解けていくような夜だった。


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