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必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


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第34話

 使者が帰った夜、ゲルハルトはレイナルトの書斎を訪ねた。


 扉を叩くと「入れ」と短い返答があった。中に入ると、レイナルトは机の前に座ってはいたが、書類には手をつけていなかった。ただ窓の外を見ていた。


「旦那様」


「なんだ」


「今日のことで、少しよろしいですか」


 レイナルトが視線を戻した。


「使者が来た件ですが——」


「終わったことだ」


「終わった、とは言い切れない気がしまして」


 ゲルハルトは慎重に言葉を選んだ。


「旦那様、今日の旦那様のご様子を拝見していて、一つ申し上げたいことがあります」


「なんだ」


「それは嫉妬では、と思いまして」


 書斎が静まり返った。


 レイナルトがゲルハルトを見た。その目は無表情だったが、ゲルハルトは十年以上この人を見てきた。無表情の中の、図星を突かれたときの微かな変化を、知っていた。


「……何を言っている」


「使者が来ると聞いたときの旦那様の顔、そして面会を許すと聞いたときの顔、そして面会が終わって廊下でエリゼ様を待っておられたときの顔——全部、同じ顔でした」


「同じ顔?」


「落ち着かない顔です」


 レイナルトが視線を外した。



「旦那様がそのような顔をされるのは、珍しいことです」


 ゲルハルトは続けた。


「アンナ様が亡くなってから、旦那様はずっと同じ顔をされていました。何があっても動じない、静かな顔です。それが最近、変わってきている」


「……」


「エリゼ様が来てから、です」


 レイナルトが何も言わなかった。


 ゲルハルトはそれを肯定と受け取った。


「旦那様のお気持ちがどうあれ、私が口を出すことではありません。ただ——」


 一息ついた。


「エリゼ様は今日、王子殿下の使者をはっきり断られました。何も感じなかった、とおっしゃっていた。旦那様がご心配されることは、ないかと思います」


 レイナルトがゲルハルトを見た。


「聞いていたのか」


「廊下は筒抜けでございます」


 短い沈黙の後、レイナルトが「余計なことを言うな」と言った。


 今日で何度目かわからない台詞だった。


「はい」


 ゲルハルトは礼をして扉に向かいかけた。


「ゲルハルト」


 呼び止められた。振り返ると、レイナルトが窓の外を見ていた。


「……エリゼは、今何をしている」


「夕食を終えて、自室で作業されているかと」


「そうか」


 それだけだった。


 ゲルハルトは書斎を出て、扉を閉めた。廊下に出てから、誰にも見えないところで小さく笑った。



 翌朝、食堂でエリゼとレイナルトが顔を合わせた。


 昨日のことには、どちらも触れなかった。


 ただ、食事をしながら、レイナルトが珍しく先に口を開いた。


「今日の午後、東の水路の確認に行く。一緒に来るか」


 エリゼは一瞬だけ驚いて、それから頷いた。


「はい、ぜひ」


 いつもは「同行しろ」か「視察に出る」という言い方をする。「一緒に来るか」と聞いてきたのは、初めてだった。


 ゲルハルトがお茶を運んできて、さりげなくエリゼに目配せした。その顔に「ほら、言った通りでしょう」とはっきり書いてあった。


 エリゼは黙ってパンを千切った。


 頬が、少し温かかった。


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