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必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


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第33話

 使者が城の門を叩いたのは、初夏の風が吹き始めた頃だった。


 王都からの早馬で、二頭立ての馬車が埃を巻いて到着した。馬車の紋章を見たゲルハルトが、一度眉を上げてからエリゼのいる畑まで走ってきた。


「エリゼ様、王都より使者が参りました」


「どちらの」


「……第二王子殿下より」


 エリゼは手にしていた土壌のサンプルをゆっくり置いた。


「わかりました。すぐに行きます」


「旦那様に先に報告しましたら——」


 ゲルハルトが言いにくそうに続けた。


「門前払いにする、とおっしゃいました」



 玄関に向かうと、レイナルトが腕を組んで立っていた。使者の男——三十代の騎士風の男——が、玄関の外で待たされていた。


「エリゼ」


 レイナルトがエリゼを見た。


「会う必要はない。俺が断る」


「いいえ」


 エリゼは言った。


「会います」


 レイナルトの目が、わずかに険しくなった。


「……なぜ」


「会って、はっきりさせた方がいいと思うから」


 エリゼはレイナルトを見た。


「心配してくださっているのはわかります。でも、これは私が決めることです」


 レイナルトが何か言いかけて、口を閉じた。それからふっと視線を外した。横を向いたまま「……好きにしろ」と言った。


 拒絶ではなかった。不本意だが認める、という、あの声だった。



 客間に通すと、使者は丁寧に礼をした。


「アルフォンス殿下より、エリゼ様へ伝言を預かっております」


「どうぞ」


「殿下は——エリゼ様に会いたいと申しております。話がある、と。もし可能であれば、殿下がこちらへ赴くこともご検討いただけないか、と」


 エリゼはしばらく使者を見ていた。


 何かを感じるか、と自分に問いかけた。


 怒りか。懐かしさか。あるいは未練か。


 何もなかった。


 正確には——ここから遠い、関係のない話だ、という感覚だけがあった。王都での出来事は、もう別の時代の話のように思えた。



「使者の方に、一つ確認させてください」


 エリゼは言った。


「殿下が話したいことは、何ですか」


「それは……殿下から直接お聞きいただければと」


「おおよそでいいので」


 使者が少し迷ってから答えた。


「婚約破棄の件について、改めてお話ししたいということかと。それと……その後のことを、お詫びしたいと」


 エリゼは静かに頷いた。



 廊下にゲルハルトが立っていた。その後ろに、少し離れてレイナルトがいた。


 エリゼに気づいたゲルハルトが、小声で囁いた。


「旦那様が、ずっとあそこに立っておられます」


「そうですか」


 エリゼはゲルハルトに視線を戻して、使者への返答を伝えた。


「殿下にお伝えください」


 使者が書き留める準備をした。


「私は今、やるべきことがあります。辺境で、まだ終わっていない仕事があります。殿下のお話を聞きに王都へ戻るつもりはございませんし、殿下にここへお越しいただく必要もありません」


 一息ついてから、続けた。


「殿下が何かを伝えたいとお考えなら、手紙でどうぞ。それだけです」


 使者が一礼した。穏やかだが、明確な拒絶。それは伝わったと思った。



 使者を見送った後、廊下に戻ると、レイナルトがまだそこにいた。


 ゲルハルトはいなかった。気を遣って消えたのだろう。


 二人が廊下に残った。


 レイナルトがエリゼを見た。その目に、何かが混じっていた。先ほどまでの険しさとは違う、落ち着かない、どこか不安定な色だった。


 エリゼはそれを見て、少し胸が温かくなった。


 この人は心配していたのだ。門前払いにしようとしたのも、険しい目をしていたのも——全部、心配だったのだ。


「ゲルハルトはどこへ」


「急用が、と言って」


「そうですか」


 エリゼはレイナルトを見た。


「何か聞きたいことがあれば、聞いてください」


 レイナルトが少し間を置いた。


「……会って、どうだった」


「何も感じませんでした」


 静かに、しかしはっきりと答えた。


 レイナルトの表情が、わずかに動いた。険しさが解けた、とでも言うような変化だった。顔全体ではなく、目の周りだけが、ほんの少し緩んだ。


 エリゼはその変化を見て、少し意地悪な気持ちになった。


「……もしかして、心配してくれていましたか」


「余計なことを言うな」


 即座に返ってきた。


 しかし否定はしなかった。


 エリゼは笑いをこらえながら、「そうですか」とだけ言って、廊下を歩き出した。


 背後でレイナルトが、小さくため息をついた気がした。


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