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必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


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第20話

 レイナルトが酒を飲んでいたのは、偶然見つけてしまった。


 夜、喉が渇いて厨房へ向かう途中、食堂の扉が少し開いていた。中に灯りがついている。覗くつもりはなかったのに、立ち止まってしまった。


 レイナルトが一人で、テーブルに肘をついて座っていた。手に陶器の杯を持ち、その前に酒瓶が置いてある。顔は俯き加減で、エリゼには見えなかった。


 立ち去ろうとしたとき、板張りの床が軋んだ。


「誰だ」


「……エリゼです。失礼しました、喉が渇いて厨房へ——」


「入れ」


 命令口調だったが、拒絶の色はなかった。エリゼは少し迷ってから、扉を押した。



 テーブルを挟んで向かいに座った。


 レイナルトの顔は、いつもより少し赤かった。目の焦点は定まっているが、普段よりわずかに眠そうな——緊張が解けたような顔をしていた。


「飲むか」


「少しだけ」


 杯が一つ追加されて、酒が注がれた。エリゼはひと口飲んだ。甘みの少ない、強い蒸留酒だった。


 しばらく、沈黙が続いた。



「アンナの命日だ」


 レイナルトが言った。


 エリゼは杯を置いた。


「今日が、三回目の」


「……そうでしたか」


「毎年この日は、一人で飲む。それだけのことだ」


 それだけのことだ、と言ったが、その声は少し違った。「それだけのこと」と自分に言い聞かせているような、そういう声だった。


「お邪魔でしたら、失礼します」


「いろ」


 短く言った。



 少し間があって、レイナルトが話し始めた。


 アンナは、この辺境で生まれた。裕福な家ではなかったが、辺境の土地を誰よりも愛していた。生まれたときから病弱で、王都の医師には「山を下りて療養すべきだ」と言われ続けたが、頑として聞かなかった。


「辺境の空気が、一番体に合うと言っていた」


 レイナルトが杯を傾けた。


「でも、最後の冬を越えられなかった」


「……」


「彼女が生きていれば、この地をもっと早く豊かにできたかもしれない。彼女は農民のことをよく知っていたから。俺より、ずっとうまく話せた」


 エリゼはしばらく黙っていた。


 レイナルトが自分から話すのは、珍しいことだった。酒の助けがあるとはいえ、この人の内側にこれほどの言葉があったとは思っていなかった。


「アンナさんは、今の辺境をどう思うでしょうね」


 エリゼは静かに聞いた。


 レイナルトが顔を上げた。


「……きっと喜んでいる」


 少しして、そう言った。


「と、思いたい」


 その「思いたい」という言葉に、三年分の何かが詰まっていた。確信ではなく、願い。喜んでいると信じたいが、信じる資格が自分にあるのかわからない——そういう迷いが、滲んでいた。


「私もそう思います」


 エリゼは言った。


「緑が戻ってきた畑を見て、喜ばない人はいません。アンナさんがこの地を愛していたなら、きっと」


 レイナルトが黙った。



「私にも、似たようなことがあります」


 エリゼは言った。


 レイナルトが目を向けた。


「誰かのために、全部使ってきた時間がありました。婚約者のため、家のため、社交のため。自分が何をしたいかより、誰かの役に立つことを先に考えて——それが正しいことだと思っていた」


「……」


「でも気づいたら、自分が何者かわからなくなっていた。植物魔法も、ずっとしまい込んでいた。令嬢に相応しくないと言われて」


 レイナルトが何か言おうとした。エリゼは手を軽く振った。


「過去の話です。ここに来てから、少しずつ取り戻せている気がするので」


 二人の間に、静かな時間が流れた。


 酒瓶が、いつの間にか半分になっていた。虫の声が窓の外で続いていた。



「俺も」


 レイナルトが不意に言った。


「この三年、何かを取り戻している気がする。少しずつ、だが」


 エリゼは何も聞かなかった。


 ただ「そうですか」と言って、杯を持ち上げた。


「では、乾杯しましょう。お互いの、取り戻してきたものと、これから取り戻すものに」


 レイナルトが少し間を置いた。それから、杯を上げた。


 陶器が触れ合う、小さな音がした。


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