第16話
眠れない夜があった。
季節の変わり目のせいか、それとも昼間の作業で頭が動きすぎているのか、布団に入っても目が冴えて仕方がなかった。次の水路の補修計画、ドルン村の土壌改良の順序、来月植え付ける種の種類——考えることが多すぎて、思考が止まらない。
エリゼは諦めて起き上がった。
上着を羽織って廊下に出た。城の中は静かで、使用人たちもとっくに眠っている。ふと、以前ゲルハルトが「屋上からの眺めがいい」と言っていたのを思い出して、階段を上った。
屋上の扉を押すと、冷たい夜風が頬を打った。
そして、人がいた。
石造りの手すりに腕をついて、夜空を見上げている長身の人影。黒い髪が風に揺れていた。
レイナルトだった。
エリゼは一歩下がりかけた。邪魔をするつもりはなかった。しかしその動きに気づいたのか、レイナルトが振り返らないまま言った。
「見ていけ」
空を指していた。
エリゼは扉の傍に立ったまま、上を向いた。
声が出なかった。
星が、降ってくるようだった。
王都でも星は見えた。しかしそれは、街の灯りに薄められた、控えめな星だった。ここは違った。漆黒の空に、数え切れないほどの星が、ぎっしりと敷き詰められている。天の川が白い帯になって空を横切り、その両脇をびっしりと星が埋めていた。
手を伸ばせば届きそうな距離に、星がある。
そんな錯覚を起こすほど、近かった。
気づいたら、手すりの傍まで歩いていた。
レイナルトの隣、少し間を空けて立った。二人で並んで、夜空を見上げた。
しばらく、何も言わなかった。言葉が要らなかった。
「この土地の唯一の自慢が、この空だ」
レイナルトが言った。
低い声が、夜風に混じった。
「農地は痩せている。人は少ない。冬は長い。誇れるものが何もない土地だが——空だけは、誰にも負けない」
エリゼはしばらく星を見てから、答えた。
「十分すぎる自慢です」
レイナルトが少し動いた気がしたが、横顔は見えなかった。
「王都に、こんな空はありません。私、二十年生きてきて、星がこんなに多いことを知らなかった」
「……そうか」
「来てよかったと思う理由が、また一つ増えました」
レイナルトが何も言わなかった。
風が吹いた。エリゼの髪が揺れて、頬にかかった。払いながら、ふと隣を見ると、レイナルトがまっすぐ空を見ていた。
その横顔が、昼間とは違って見えた。
昼間のレイナルトは、常に何かを考えている顔をしている。領地のこと、農民のこと、次の仕事のこと。しかし今夜は——ただ空を見ていた。何も考えていないのか、あるいは言葉にならないことを考えているのか。
どちらにしても、静かな顔だった。
どれくらい並んでいただろう。
城の時計が遠くで鳴った。夜中の二時を告げる音だった。
「そろそろ休みます」
エリゼは言った。
「おやすみなさい、レイナルト様」
「ああ」
扉に向かいかけて、エリゼは振り返った。
「ありがとうございました。眠れそうです」
レイナルトはまだ手すりに腕をついたまま、こちらを向かなかった。
「……どういたしまして」
それがひどくぎこちない言葉に聞こえて、エリゼは思わず小さく笑ってしまった。笑ったことに気づかれないよう、すぐに扉の中に入った。
部屋に戻って布団に入った。
さっきまでの思考の騒がしさが、嘘のように静かになっていた。
眠れそうだ、と思った。しかし目を閉じると、満天の星の代わりに、レイナルトの横顔が浮かんだ。あの静かな顔。あの「どういたしまして」という不慣れな言葉。
胸のあたりが、ざわざわしていた。
これは何だろう、とエリゼは思った。
答えを探しているうちに、いつの間にか眠っていた。




