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必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


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第15話

城に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


 門の前でゲルハルトが待っていた。腕を組んで、いかにも「まあ無理だろうな」という顔をしていた。その顔がエリゼの姿を捉えた瞬間、わずかに変わった。


「お帰りになりましたか」


「ただいま戻りました」


 エリゼは鞄から一枚の紙を取り出して、ゲルハルトに差し出した。


 ゲルハルトが受け取り、目を落とした。


 読む速度が遅くなった。もう一度、最初から読み直した。


「……ドルン村、水利組合への参加承諾書」


「グスタフ村長直筆の署名入りです。念のため、立会人として村の古老にも名前を書いていただきました」


 ゲルハルトが顔を上げた。


「どうやったんですか」


「植物魔法を見せたら、興味を持ってくれました。土を改良してみせたら、話を聞いてくださって」


「それだけで?」


「それだけです。グスタフ村長は頑固ですが、誠実な方です。言葉より先に行動を見せれば、ちゃんと判断してくれました」


 ゲルハルトはしばらく黙っていた。



 それから、深く頭を下げた。


 副官としての礼儀的なお辞儀ではなく、人間として頭を下げる、という種類の動作だった。


「非礼をお詫びします、エリゼ様」


「ゲルハルトさん」


「最初から、お前はすぐ帰ると思っていました。王都の令嬢が、辺境の泥仕事に耐えられるわけがないと。旦那様が余計な気苦労をされると、そればかり心配していた」


「当然の心配だと思います」


「しかし——」


 ゲルハルトが顔を上げた。


「エリゼ様は違った。私の目が節穴でした」


 エリゼは少し考えてから、答えた。


「あなたが主人を守ろうとしていたのは、わかっていました。それは責められません。これからも遠慮なく言ってください、気になることがあれば」


「……はい」


 ゲルハルトがまた頭を下げた。今度は短く、しかし真剣に。



 夕食の前に、レイナルトに報告した。


 書斎でレイナルトは地図を広げていた。エリゼが承諾書を机に置くと、一度それを見て、それからエリゼを見た。


「ドルン村が入ったか」


「はい。グスタフ村長は、水路の整備が整い次第、積極的に協力してくださるとのことです」


 レイナルトが承諾書を手に取った。しばらく見ていた。


 それから、静かに言った。


「よくやった」


 たった三文字だった。


 エリゼは一瞬、反応が遅れた。


 アルフォンスに仕えていた三年間、「よくやった」と言われたことはなかった。労われたことも、認められたことも、ほとんどなかった。だから今、この短い言葉をどう受け取ればいいかわからなくなって、一秒ほど呆けた。


「……ありがとうございます」


 声が、少しだけ普通ではなかった。


 レイナルトが何かを言いかけて、やめた。それ以上は聞いてこなかった。



 自室に戻ってから、エリゼはしばらく窓の外を見ていた。


 なぜ嬉しいのだろう、と思った。


 仕事をして、認められた。それだけのことだ。レイナルトは主として当然の評価をしたに過ぎない。そんなことで胸が温かくなる理由は——


 考えていると、リーナが部屋に入ってきた。


「奥様、顔が赤いですよ」


「そう? 今日は日に当たりすぎたかもしれない」


「外から帰ってきてもう一時間経ちますけど」


「……少し疲れているのかもしれない」


 リーナが何か言いたそうな顔をして、何も言わなかった。


 エリゼは窓の外に視線を戻した。


 夕空が、橙色に染まっていた。

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