3話 勘違い①
それは、廊下で姉とすれ違った時のことだ。
姉とは言え、まだ転生してから数週間しか経っていない。
……俺の主観としては、赤の他人の、もの凄く美人な女子高生という認識だ。
だが、家族との最低限の関係修復くらいはやっていこうと決めたわけだし、アメジストのような紫の瞳でこちらをじっと見つめてくる彼女からは、冷徹な見た目に反して、どうにかして俺と仲良くしたいという健気な空気を感じる。
……まあ、その綺麗な瞳の奥が、獲物を値踏みする肉食獣のように爛々と輝いていて、なぜかさっきからゴクリと重苦しく喉を鳴らす音がここまで聞こえてくるのだが。
きっと気のせいだろう。
俺は、職場の新入社員の女の子に、距離間を探りながら話しかけた事を思い出し、おっかなびっくりと言葉を紡ぎ出した。
(とりあえず、なんか褒めとけ……!)
前世の俺は、女性に話しかけるとき、常に心のシャッターを下ろしていた。
内心では『俺みたいな汚いおっさんが声かけてごめんね。本当は俺も業務連絡以外で話したいわけじゃないの。嫌悪感抱かせたら悪いし』と、全力で現実逃避をキメていたものだ。
そんな限界社畜時代に、唯一培った社交術――
『セクハラにならない一線を見極めつつ、相手の持ち物を褒めて、相対的に相手のセンスの良さを褒める』という悲しき生存戦略を、俺はできるだけ紳士的に繰り出した。
「ね、姉さん。今日も可愛いリボンしてるね。その……うん、すごく似合ってると思うよ」
恥ずかしさが先に立ち、うまく言葉を続けることができない。
家族間であれば何気ない褒め言葉で許される範囲だが、前世の俺(アラフォーの社畜おっさん)の感覚からすれば、あまり仲良くない女子高生にこんな事言ったら完全に警察案件である。
だが、その瞬間。
姉は顔をトマトのように真っ赤にし、ガチガチに直立不動の姿勢のままフリーズした。
そしてプルプルと震えながら、裏返った声で叫んだのだ。
「好感度が、限界突破しています……!」
一瞬『それはいい意味でなの? それとも悪い意味で?』と聞きたくなったが、まだ俺たちの関係は手探りの状態。
これ以上の悪化は防ごうと、俺は言葉を飲みこんだ。
だがそこまでは、まだ『感情表現が愉快な姉なんだな』で済んだかもしれない。
だが、その直後の彼女の挙動が、俺の脳に強烈な警鐘を鳴らした。
「じゃ、じゃあね、姉さん」
俺が横を通り過ぎた瞬間。
あろうことか、姉は目の前にある廊下の壁に正面から思い切りぶつかった。
そして、ぶつかった状態のまま進路を変更することもなく、壁に向かって、何度も虚しくその場で足踏みを始めたのだった。
◇
話はそれだけでは終わらなかった。
お茶を持ってきてくれた、銀髪ポニーテールが凛々しいヴァルハイト家のメイド長、ヒルダに対してもそうだ。
彼女は使用人という立場もあって、内心はどうか分からないが、いつも親切に身の回りの世話をしてくれていた。
そのせいもあってヒルダとは一番接する機会が多く、俺自身も他の家族よりは幾分か打ち解けて話せるようになっていた。
ある日、彼女が俺の部屋の掃除をしてくれていた時のことだ。
かがむたびに、メイド服の胸元をこれでもかとはち切れんばかりに膨らませた超絶豊満ボディが嫌でも視界に入り、俺の精神力をガリガリ削ってくる。
(くっ……なんて事だ! 見てはいけないと思うのに胸の揺れに目が勝手に吸い寄せられてしまう。ってか肉感マジで凄まじいな……!)
目のやり場に困り果てた俺は、前世の社畜マナーで場の空気を取り持とうと、自分のおやつとして出されていたクッキーを差し出した。
「いつもお仕事ご苦労様。これ、良ければどうぞ」
気遣いと労いを込めた、なんてことない一言。
だが次の瞬間、ヒルダは琥珀色の瞳を限界までひんむき、息を詰まらせて直立不動のままフリーズすると――。
「好感度が、限界突破しています……!」
と、姉と全く同じセリフを言い放った。
そして、俺の手からクッキーが離れたコンマ1秒後。
差し出したクッキーは、『シュンッ!』と残像が残るほどの神速で消失し、代わりに彼女のメイド服のポケットへと一瞬で格納されたのだ。
その後ヒルダは、顔を沸騰させたまま、やはりロボットのようなギクシャクとした直角の動きで方向転換。
そのまま猛烈な速度で廊下の彼方へと去っていったのだった。
◇
実際の状況を言えば――。
薄く筋肉の浮き出たしなやかな肉体に、痩せた事で本来の甘いマスクを取り戻したユピテ。
そこから放たれる、圧倒的なオスフェロモンと、他の男性からは向けられる事のない、優しい微笑みと言葉を至近距離で浴びせられ、彼女たちは「尊すぎて呼吸が止まる」と、脳内ショートを起こしているだけなのだった。
廊下で壁に激突して足踏みを始めた姉のルナにいたっては、目の前のユピテが尊すぎて脳内のヒューズが焼き切れた結果、視界が完全に真っ白になって前が全く見えない状態になっていただけである。
その状態でがむしゃらに歩き出したら、たまたま目の前が壁だったという、ただそれだけの行動だった。
そして、メイド長のヒルダにいたっては、
(ユピテ様から手渡しでお菓子をいただけるなんて、恐れ多すぎて1秒でも早く家宝としてポケットに仕舞わなければ……っ!)
という、極限の心理によって身体能力がトップスピードで誤作動。
あまりの超高速ムーヴでクッキーを懐のポケットに仕舞い込んだため、ユピテの目には『アイテムが瞬間移動した』ように見えただけだったのだ。
――そんな、あまりに純情で必死な乙女たちのパニックが引き起こした奇跡の誤作動だったが。
ゲーム脳のユピテの視点は、全く別の結論を導き出していた。
「……俺、ゲームにそっくりな異世界に転生したと思って喜んでたけど……」
俺は、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、震える声で呟いた。
「これ、マジで本物のゲームのプログラムの中に、俺だけ生身でダイブしちゃってるだけなんじゃないか!? 」
確信が、冷徹なロジックとなって脳内を支配していく。
「だって関わる人間全員、テンパると『好感度が、限界突破しています!』とか、本来システムメッセージであるはずのテキストを音声出力しちゃうもんな!!
姉は障害物判定を無視して直進しようとするし、メイド長のヒルダにしても、アイテムの受け渡しモーションバグって瞬間移動してたし。
家族やメイドが俺が近づくとフリーズするのも、完全に当たり判定のバグか、プレイヤー接近時の読み込み遅延だわ!!」
そう。俺の周囲の人間がバグったラジオのように同じセリフを連呼するのは、思考AIの過負荷によるシステムエラーと考えれば説明がつく。
間違いない。この世界は、俺以外は全員がただのNPCだ――!




