第9話 草原の雛鳥
石畳と喧騒の街ソゾム=ヴィーグを出立した一行は、見渡す限りに広がるフェル・フヴィーラの大草原をひたすらに歩き続けていた。
背の丈ほどもある青草が風に大きく揺れ、ザワザワと波打つ音と共に、乾いた土と草のむせ返るような青い匂いが鼻腔をくすぐる。
どこまでも続く蒼穹の下、新調したばかりの武具を纏った五人の足取りは確かな希望を帯びて軽やかだった。
しかしながら道中、彼らは過酷な洗礼を幾度か受けることとなる。
最初の襲撃は、太陽が天頂へ差し掛かろうとする黄金の正刻(正午)前のことだった。
吹き抜ける風が青草を大きく波打たせた瞬間、最前列を歩いていたアルベローゼの尖った耳がピクリと跳ねた。
「……風下!来るよ!」
エルフ特有の超聴覚が、風の音に紛れた微かな『殺意を含む摩擦音』を捉える。
その警告と同時、風下の草むらが不自然に弾けた。
アルベローゼは瞬時に反応すると、バハルの背中から数本の矢を引き抜き、地面に突き刺した。
現れたのは三頭の『ノルド・ラウム』――体毛を周囲の青草と完全に同化させる伏撃猫獣だ。
自身の臭いを消すために必ず風下から忍び寄り、音もなく喉笛を食いちぎる狡猾な暗殺者である。
「遅ぇッ!」
誰よりも早く反応したのは、パーティーの絶対的な盾であるバハルだった。
二・四五ガルイの巨躯が岩のように立ちはだかり、ソゾム=ヴィーグで新調したばかりの漆黒の重装甲、黒鋼の大楯を大地に叩きつけるように構える。
ガァァンッ!!
鋭い爪と牙を突き立てようとした先頭の一頭が、分厚い鉄の壁に激突し、無残な骨の軋む音を立てて弾き飛ばされた。
「エリカ!視界を!」
バハルの巨体の陰から、ディオンが鋭く叫ぶ。
伏撃猫獣の最大の武器は、草むらに溶け込むその体毛の保護色だ。
「ええ、任せて」
エリカは冷静に杖を掲げ、流れるような美しさで詠唱を紡いだ。
「《エメ・エレ(風・衝撃)》!」
第一位階・通常魔法――杖の先端から極度に圧縮された突風が爆発的に放たれ、前方扇状の青草を根こそぎ薙ぎ倒した。
隠れ蓑を失い、保護色の意味を成さなくなった二頭のノルド・ラウムが、丸裸の平地に無防備な姿を晒す。
「そこだ!」
ディオンが滑るように踏み込んだ。
「《エメ・アンベル・ヴェルン(風属性魔力・刀身収束)》!」
第一位階・古代エルフ言語魔法――ディオンの黒鋼の細剣が、淡い翠の光を帯びる。
刀身の空気抵抗を極限までゼロにするその魔導剣技は、彼の踏み込みの速度を常人の不可視の領域へと押し上げた。
シュァンッ! という、空気を切り裂く音すら置き去りにした銀閃。
交差した瞬間に、二頭の魔獣の首が音もなく胴体から滑り落ち、ワンテンポ遅れて鮮血が噴き上がった。
「グルルァッ!」
だが、バハルの盾で弾き飛ばされていた最初の一頭が死に物狂いで起き上がり、魔導杖を構えた直後のエリカへ向けて執念の跳躍を見せた。
その顔面に、ピシュッ!と空気を裂いて飛来した白樺の矢が深々と突き刺さる。
「ふふん!私の弓の前で、女の子に触れられると思わないことね!」
アルベローゼが地面に突き刺していた二の矢を番えながら、得意げにニシシと笑った。
魔法など使わずとも、彼女の天性の動体視力と弓術は、一切の死角なき完璧な迎撃網を構築している。
「見事な連携です。怪我はありませんね?」
ライナスが油断なく周囲に気を配りながら、穏やかに労いの言葉をかける。
魔物の死骸から手早く素材を回収し、彼らは再び歩みを進めた。
それから一クロス(一時間)ほど歩いた頃。
なだらかな丘陵地帯に差し掛かると、前方に十数頭からなる群れが見えた。
立派な角を生やした、鹿に似た穏やかな草食獣たちだ。
しかし、一行の視線はその群れよりも、彼らに忍び寄ろうとしている別の一団へと向けられた。
「……冒険者のパーティーか?」
ディオンが目を細める。
風下から身を屈め、鹿の群れを狩ろうと接近しているのは、革鎧を着込んだ若き四人組の冒険者たちだった。
食料の調達か、あるいは素材目当てだろう。
「おお、今日の夕飯は美味そうな鹿肉か?あいつら、大物を見つけたな」
バハルが腹の虫を鳴らしながら涎を拭うが、ライナスとエリカの歩みがピタリと止まった。
「バハル、ストップ。……エリカ、どう見ますか?」
「ええ……『魔力流』が著しく歪んでいるわ……。あの群れ、生命体としての魔力波長が草食獣のそれじゃない。それに……アルベローゼ……」
「うん、分かってる。あいつら、草を食んでるフリをしてるけど、目がずっとこっち……いや、近づいていくあの冒険者たちの『急所』を値踏みしてるよ」
彼らの目の前にいるのは、無害な草食獣などではない。
草食獣に擬態して群れに紛れ込み、近寄ると一斉に正体を現して襲うという凶悪な狼角獣『ヴァルグ・ヘルン』の群れだったのだ。
冒険者たちが狩りの間合いに入った、まさにその瞬間だった。
擬態を見破られたと悟ったのか、あるいは獲物が罠に飛び込んできたと判断したのか……。
十数頭のヴァルグ・ヘルンが一斉に本性を現し、眼球を血走らせて狂暴な咆哮を上げた。
「なっ……!?狼角獣だ!散れ、囲まれるぞ!!」
若い冒険者の一人が絶叫するが、遅すぎた。
ドドドドッ! と地鳴りを立てて、丘の上から雪崩のように突進してきた魔獣の群れが、瞬く間に四人を完全な死地へと包囲する。
前衛の戦士が掲げた盾は、先頭の一頭による重い突進であっさりと弾き飛ばされ、彼らは絶望的な悲鳴を上げた。
「間に合わないぜ!」
遠くからその惨状を見たバハルが叫び、大楯を構えようとするが、それより早くエリカが前へ出た。
「バハル、盾はいらないわ。貴方たちの新しい武器の威力を試す絶好の機会よ。私が……足を止める!」
彼女は冷徹な眼差しで、冒険者たちに牙を剥こうとしている群れを見据え、魔導杖を大地へ強く突き立てる。
「《ロテラ・ヴァイン(土・拘束)》!」
エリカの放った膨大な魔力に呼応し、冒険者たちへ飛びかかろうとしていた群れの足元の地面が突如として隆起した。
ズドドドンッ!!
鋭い岩柱が次々と飛び出し、先頭集団の魔獣たちの四肢を深々と貫き、容赦なくその場へと縫い止める。
「ギャンッ!?」
空中で急ブレーキをかけられた先頭集団に後続の魔獣が次々と激突し、恐るべき突進力が自壊して血みどろの魔獣の山ができた。
腰を抜かした冒険者たちの頭上を飛び越え、巨大な影が躍り出る。
「もらったァァッ!」
その混乱の只中へ、バハルが弾丸のように突撃した。
彼の手には、新調した黒鋼の軽ハルバード。
二・四五ガルイの巨体から生み出される圧倒的な遠心力と、古代龍の血脈による規格外な膂力が、長く重い得物に乗る。
ブォォォンッ!!
空気を叩き潰すような凄まじい風切り音と共に放たれた大横薙ぎ。
強固な岩柱ごと、密集していた五頭のヴァルグ・ヘルンの胴体を、まるで熟れた果実のように一撃でまとめて粉砕した。
夏の土砂降りのような血の雨が、若い冒険者達に降り注ぐ。
バハルが瀕死のヴァルグ・ヘルンの群れに次々とハルバードを叩きつけると、血煙と岩の破片が盛大に宙を舞い、あまりの破壊力に冒険者たちは唖然と口を開けて固まっていた。
「ディオン、右の三頭が抜ける!迎撃して!」
エリカの冷静な戦況報告を受け、ディオンが右翼へ回り込む。
「《フラグメ・アンベル・ヴェルン(炎属性魔力・刀身増幅)》!」
刀身に炎属性の魔力を極限まで増幅させる。
黒鋼の刃が爆発的な熱を帯び、赤蓮の炎を纏いながらゴウッと燃え上がった。
「シッ!」
ディオンが群れの側面に切り込み、炎の軌跡を描きながら流れるような連撃を叩き込む。
斬撃と同時に発火を促すその魔剣技は、ヴァルグ・ヘルンの分厚い毛皮を容易く焼き切り、傷口を瞬時に炭化させていく。
悲鳴を上げる間もなく、炎を纏った三頭が次々と黒焦げになって大地に伏した。
残った数頭がパニックを起こして逃げ出そうとするが、その逃走経路にはすでにアルベローゼの放った矢が正確な死の射線を引き、逃げる魔獣の急所を次々と射抜いて完璧な殲滅を果たしていた。
もうもうと舞い上がっていた土埃が、フェル・フヴィーラの大草原を吹き抜ける風に流されてゆっくりと晴れていく。
後に残されたのは、原形を留めないほどに粉砕された岩柱と、真っ黒に炭化したヴァルグ・ヘルンの死骸の山。
そして、むせ返るような血と焦げた獣の脂の匂いだけだった。
「な……なんだ、あんたら……」
死の淵から文字通り命拾いをした若い男の冒険者が、へたり込んだまま、ガタガタと震える声で呟いた。
彼の瞳には、自分たちにとっては全滅必至だった絶望的な数の群れを、ほんの数十秒の間に息を呑むような連携で粉砕した五人の姿が、まるで神話の怪物でも見るかのような畏怖を込めて映り込んでいる。
「このバカ!失礼なこと言わないで!『なんだ』じゃなくて『ありがとう』でしょうが!……」
恐怖と腰の抜けかけた仲間の背中をバンッと強く叩き、前に進み出たのは、身の丈に合わない魔導杖を握りしめた黒髪の女ドワーフだった。
ドワーフでありながら魔導職を志しているらしい彼女もまた、足の震えを必死に抑えながら、エリカたちへ向かって深く、何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!本当に、助かりました……。お礼、お礼をしたいんですが、私たちまだ駆け出しで……恥ずかしい話、あまり持ち合わせがなくて……」
彼女は煤けたローブのポケットから擦り切れた革の財布を取り出し、申し訳なさそうに中身を確かめる。
彼らにとって、死地から救い出してくれた文字通りの命の恩人である。
ここで法外な報酬を要求されても、あるいは身ぐるみを剥がされても文句は言えない立場だった。
だが、パーティーのリーダーとして前に出たエリカは、殺意をねじ伏せるために握りしめていた杖から少しだけ力を抜き、村の学校で見せていたような柔和で温かい微笑みを浮かべた。
「お礼はいりませんよ。気になさらないで」
「え……?でも……」
冒険者間で命を助けられたら、必ず金銭か魔力結晶等で支払いをするのが通例である。
「その代わり、と言っては何だけれど……」
エリカは少しだけ表情を引き締め、かつて特務魔導中隊長として部下を指導していた頃のような、厳しくも慈愛に満ちた声で告げた。
「少し、あなた達の今の装備と練度では、ここは危険かもしれないわ。ヴァルグ・ヘルンを相手にするには、まだ連携も練度も足りていない。命があるうちに、一度ソゾム=ヴィーグの街へ引き返すことをお勧めするわ…………それにあなた達の編成には回復を担う者もいないようだしね」
「ああ……神聖魔法の術士は逃げてしまったんです……」
「そう……それでは編成を整えたほうがいいわね」
その優しい忠告と、恩赦とも言える寛大な言葉に、若い冒険者たちは一瞬ぽかんと呆けた後、せきを切ったように喜びに沸き立った。
やっと感覚が現実に戻ったのだ。
「た、助かった……!」
「生きて帰れるんだ……っ!」
彼らは互いの肩を抱き合い、泥と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、生を実感して泣き崩れた。
そんな歓喜の輪の端で、魔獣のツノに掠められて痛みに顔を歪めている前衛の若いエルフの戦士に、ライナスが静かに歩み寄った。
「運が良かったですね。軽い打撲と擦り傷程度のようですが……そのままにしては、帰りの道中に障る。治しておきましょう」
「えっ……あ、でも……」
エルフの戦士が戸惑い遠慮するより早く、ライナスは手にした司祭の杖を軽く掲げ、美しく澄んだ声で詠唱を紡ぐ。
「さぁ……そこの脚甲も外しなさい……《ヴィータ・レクト・カルネ(生命・修復・肉体)》」
第一位階・神聖魔法。
杖の先端から、ひだまりのような淡く温かい緑色の光の粒子が溢れ出し、エルフの戦士の傷口へと吸い込まれていく。
痛みがふっと消え去り、泥に塗れた傷口が瞬く間に塞がって綺麗な肌を取り戻していく様に、戦士は信じられないものを見るように目を丸くした。
貴重な回復魔法を、事も無げに行使する見目麗しき神父。
この五人がただの冒険者ではないという事実を肌で感じ取り、若いパーティーは再び、深い畏敬の念を込めて何度も頭を下げるのだった。
焦げた肉と血の匂いが漂う中、エリカは一人、杖を握りしめ、小さく荒い息を吐いていた。
(……燃やせ。もっと、すべてを灰にするまで……!)
魔法を行使し、圧倒的な力で命を奪ったことで脳裏にこびりつく、暗く悍ましい破壊の衝動。
(次はこの冒険者たちを、バハルを、ディオンを……切り刻め……ライナスを燃やせ!)
彼女は指の関節が白くなるほど強く杖を握り、必死にその声を魂の奥底へとねじ伏せた。
湧き上がるドス黒い殺意で、手の震えが止まらない。
カチカチと奥歯が鳴った。
額にはじっとりと冷や汗が浮かんでいる。
「エリカ、見事な制圧でした。おかげで助かりましたよ」
不意に、ライナスが彼女の背中にそっと触れた。
「《メンゾ・コンティ・ハーティア(精神安定)》」
魔力を微かに指先に込め、ごく自然な接触を装って、彼女の内に渦巻く狂気と黒い感情を静かに散らしてくれたのだ。
「ありがとう……ライナス」
震えが引き、エリカはかすれた声で呟く。
「無理はしないでください。それに毎日やるんですから……礼の言葉は不要ですよ」
眼鏡の奥の優しい眼差しに、エリカは救われたように目を伏せた。
そんな二人に、無傷で戦いを終えたバハルが豪快に笑いながら駆け寄った。
「エリカ、魔法ってすげぇな!お前が足を止めてくれたおかげで、一網打尽でラクチンだったぜ!」
「……ええ。バハルのハルバードの威力も、完璧だったわ」
エリカはふっと強張っていた肩の力を抜き、いつもの柔和な笑顔を取り戻して仲間たちを振り返った。
他者の追随を許さない、圧倒的な前衛の防御と破壊力。
それを自在に操り、戦場を支配する魔法の制圧と、寸分の狂いもない遊撃、そして百発百中の狙撃。
さらに、全体を俯瞰し支える神聖魔法の癒やし。
個々の特出した能力が見事なパズルとなって組み合わさり、五人の連携はすでに、先ほど救ったような駆け出しの冒険者パーティーなど、遥かに凌駕する領域へと足を踏み入れていた。
遠くから大声で感謝の言葉を繰り返す冒険者たちに軽く手を振りながら、一行は互いの無事と強さを確かめ合うように頷き、再び果てなき草原の先へと歩みを進めていった。




