第8話 赤い教え
翌朝。
窓から差し込む朝陽が、ソゾム=ヴィーグの煤けた石畳の街並みを淡く黄金色に染め上げる中、一行は古い歴史を持つ石畳の街の中心部へと足を向けていた。
目的は、これから彼らが挑む過酷な旅路に見合うだけの、信頼に足る武具の調達である。
重厚な鉄の扉を軋ませて押し開けた先は、肺を焼くようなむせ返る熱気と、鉄錆、打ち油、そして職人たちの汗が入り混じった独特の匂いに満ちていた。
そこかしこで巨大な炉が赤々と燃え盛り、屈強なドワーフの職人たちが巨大なハンマーを振り下ろす。
壁全体が炎に照らされ、赤く彩られていた。
カン、カン、という金床を叩く甲高い音が、腹の底まで響き渡っていた。
だが、彼らが持ち込んだ武器を一目見るなり、腕の丸太のように太い親方風のドワーフは忌々しげに顔を歪め、バハルの斧とディオンの剣を容赦なく石の床へと投げ捨てた。
ガチャン、と無残な金属音が工房内に響く。
「お前らバカか? 近所の裏山を散歩する気分で持つってんなら、刃こぼれくらい直してやるよ。だがな、お前らがこれから向かうのはあの『グリフト・ヘラー』だろ! そんな使い古された屑鉄なんぞで、命がいくつあっても足りねぇってのが分かんねぇのか!」
親方の容赦のない暴言に、バハルは顔を真っ赤にして肩を怒らせた。
喉まで出かかった怒声を必死に抑え込むように、分厚い拳をギリギリと強く握りしめる。
ピリついた空気を裂くように、ライナスが静かに一歩前に出た。彼はバハルの肩にそっと手を置き、宥めるように口を開く。
「彼らが言う通りですよ、バハル。武器は命を預ける相棒です。ここで新調しましょう」
「え……?いや、あの斧は手に馴染んでるし、研げばまだ十分使えるんだけどな。金だって、そう余裕があるわけじゃねぇし……もったいなくねぇか?」
「オメェ、まだそんな命知らずな寝言を吐いてんのかよ!」
呆れ果てた別のドワーフの怒号が再びこだまする。
ライナスは小さくため息をつき、頑なな戦士の目を見据えて諭した。
「バハル、無理ですよ。お金より大事なものがある。私たちは何が何でも、生きて帰らなければならないんですから」
静かだが有無を言わせぬライナスの説得に折れたのか、バハルは苦虫を噛み潰したような顔で渋々とうなずいた。
それから、一足先に買い物を済ませたディオンは、吸い付くような重心の良さと油光りする重厚な輝きを持つ黒鋼の細剣、取り回しの良い黒鋼の軽盾、そして心臓などの急所を確実に護る黒鋼の軽胸当てを新調した。
一方のバハルは、リーチと圧倒的な破壊力を兼ね備えた黒鋼の軽ハルバードと、分厚い装甲を誇る黒鋼の大楯、そして全身を堅牢に包み込む黒鋼の半鎧を揃え、その巨体をさらに威圧的なものに変えていた。
アルベローゼは凄まじい物量となる山のような矢弾を買い込み、そのすべてをバハルの背中に備え付けられた矢筒に即座に引き抜けるよう計算された配置でしっかりと固定していく。
昼下がり。
一行は乾いた喧騒と香辛料の匂いが漂う市場の一角を歩いていた。
砥石や薬草、そして万が一の時のための少量のポーションを買い終え、街路の雑踏に紛れようとしたその時だった。
すれ違いざま、ディオンの肩へ乱暴に体当たりをしてきた獣人の男が、あろうことか逆に声を荒らげた。
「いてぇな、このバカヤロウ! どこに目ぇつけて歩いてやがる!」
怒鳴り声を上げた獣人の動きが、次の瞬間、まるで時が止まったかのように完全に凍りついた。
喧騒に満ちた大通りの真ん中で、ライナスが普段は決して抜かないはずのミスリル(魔導金属)の短サーベルを抜き放ち、その白銀の切先を、獣人の開いた口の中に深々と突き入れていたからだ。
抜刀の気配すら感じさせない、ほんの一瞬の、洗練され尽くした制圧の所作だった。
「私はこの剣からも魔法を撃てます……。さて、どうしますか?今ここで魔法を放ち、その顎を内側から焼き払いますか?それとも、このまま脳髄まで刺し込みましょうか」
穏やかな笑顔のまま、しかし底知れぬ絶対零度の冷気を纏ったライナスの声に、獣人は滝のような脂汗を流し、全身をガタガタと痙攣させるように震わせる事しかできなかった。
「兄さん……?」
ディオンが戸惑いの声を漏らす頃には、周囲を行き交う人々が異常事態に気付いて足を止め、大通りは不穏なざわめきに包まれつつあった。
「ディオン、見なさい。男の右手です」
ライナスに促され、ディオンが獣人の足元に視線を落とすと、恐怖で脱力した男の右手から、見覚えのある革の財布がポトリと石畳に落ちた。
それは紛れもなく、ディオン自身の財布だった。
体当たりに乗じた、鮮やかなスリの現行犯である。
その時、周囲のピリついた空気を切り裂くように、規則正しくも凛とした軍靴の足音が響いた。
現れたのは『赤』――王国の治安維持を担い、凶悪な魔導犯罪の摘発を専門とするエキスパートとして恐れられ、同時に絶大な人気を誇る魔導大隊の精鋭たちだった。
彼女たちは一目でそれと分かる、鮮やかな赤いトリコーン帽を斜めに被り、風に揺れる真紅のマントを羽織っている。
腰には赤鞘のサーベルを帯び、手には魔導を瞬時に収束させるための赤いショートロッド。
さらに赤い手袋とブーツを身につけ、女性は優雅でありながら動きを阻害しない赤いプリーツスカート(男性は機能的な乗馬ズボン)を着こなしている。
白と黒を基調とした制服と真紅のコントラストは、王都の民にとって羨望の的そのものであった。
街の外への遠出や迅速な展開にはペガサスを用いることでも有名である。
パタパタと軽やかな足音を立てて現場に到着した女性ペアのうち、青髪を肩まで伸ばし、愛らしいカチューシャでまとめた隊員が、目の前の光景に息を呑んで立ち尽くした。
彼女の視線は、地面で震えるスリの獣人男ではなく、その口元にミスリル(魔導金属)の短サーベルを寸止めしている銀髪の男の横顔に釘付けになっていた。
「――ライナス……嘘、ライナス・ゼーレドルフ先輩!?」
驚愕に震える声を聞いた瞬間、ライナスはわずかに頬を引きつらせた。
だが、そこはかつて数々の修羅場を潜り抜けた男である。
彼はすぐに表情を律し、いつも通りの爽やかで落ち着いた、大人の余裕を感じさせる微笑みを作ってみせた。
「おや……随分と久しぶりですね、ミリア。スリですよ。現行犯で押さえてあります。彼を連行してもらえますか?」
穏やかな声色で事態の収拾を図ろうとするライナス。
しかし、ミリアと呼ばれた青髪の隊員は、信じられないものを見る目で彼を見つめ返したまま、完全に硬直していた。
そして次の瞬間、彼女はひきつけを起こしたように息を吸い込むと、手にしていた赤いショートロッドを天へと掲げた。
「中隊長命!緊急事態! 大通り中央区画! 全員、直ちに集結しなさい!!」
ロッドの先端からバチンッと赤い火花が散り、特殊な周波数の通信魔法が街中に放たれた。
「ちょっ、ミリア!?」
事態の急変にライナスが止める間もなく、街のあちこちから、風を切り裂くような鋭い足音と共に真紅のマントが次々と舞い降りてきた。
一人、二人、四人……瞬く間に、大通りの真ん中に『赤』の隊員が十名も集結したのである。
本来、王国治安維持魔導大隊『赤』の精鋭たちは、たった二人で三十人規模の武装盗賊団を無傷で制圧し、壊滅させるほどの実力を持つ。
その彼女たちが、一斉に十名も顔を揃えるなど、本来であれば国家転覆を企む大規模テロでも起きない限りあり得ない異常事態だった。
当然、周囲を取り囲んでいた野次馬たちは「どれほどの凶悪犯が潜んでいるんだ」と青ざめ、息を殺して後ずさった。
だが、集結した十名の精鋭たちの殺気は、スリの男には全く向けられていなかった。
彼女たちの熱を帯びた視線は、ただ一点、一人の銀髪の男へと集中していたのだ。
「ああ……なんて命知らずな、バカなやつなの……!」
可愛らしい白毛の猫耳を揺らした獣人の隊員が、足元のスリの男を憐れむように、しかし声高らかに叫んだ。
「教会神聖騎士団にて、百年に一度の天才と謳われ……『白雷』の名を欲しいままにした、あの伝説のライナス中隊長からスリを働くなんて……! 万死に値するわ!」
続いてミリアが怒りを含んで吐き捨てる。
その「白雷」という二つ名が響き渡った瞬間。
周囲の隊員たちだけではなく、観衆の若い女性たちからも熱狂の渦が巻き起こった。
「ライナス中隊長!ああ、なんという奇跡……相変わらず、溜息が出るほどお美しいですわ……!」
「嘘、本物のライナス様!?神聖魔法を極められたそのお姿を、再び拝見できる日が来るなんて……!」
「本当に、ライナス中隊長……お願いです、どうか軍にお戻りになってください!私たちはあなたをお待ちしているのです!」
切実な懇願と、うっとりとした感嘆の声。
犯罪の摘発現場であるはずの石畳の大通りは、完全にアイドルを取り囲む熱狂的なファンミーティングの会場と化していた。
その有様を前に、ライナスの完璧な作り笑顔はピシリと音を立てて完全に崩壊した。
極秘裏に『悪霊』の謎を追うための旅である。
ここでかつての身分や居場所が大々的に露呈することは、何としても避けなければならなかった。
何よりも、ライナスは『女性の群れ』が苦手である……照れるのだ。
「ミリア……!みなさんも!それは、ここで大声で言われると非常に困ります!」
「あっ、本当だ! ライナス様だわ!お美しい……」
ライナスファンは時間と共に増えている。
「先輩、こんなところで何をしているんですかーっ!」
「キャーッ!こっち向いてくださいライナス様ーっ!」
集まった『赤』の隊員たちから……観衆のファン達から……一斉に場違いな黄色い大歓声と「ライナス様!!」コールが巻き起こり、真紅の制服の波がじりじりと彼へ詰め寄ってくる。
魔物たちを前にしても微塵も動じなかった歴戦の魔導師ライナスが、圧倒的な熱量と乙女たちの覇気に気圧され、額に滝のような冷や汗を浮かべて真っ青になった。
「ちょっ……!ミリア、スリの男の処分は任せましたよ!」
叫ぶやいなや、ライナスは踵を返した。
かつて軍部で培った魔法剣士としての驚異的な身体能力のすべてを「逃走」へと全振りし、彼は群衆の死角へと滑り込む。
「ああっ、ライナス様! 待ってー!」という乙女たちの悲鳴を背に受けながら、ライナスは文字通り脱兎のごとく、石畳の街の奥深くへと逃げ出していったのだった。
「コラァ!オマエは死刑だ!」という若い女の怒鳴り声だけがライナスの耳に響いていた。
夕刻。
街のあちこちに魔導灯の明かりが灯り始めた頃、一日の疲れを癒やすために集まった裏路地の酒場は、どこも活気と、脂の焼ける香ばしい肉の匂いに包まれていた。
木製の円形テーブルを囲む一行の席では、ジョッキのぶつかる音と共に、ケタケタと楽しげな笑い声が上がっている。
「兄さん、いったいどういうことだい?昼のあの女の子たち……遠くから見たら、10人くらいに囲まれて騒がれてたみたいだけどさ」
ディオンがエールを満たしたジョッキを傾けながら、ニヤニヤと悪戯っぽく尋ねる。
「私は、以前この街の守護役が長かったんですよ……ただそれだけです」
苦虫を噛み潰したような顔で言い訳をするライナスをよそに、バハルは豪快に骨付き肉にかぶりつきながらゲラゲラと笑い声を上げた。
「いやぁ、大したもんだぜ!モテる男は辛いってか、ライナス?」
アルベローゼも、自分のことではないかのように楽しそうに目を細めている。
「あははは、ライナスってば、昔はすっごくかっこいい騎士様だったんだもんねぇ」
仲間たちが面白おかしく冷やかす中、エリカだけは、ジョッキの陰に隠れるようにしているライナスへ複雑な視線を向けていた。
(もう……確かに、昼のあの目にも止まらぬ剣さばきはかっこよかったわよ……かっこよかったけど、何よあれ。昔の部下にあんなに追いかけ回されて、顔を真っ赤にして逃げ出すなんて……)
呆れと、ほんの少しの胸のざわめきが入り混じり、エリカは小さくため息をつく。
賑やかな酒場は夜が更けるにつれて一層の盛り上がりを見せていたが、当のライナスだけは、入口の扉が開く音や窓の外の気配がするたびに終始キョロキョロと落ち着きなく見回し、再びかつての知人に見つかるまいと、冷や汗を流し続けていたのだった。




