第7話 命と引き換えに紡がれた希望
宿の共有スペース。
ランタンの仄かなオレンジ色の灯りが、丸テーブルを囲む五人の顔に深い影を落としていた。
外の通りの喧騒は分厚い石壁に阻まれ、部屋の中はひどく静まり返っている。
バハルが「素面じゃ重くて聞けねぇよ」とばかりに、買ってきた赤紫雫酒のコルクをポンと抜き、無言でグラスに注いで回る。
エリカとディオンは、その赤紫雫酒を遠慮して手で断った。
静寂の中、ライナスがポツリ、ポツリと、澱のように沈み、封じ込めていた過去を語り始めた。
「……あの日、教会の重い木の扉を開けた瞬間の光景を、私は今も鮮明に覚えています」
ライナスの澄んだ声が、夜の部屋の空気に溶けていく。
聖女王歴一九八二年――――ライナスが十二歳、エリカがまだ三歳だったあの忌まわしい日。
「祭壇の上で漆黒の炎に包まれ、狂ったようにのたうち回る三歳のエリカ。その傍らで、成す術もなくただ泣き叫ぶことしかできなかったご両親の姿……。急報を聞き、私の父ガリアスと母セレスティナが駆けつけた時……そこにいたのは、ただの悪霊ではありませんでした」
エリカが、胸の奥を抉られるような痛みに耐えるように、ギュッと自身の膝を握りしめる。
ライナスは苦しげに言葉を絞り出した。
「黒い炎……一族に伝わる秘術を使い……母上は、エリカの魂がその膨大な呪いの熱量に焼き切れるのを防ぐため、『ヤツ』を半分に裂き……その残りの負荷を、私へと移したのです」
「ライナスに……」
エリカの悲痛な呟き。
「正確には『一部』……悪霊のほんの少しの欠片です。それが私の体の奥深くに封じられました。母上は、自らの命を代償にすることで、エリカの体内にある残りの悪霊を……封印をしました」
ライナスは目を閉じ、脳裏に焼き付いた凄惨な記憶を反芻した。
「……『ライナス、ごめんなさい……ライナス』それが、実の母の最期の言葉でした」
息を呑む音だけが、部屋に響いた。
ディオンは初めて聞く母の壮絶な最期に目を見開き、エリカはとめどなく溢れる涙を止めることができなかった。
自分が原因で、彼の母は彼に呪いを植え付け、そして死んだのだ。
「母の命と引き換えに、私の内側には『ヤツ』の欠片が棲みつきました。そして……父ガリアスから、私は非情な宣告を受けたのです」
ライナスは自らの両手を見つめた。
本来であればゼーレドルフの魔導剣を握るために作られたはずの……しかし魔導の杖を握る運命となったその手を。
「父に言われたのは『お前には、ゼーレドルフの剣術を習得することは出来ん。気にするな……こればかりは『血の濃さ』が関係するのだ。ディオン……まだ赤子のあの子は、幸いなことに体得できる。ライナス、お前は騎士団に入り、ただ力をつけろ』という言葉でした」
「私は十二歳で王都の魔導騎士団に見習いとして入団し……ヴィルヘルとの最前線で、狂ったように戦い続けました。力をつけることだけが、母の死に報いる唯一の道だと信じて」
ワインを煽るバハルの手が止まっている。
ライナスの語る現実は、あまりにも過酷で、そしてあまりにも理不尽だった。
「……ですが、悲劇はそれで終わりませんでした」
「私が二十四歳の時……聖都警護役騎士団小隊長としての任務の傍ら、休暇をとってアイナル村に立ち寄った、新月の夜のことです」
ライナスは窓の外の月を鋭く睨みつける。
「私の体内に封じられていた悪霊の欠片が、突如として暴走し……私は発狂しました」
「兄さん……ッ」
ディオンの喉から、血を吐くような悲痛な声が漏れる。
「その私の中で荒れ狂った悪霊を封じたのは……当時十二歳だった、弟のディオンの体でした。セレスティナ母様の後妻であり……いえ、もはや隠す必要は無いでしょう。父の『第二夫人』であったイゾルデ母さんが、命を懸けて再封印を施したのです。悪霊の欠片は、私の体から引き剥がされ……ディオンの体へと移されました……もちろん、その術式の代償は母の命でした」
「第二夫人? それって貴族の……辺境のアイナル村に、貴族が?」
エリカが驚愕に目を見開く。
ディオンがテーブルに突っ伏し、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
彼の中で、常に優しかった母・イゾルデの死の真相が、黒い絶望となって渦巻いていた。
「その時、父から一族の真実を聞かされました」
ライナスの声が、一段と低く沈む。
『ライナス……お前は貴族だ。本当の名は、ライナス・フェン・ゼーレドルフ。魔法聖国エルディア・ルーン最古の公爵家だ。……しかし、名乗ることは許さん。我々は、強大な存在の「封印を守る一族」なのだ。『封印を守る者』……ディオンが十八歳になり、一族の剣術の奥義をすべて伝授した時……一族の秘密をすべて話そう。それまでは、さらに力をつけろ』
「体内から悪霊の呪縛が消え去った私は、突如として神聖魔法の圧倒的な才能を開花させ、父の勧めもあり、神聖魔法学校へと進みました。やがて教会神聖騎士団に入ると、中隊長にまでなる事が出来たのです」
「もしかしたら……軍部や王家は知っていて……?」
エリカが恐ろしい推測にハッとして呟く。
ライナスは静かに目を伏せた。
「さぁ……どうでしょうか。少なくとも私は知りません。……そして三年後。エリカさんが……いえ、エリカが十八歳、ディオンが十五歳になった新月の深夜の事でした。二人の体内にあった悪霊が、同時に暴走を起こしたのです。……その時、父ガリアスは二人の封印殻を強化し……術式の代償によって…………立ったまま絶命していました」
ライナスの眼鏡の奥が、微かな涙に濡れているように見えた。
「父は結局、ディオンに一族の秘密を語ることなく逝ってしまった。『封印の一族』『聖国最古の公爵家』……その二つの謎めいた言葉だけを残して」
重く、冷たい沈黙が降りた。
ランタンの炎が、チロチロと頼りなく揺れている。
「……私は、二人の『母』の記憶にいつも切り刻まれています。エリカに悪霊を移して死んだ実母の『ごめんなさい』という言葉。そして……実の子以上に私を愛してくれたイゾルデ母さんの温かい笑顔」
ライナスの声が微かに震える。
「少し天然で、どこか抜けているけれど、底抜けの明るさで家の中を太陽のように照らしてくれた人でした。彼女の作ってくれる温かい料理に、私がどれほど救われたか……。そのイゾルデ母さんも、私を救うために命を落とした。……だから、父の訃報を聞いた時、私は中隊長という地位を躊躇いなく捨てました。二人の母が愛したこのアイナル村で、司祭として、皆を守りたかったからです」
それが、天才神聖魔法使いが華やかな王都を去り、辺境の村に燻っていた本当の理由だった。
「……実は、旅立ちの前日」
ライナスがふっと表情を和らげ、涙を堪えるディオンを見て苦笑した。
「私は一人で呆れ果てていました。ディオンが村を一人で出るという噂は、カイルたちを含めて村中に知れ渡っているのに、治療薬も、毒消しも、路銀も、ランプの予備油すら、あの子は全く準備していなかったからです。旅立つ前に酒場で飲んでいる暇があれば、準備をしろと」
「うっ……」
ディオンがバツの悪そうに顔を伏せる。
「ですが、カイルがわざわざ教えに来てくれたのです。『バハルがついて行くらしいぜ』と。バハル……あなたが同行してくれると知って、どれほど安堵したことか。それでも、魔導職と対空対策が圧倒的に不足している。フェルゼン・ハフトのギルドで、信頼できる仲間を募らねばならないか……そう考えていた時でした」
ライナスは、エリカとアルベローゼへ向けて深く頭を下げた。
「エリカ、アルベローゼ。貴女たちが加わってくれて、本当に助かりました。ここまで来られたのは、本当に……皆のおかげです」
「……悪霊かぁ」
重苦しい空気を振り払うように、バハルが空のグラスをドンと置いた。
「噂じゃ聞いてたけど……ディオンとエリカの中にいるのは、相当ヤバイんだろ? 次にそれが暴れたら、どうなるんだ?」
「……それこそが、私が最も恐れていることです」
ライナスが表情を引き締める。
「父ガリアスが命を懸けて施した『封印強化』が、あとどれだけ保つか分かりません。そして、万が一暴走した時、再封印を施せる術士など、もはやこの世に存在しない。それに……万が一いたとしても、必要なのは『術者の命』です。解決方法など、今の我々には何一つ分からないのです。だからこそ、聖図書館へ行く必要があります」
「ふふん……」
腕を組んでいたアルベローゼが、不敵な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「そんな悪霊なんかに、好きにさせないわよ。聖図書館ね。まずはそこに行って、全部ひっくり返してやるんだから!」
その力強い言葉に、誰もが少しだけ救われたような気がした。
エリカは深く考え込んだ様子だったが、やがてパチンと手を打って立ち上がった。
「今日はもう、休みましょう。この宿にはシャワーがあるわ。天井の桶に『魔導結晶』を差し込むタイプのものよ。水魔法を流し込まないと水が出ないから、私が順番に出してあげる。……誰から浴びる?」
エリカの意図的な明るい仕切りに、重かった空気が少しだけ日常へと引き戻された。
それぞれの心が千々に乱れたまま、夜がゆっくりと更けていく。
深夜。
静まり返った宿の廊下に、ディオンの部屋から微かに、押し殺したような啜り泣きが漏れていた。
「かぁさ……ん……かぁさ……」
自分が生かされているのは、両親の命の犠牲の上に成り立っている。
そして、兄の人生を……才能を、自分が狂わせてしまったという絶望的な罪悪感。
――ギィ、と。
微かな音を立てて、ディオンの部屋の扉が開いた。
「……アルベローゼ?」
暗闇の中、涙で顔を濡らしたディオンが顔を上げる。
エルフの少女は何も言わず、ディオンのベッドに腰掛けると、その頭を細い腕でギュッと胸に抱き寄せて布団に入り込む。
「ねぇ、ディオン……。仕方がないから、今日だけ特別に抱きしめてあげるわ」
彼女の柔らかな体温と、森の葉のようなかすかな清涼な香りが、街の鉄と泥の匂いを上書きしてディオンを優しく包み込む。
(ああ……そうだ……幼い頃はアルベローゼは、すぐにお姉さんぶって僕を抱きしめたよな……)
「……アンタの泣き声がうるさくて、寝れないんだもの……変な勘違いしないでよね」
ぶっきらぼうで、不器用な、けれど何よりも真っ直ぐな温もり。
「ありがとう……アルベローゼ。もう大丈夫だ……」
「うるさい、ディオン……ちゃんと泣きなさいよ……私も泣いてあげるから……」
「う……うぁ……ぁぁぁぅっ……あぁぁぁ」
ディオンは抗うことなく彼女の胸に額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。
アルベローゼはただ、ディオンの髪を撫でる。
石畳の街の冷たい夜の底で、過酷な真実を背負った彼らの旅はまだ、始まったばかりだった。




