第5話 石畳に香る街
「――っ! 左方向、草むら!」
エルフ特有の鋭敏な感覚で僅かな気配の乱れを察知し、アルベローゼが叫ぶ。
呼応するようにバハルが素早く最前線へ躍り出た。
普段は奇襲を受けやすい最後尾でパーティの壁となっている彼だが、いざ敵が現れれば、こうして瞬時に仲間の盾となるのだ。
体毛が周囲の草と完全に同化する色をした伏撃猫獣、『ノルド・ラウム』。
二頭の魔獣が、完全な奇襲のタイミングでエリカの首筋へと跳躍した。
「バカが!!」
ガキィーン!
バハルが大楯で瞬時に魔獣の顔面を叩き伏せた。
「させない!」
奇襲に驚いたエリカが杖を向けるよりも早く、ディオンが風のようにバハルの前に滑り込んだ。
父ガリアスから叩き込まれた、ゼーレドルフ魔剣術の基礎にして奥義。
己の魔力を直接刀身へ流し込む。
「《マギ・アンベル・ヴェルン(純粋魔力・刀身増幅)》!」
刀身が淡い青白い光を帯びる。
純粋魔力によって分子レベルで切れ味を増幅された刃が、バハルに叩き落とされて身を捻るノルド・ラウムの胴体を、まるで薄紙を裂くように音もなく両断した。
ピシャッと一頭の鮮血が草原に散る。
もう一頭が着地と同時に反転し、ディオンの足首を狙うが、そこに巨大な影が降ってきた。
「しゃらくせぇ!」
バハルの重厚な斧が、魔獣の頭蓋をガッと鈍い音を立てて腕力のみで叩き割る。
頭上の脅威には無力でも、地を這う程度のヴィルヘル(魔物)であれば、龍人の膂力の前では児戯に等しかった。
「……ふう。エリカの言う通り、ヴィルヘルだらけだな」
ディオンが剣の血糊を払い、油断なく周囲を見渡す。
「ええ。ですが、素材は街で高く売れますよ。後で算術の復習をしましょうね。計算ができないと、狡猾な商人に買い叩かれてしまいますから」
エリカの冷静な言葉に、「げぇっ、計算かよ!」とバハルが頭を抱え、一行に和やかな笑いが起きた。
それから数クロス(数時間)後。
太陽が真上に昇り、黄金の正刻(十二時)を過ぎた頃。
どこまでも続く草原の起伏を越えていた一行に、二度目の襲撃が訪れた。
今度の敵は、草むらからの奇襲ではなかった。
五十ガルイ(メートル)も離れた岩陰から、突如として緑色の巨大な影が空高く弾け飛んだのだ。
鎌状の巨大な前脚を持つ草原跳躍蟷螂、『レーヴァ・シェール』。
数十ガルイを一跳びで詰める異常な跳躍力。
空中で二つの鎌を振りかぶり、落下エネルギーを乗せてバハルの脳天を両断しようと迫る。
「うおおおッ!」
バハルが大楯を天に向けて構え、大地にしっかりと両足を踏み張った。
ギィィィンッ!! という鼓膜を裂くような金属音。
強固な鉄の盾に巨大な鎌が激突し、火花が散る。
バハルの足元の土が抉れ、二・四五ガルイの巨体が僅かに沈み込むほどのすさまじい衝撃。
「バハル!」
ディオンが駆け寄るが、盾越しに拮抗している状態では金属質の鎌が邪魔して剣が届かない。
その時、涼やかな詠唱が後方から響いた。
「《アルダ・イグニ(水・投射)》!」
エリカの杖から、極限まで圧縮された高圧の水弾が射出された。
第一位階の簡単な攻撃魔法だが、緻密な魔力制御によって拳大に圧縮されたそれは、岩をも穿つ質量兵器となる。
ガキンッ!
高圧の水弾はレーヴァ・シェールの硬い甲殻の隙間、複眼の根元に直撃し、頭部をひび割れさせ、巨体を大きくのけぞらせた。
「今だッ!」
バランスを崩した魔物の懐にディオンが飛び込み、下段からの斬り上げで厄介な前脚の関節を、脆弱な根本から鮮やかに切断した。
そのままバハルが盾で巨体を撥ね飛ばし、戦闘は終結した。
「……流石ですね、バハルさん。あの跳躍の一撃を完全に受け止めるとは」
ライナスが労いの言葉をかけ、バハルは誇らしげに胸を張った。
そして――夕刻が近づき、空が琥珀色に染まり始めた頃。
ソゾム=ヴィーグの街の影が、地平線の彼方に微かに見え始めたその時だった。
「――!みんな、止まって!」
アルベローゼの空気が一変し、声が鋭く響き渡る。
彼女は振り返る間もなく、流れるような動作で白樺の弓に矢を番え、上空へと切っ先を向けた。
空を裂く風切り音。
夕刻の太陽を背にして、上空数百メートルから『ヴェルク・ファルケ』が急降下してきていた。
巨大な猛禽の魔物だ。
凄まじい重力加速を味方につけたその速度は、通常の矢では到底捉えきれない。
さらに、風下の高い草むらが不自然に揺れた。
六本脚を持つ豹型魔獣『モーラ・ティーゲ』の群れだ。
五頭の群れが、音もなく扇状に展開し、足の遅い後衛を狙って完璧な包囲網を縮めてきていた。
ヴィルヘルというのは、基本的に群れて連携して人を襲う……凄まじい人類への憎悪を本能レベルで宿しており、人を引き裂き、連れ去る事に異常なまでの執着を見せる。
空からの強襲と、陸からの高速包囲――野生の本能らしからぬ、鮮烈な死の連携。
「上空に一、地上に五! 来るぞ!」
「ええ! ……ッ!」
ディオンの叫びと同時、アルベローゼは深く息を吸い込み、母から譲り受けた白樺の弓を限界まで引き絞った。
彼女は魔法を使わない。
手にあるのは、ただの木と弦、そして夜なべして作った物理的な手作りの矢だけだ。
だが、エルフ特有の恐るべき動体視力と天性の弓術は、魔法の補助など無くとも空の脅威を穿つに十分だった。
風のうねりを肌で読み、急降下してくる魔物の相対速度を本能で計算し尽くす。
「そこっ!」
短い呼気と共に、指先から矢が放たれた。
「ピシュッ!」と鋭い音を立てて空気を裂いた手作りの矢は、魔法の力など借りずとも一切のブレなく空を穿つ。
カン! カン! カン!
急降下による回避不能の軌道にあったヴェルク・ファルケは、その恐るべき速度ゆえに直角の迎撃を避けきれず、自ら矢に飛び込む形となって右翼の関節を……脳天を……羽の中心を……無慈悲に粉砕された。
「ギェェェェッ!?」
三発の矢弾を受け体勢を崩し、錐揉み回転しながら遥か後方の草原へと無様に墜落していく巨鳥。
最大の脅威であった空からの強襲が、アルベローゼの純粋な「技」によって開戦から僅か一クロム(一秒)で無力化された。
だが、空の防衛に気を取られた隙を突き、草むらからモーラ・ティーゲの群れが一斉に跳躍した。
しかし、このパーティーの前衛には、規格外の「壁」が存在した。
「小賢しい猫どもが、正面から来いッ!!」
先陣を切った二頭の突進に対し、バハルが一歩前に踏み出し、重厚な大楯を大地に叩きつけるように構えた。
ガァンッ!!という分厚い金属音が草原に響き渡り、大楯に弾き飛ばされ、完全に運動エネルギーを殺された二頭の魔獣が無防備な姿で宙に浮く。
「遅えよ!」
バハルが作り出した巨大な死角。
その背後から、ディオンが滑り出た。
彼の唇から、短く鋭い詠唱が紡がれる。
「《エメ・アンベル・ヴェルン(風属性魔力・刀身収束)》」
第一位階・古代エルフ言語魔法の魔剣術。
ゼーレドルフ家だけに伝わる特異な魔導剣技。
刀身に風属性の魔力が絡みつき、淡い翠の光を帯びる。
空気を切り裂くのではなく、空気抵抗そのものを極限まで軽減する絶技。
キン!キン!
銀の閃きが二度、虚空を走る。
重力に引かれて落下するだけのモーラ・ティーゲ二頭の胴体を、風を纏った刃が容易く両断した。
だが、残る三頭は狡猾だった。
大回りで側面に回り込み、無防備な後衛へと直接牙を剥いたのだ。
さらに別の一頭が大きく跳躍し、がら空きになったディオンの側頭部を狙う。
ディオンは咄嗟に身をよじったが、死に物狂いの獣の爪が彼の左腕を掠め、鮮血が舞った。
「ディオン!」とアルベローゼの叫び。
「問題ない! 止まらずに――落ち着きなさい――――《ヴィータ・レクト・カルネ(生命修復・簡易消毒)》」
ディオンが体勢を立て直すより早く、後方で構えていたライナスの杖から淡い緑色の光が飛び、ディオンの左腕の傷口に張り付いた。
第一位階・神聖魔法――魔獣の爪に付着した腐肉や雑菌の活動を瞬時に抑制し、細胞組織を強制的に結合させる簡易野戦医療魔法。
回復を確信したディオンが次の一頭へと剣を構え直したその時、最後の一頭が、魔導杖を構えるエリカへと肉薄していた。
距離は三ガルイ。
「――遅いですね」
エリカの深い緑の瞳は、微塵の恐怖も抱いていなかった。
女王直轄魔導師団の元トップエリートにとって、この程度の魔獣の速度など止まって見える。
「《ヴォルテクス・ストラール(雷・光線)》!」
第二位階・通常魔法。
杖の先の中空に、複雑な幾何学模様の術式パターンが一瞬で展開する。
極限まで圧縮された詠唱から、細く強烈な青白い雷光が一直線に放たれた。
ビシャーン!!
すぐさま肉を焼く鋭い匂いが立ち込める。
雷速の光線は魔獣の眉間を正確に撃ち抜き、頭蓋の内部を瞬時に炭化させていた。
さらにエリカは、一切のラグを置かずに杖の軌道を変えた。
ディオンを背後から狙おうとしていた岩陰から現れた別のもう一頭へ向け、二つ目の術式を構築する。
「《フラグメ・イグニ(炎・投射)》!」
杖の先端に赤い術式が展開し、バスケットボール大の火炎弾が射出された。
味方を巻き込まない完璧な射角。
火炎弾は魔獣の側面に直撃し、一気に燃え上がった。
周囲の空気が急激に膨張し、熱波が押し寄せる。
――ドクン。
立て続けに魔法を行使した瞬間……エリカの脳髄の裏側に、ど黒い泥のような歓喜がへばりついた。
(もっとだ。もっと燃やせ。次は……横にいる銀髪の男を。盾を持っている巨漢を……すべて灰にしてしまえ)
「くっ……!」
エリカは奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、体内に流れる魔力行使の残滓を強引に霧散させた。
震える左手で、腰の『月光魔導の短剣』の柄を強く、指の関節が白くなるまで握りしめる。
冷たい魔導金属の感触で、内なる破壊衝動をねじ伏せる。
緑の瞳に一瞬だけ宿った不気味な赤い燐光は、燃え盛る魔獣の炎の光に紛れ、誰にも気づかれることなくスッと消え去った。
「ふう……片付いたか」
バハルが大楯を地面に置き、太い息を吐く。
空を制するエルフの絶対的な狙撃、前線を完全に固定する龍人の盾と、魔導剣術で遊撃する魔剣士……それらを後方から援護する神聖魔法と、精密かつ高火力の通常魔法――――無駄な動きが一切ない。
五人の絶妙な連携は、狂暴な魔獣の連携をものの数十秒で完璧に沈黙させていた。
「怪我はないかい、エリカさん」
剣の血糊を払いながら歩み寄ってきたディオンに、エリカは短剣からそっと手を離し、いつもの柔和な笑みを浮かべた。
「ええ、問題ないわ。ライナスさんの回復も、アルベローゼさんの援護も完璧でしたね」
戦闘が終わるや否や、バハルとアルベローゼが歓声を上げながら魔物の素材の切り取りにかかった。
「おっし、この爪は高く売れるぜ!」
「ディオン!こっち来て!このファルケの羽と牙、あんたも手伝って!」
ディオンが苦笑しながら呼ばれて手伝いに行き、草原に賑やかな喧騒が戻る。
その光景を少し離れて見ていたエリカの傍に、ライナスが静かに歩み寄り、そっと耳打ちをした。
「エリカさん……次からはもっと弱い魔法で良いのですよ……。『悪霊』が、暴れたのでしょう?大丈夫……本当にピンチの時まで、強い魔法は……その貴女の魔導の深淵は隠しておいてください」
エリカがハッとして見上げると、ライナスは優しく微笑み、美しく整った切れ長の目を静かに閉じた。
「精神安定魔法をかけましょう……少し、衝動がおさまるはずです……《メンゾ・コンティ・ハーティア》」
第三位階・神聖魔法……精神の暴走を鎮める温かい光の波紋が、ライナスの杖からエリカの全身を包み込んだ。
「ありがとう……ありがとうございます、ライナスさん……」
エリカは、自分の顔が微かに赤くなるのを感じていた。
先ほどまで脳を焼いていたドス黒い殺人衝動は、ライナスの紡いだひだまりのような温かい光によって、雪解けのように静かに霧散していた。
ライナスの温かい胸に頭を預ければどんなに心地よいか……しかしながら、『呪われている自分』にそれが許されるはずもなかった。
エリカは許されない恋心に、強く拳を握りしめた。
――夕刻。
『茜の帰還(十七時)』の鐘が遠くで鳴る頃。
早朝から走り抜けた一行は、三度にわたる魔獣との戦いを切り抜け、無事に目的地の街『ソゾム=ヴィーグ』の堅牢な石造りの門へと辿り着いた。
オレンジ色の夕陽が、五人の影を長く石畳に伸ばしている。
「……一人だったら、きっとここまで辿り着けなかった」
ディオンの素直な言葉に、ライナスが静かに微笑んだ。
「バハルに感謝しなくてはいけませんね。この旅は、皆の知恵と力があって初めて成立するものなのですから」
「薬草3つじゃ足りねぇだろ?ディオン」
そのバハルの言葉に、五人は互いの顔を見合わせて笑う。
長きにわたる過酷な旅路への確かな手応えを胸に、彼らは新たな街の門へと力強く足を踏み入れた。




