↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/42

第4話 始まりの風

 アイナル村の堅牢な防壁を抜け、その外側にある簡素な木造の門が背後で重々しい音を立てて閉ざされると、視界を遮るものは何一つなくなった。


 少し小高い丘に位置する村の眼下には、見渡す限りの広大な大草原が広がっている。

 

 辺境のアイナル村には馬車がすれ違えるような立派な石畳の街道など存在しない。

 見え隠れする獣道をなぞるように、曲がりくねり、風化した鋭い岩が突き出し、名も知れぬ背の低い灌木がまばらに生い茂る荒野が、地平線の彼方までうねりながら続いていた。


 朝露をたっぷりと含んだ青草の匂いと、微かに混じる乾いた土の香りが、冷たい風に乗って鼻腔をくすぐる。

 太陽と穏やかな風がエルカリアの月(四月)の冷たい朝霧を少しずつ消していく中、「私はあの日、教会の扉を開けた瞬間の光景を、今も鮮明に覚えていますよ」と、最後尾を歩いていたバハルの横にいるライナスが、震える吐息とともに静かに切り出した。


 三十歳になる神父の銀の長髪が、早朝の風に揺れる。

 踏みしめる草の音だけが響く中、彼の声はひどく澄んでいた。


 あの日――全ての呪われた運命が動き始めた聖女王歴一九八二年、ラシェルの月(十月)。

 悪霊が三歳のエリカに取り憑いた、あの忌まわしい日……。

 十二歳のライナスの網膜に焼き付いたのは、あまりにも凄惨な光景だった。

 祭壇の上で漆黒のオーラに包まれ、のたうち回る三歳のエリカ。

 形なき黒い炎が彼女の衣服を焼き焦がし、この世の者とは思えぬ悍ましい絶叫が彼女の口から響き渡る。

 だが、肉体が燃焼しているわけではない。

 物理的な熱を持たない呪いの炎が、ただひたすらに彼女の魂を喰らおうと包み込んでいたのだ。


 傍らには、愛娘の唐突な異変に腰を抜かし、ただ泣き叫ぶことしかできない両親――マルコとアンナの痛ましい姿があった。

「当時の神父様は、父上たちを『村を守る凄腕の魔導士』だと信じて疑わず、床に這いつくばって縋り付いていました……。そして、母上は……セレスティナ母様は、エリカさんを救うために『術』を施したのです」

 ライナスの声が微かに大きくなり、そしてすぐに深く……遥か遠くに視線が動いた。


「私が……悪霊に取り憑かれたばかりに、ライナスさんにその一部を封じた日の話ですね……」

 エリカは、緑色の澄んだ瞳を伏せた。

 自分が災厄の原因であるという罪悪感が、冷たい鉛のように胸の奥を締め付ける。


 だが、ライナスは足を止めずに首を振り、穏やかに否定した。

「エリカさん。あなたが悪いのではありません……今夜、野営の時にでも私が知る限りの事をお話ししましょう……それは、この魔法聖国エルディア・ルーンにおける禁忌の話です」


 バハルがごくりと喉を鳴らし、ディオンが「兄さん……何か知ってたのかい?」と驚いたように呟く。

 「私も全てを知るわけではありません……。ディオン、あなたは……」と、ライナスが言葉を継ごうとした瞬間、横からアルベローゼがずいっと顔を出して遮った。

 暗い話はごめんだとばかりに、手を上下にブンブンと振り回す。

「ディオン!ライナスが後で話すって言ってるんだから待ちなさいよ。……それよりライナス。聖図書館に行くんでしょう?今日はどこまで行くの?」

 腰まで届く透き通った金髪をサイドテールに揺らしながら、エルフの少女が前方を指差す。


「向かうのはエルディア・ルーンの首都、聖都ルーン・ヴィークです。我々が目指す『聖図書館』はそこにあります。まずは二十五ライン(二十五キロメートル)先にある街、ソゾム=ヴィーグを目指しましょう」

 そのライナスの言葉に、アルベローゼが不満げに口を尖らせた。

「えー、もっと先に行けるよ?私なら全然疲れないし!」


「アルベローゼ、本格的な旅は初めてよね?外にはヴィルヘル(魔物)もいるし、旅には適切な休憩も必要なのよ」

 エリカが、教師らしい柔和な声でたしなめる。


 そして彼女は、前を歩くディオンの背中を、ひどく悲しげに見つめ深くため息を吐く。

「私が……私があの日、悪霊に憑りつかれさえしなければ、あなたたち二人に悪霊を移すことも……ガリアス様や、セレスティナ様……イゾルデ先生が命を落とすこともなかった……全部……私のせい……」


「エリカさん」

 ディオンが振り返り、その痛切な言葉を遮った。

「兄さんが言ったばかりですよ……貴女が悪いんじゃない。父さんも……イゾルデ母さんも……あなたを守りたかったんですよ」

 十八歳の青年は、美しい飛沫を湛えて湧き水が流れ出ている前方の険しい峠を見据え、力強く言い切った。


 ライナスもまた、眼鏡の奥で決意を固めたように頷く。

「……ええ。エリカさん。自分を責める必要はありません。それに、私も深くは知らないのです。この悪霊には何か秘密がある……。だからこそ、聖図書館でそれを調べましょう」


 彼らは、エリカを責める言葉など決して口には出さない。

 だが、ディオンとエリカの胸の中に未だ燻っている『悪霊』の呪縛が、その温かい絆をあざ笑うかのように、時折どす黒い熱を帯びて脈打っていた。


「二人ともごめんなさい……私が全ての原因……」

 エリカは、ずっと村では呑み込んできた言葉を、ライナスとディオンの優しさに耐えきれず、吐き出し続ける。

「エリカさん、それは違います」

 ライナスが歩みを止めず、けれど静かに、断固とした口調で響かせた。


「良いですか?もう、二度と謝らないでください……。それに、私の両親が守りたかったのは単なる隣家の少女じゃない。エリカさん……『貴女』そのものだったはずです。あなたが自分を責めることは、母上たちの選択を『間違い』だったと断じることになってしまうのですよ」


「兄さんの言う通りです」

 ディオンが振り向き、無理に作ったような、けれどこの上なく温かい笑みをエリカに向けた。

「僕たちが怒っているのは、君に対してじゃありません。こんな残酷な仕組みを強いた、この世界の理不尽……この悪霊に対してだ。……ほら、見てください。あそこが峠の頂上だ」


 視界が開け、そこには朝靄に包まれた清涼な大草原が、海のようなどこまでも広がっていた。

 風が吹き抜けるたび、背丈ほどもある青草が波のようにうねる。


 先頭を行くディオンは、父ガリアスが遺した古びた地図を広げ、指先でこれからの道程をなぞる。

「ここから聖都『ルーン・ヴィーク』までは、およそ三百ライン(三百キロメートル)。エリカさん……六十ライン(六十キロメートル)先の草原の休憩所『フェル・フヴィーラ』までは無理かい?」

 ディオンの無謀な提案に、エリカが思わずクスクスと笑い、ライナスもふっと息をついて笑った。

「六十ライン……。まるで魔導補助の騎馬団がするような強行軍ですね。ディオン、エリカさんが言った通り無謀ですよ。早くエリカさんの悪霊を何とかしたいんでしょうが、焦ってはいけません。しかし、この峠を越えればしばらくは平坦な草原が続きます。これを使えば、夕方の『茜の帰還(十七時)』にはソゾム=ヴィーグに着けるでしょう」


 ライナスが眼鏡の奥の瞳を細め、手入れの行き届いた司祭の杖を掲げて静かに詠唱を紡いだ。

「《ヴィータ・アンベル・カルネ・シュネル(生命・増幅・肉体・迅速)》!」

 第一位階・神聖魔法――ライナスの杖の先端に純白に近い淡い緑色の光が灯り、それが細かな粒子となって散乱した。


 光の粒子は一行の足元へと吸い込まれ、皮膚から筋肉の深部へと溶け込んでいく。

 歩行速度を通常の約一・八倍に向上させ、筋肉疲労を著しく軽減する身体活性の補助魔法だ。


 ディオンは、ふっと体が浮き上がるような、羽のように軽くなった足取りに驚きながら、前を見据えたまま言葉を継いだ。

「兄さん。実はね。僕は昨日の夜まで、本気で独りで村を出るつもりだったんだ。昨夜、酒場でバハルにそれを言ったら、『独りで深手を負ったら、誰が治療するんだ?自分で薬草でも塗るのか?』って詰め寄られてね。薬草を多めに持てばいいと考えていた僕に、バハルは『村に希少な薬草がそんなにあったか?』と笑われたんだよ」


「ちょっとちょっと!バハルがそんな賢いこと言ったの!?」

 アルベローゼが横から強引に割り込み、目を丸くしてディオンの顔を覗き込んだ。


 最後尾にいるバハルの頭をポコポコと叩いて、バハルに振り払われる。

 アルベローゼはニシシと笑って先頭に戻ると、「バハルの言う通りだよ!空飛ぶ敵が来たらどうするつもりだったの?魔法しか効かないヴィルヘルに囲まれたら?剣一本でどうにかできるほど、外の世界は甘くないんだからね!」とケラケラ笑う。


「ああ……。全く同じことを言われたよ。それを聞いた時、僕は自分の浅はかさを思い知ったんだ」

「ほらね!やっぱり私がいないとダメじゃん!」

 アルベローゼは得意げにニシシと笑い、傷のついた自慢の白樺の弓を軽く鳴らした。

「バハルさん、凄いですよ。まさかあなたから、そんなに理に適った戦術的な指摘が出てくるなんて……」

 エリカが感心したように見上げると、二・四五ガルイの巨体を誇る龍人は、照れくさそうに大きな頭をガシガシと掻いた。

「へへっ、よせやいエリカ!俺はただ、俺の親友(ディオン)が一人で死に急いでるのが気に入らなかっただけだぜ!」


「バハルさんの言う通り、私たちは運命共同体です。今日、日が落ちる前に絶対にソゾム=ヴィーグへ辿り着かねばならない理由を、皆さんは正しく理解していますか?」

 エリカがコホンと咳払いをし、教師としての凛とした声で一行に釘を刺した。


 「……ヴィルヘルの夜襲を避けるため、ですよね?」とディオンが呟く。

「その通りです。夜行性のヴィルヘルの群れに暗闇で囲まれれば、全滅もあり得ます。それに、食事の備蓄も必要です。携帯食はなるべく使いたくないですからね」


「……なら、最悪その辺の魔物を狩って肉を食えば、荷物も軽くなるんじゃないか?」

 バハルの呑気な提案に、エリカの声が一段と厳しくなる。

「絶対に禁忌ですよ、動物とは違います。ヴィルヘルの肉には凝縮された『魔』が残留しています。人が食べれば『魔中毒』を引き起こし、体内魔力が暴走して最悪命を落とします」


 エリカがそう言い切った直後だった。

 風下から、青草の揺らぎに紛れて「それら」は音もなく忍び寄っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。