第3話 集いし光明
酒場を出て、宿へと向かう夜道。
二人の足取りは、まるでブーツに鉛でも詰め込まれたかのように重かった。
バハルが背負う一族の鉄盾と斧は重厚で、誇り高い歴史の重みがある。
だが、その無骨な武装でさえ、降り注ぐ広範囲魔導からディオンを完全に守り切れる確証はどこにもない。
「魔法も、対空手段もなくて……。俺たちだけじゃ、死にに行くようなもんだぜ……ディオン」
バハルの絞り出すような呟きが、冷たい夜の空気の中にぽつりと沈んでいく。
「……それでも、行くしかないんだ、バハル。道がないなら、この足で踏み固めて作るしかない……大きい街で冒険者を雇うんだ」
「……信頼出来ねぇぞ?盗賊崩れが多いんだ……」
バハルの呟きにディオンが返す。
「見極めるさ……それに、裏切ったら斬るしかない……」
ディオンの声は震えていた。
だが、その奥には決して折れない芯がある。
バハルは黙って頷き、ディオンの背後で大楯の革帯を強く握り直した。
(魔法がなけりゃ、俺が死ぬ気で盾になる。空が飛べなけりゃ、地の果てまで追い詰めて叩き潰すだけだ。……それが、俺の選んだ道だ)
二人の若者は、絶望的な戦力不足という現実を奥歯で噛み締めながら、翌朝の出発を待つ家へとそれぞれ重い足取りで消えていった。
一方、その頃。
アルベローゼ・ル・シルフェーンは、自室の窓辺で苛立たしげに足を揺らしていた。
エルフの時間は、人間たちのそれよりもずっと緩やかに、凪いでいる――エルフの寿命は約二〇〇年と言われていた。
だからだろうか……幼い頃から一緒に泥だらけになって遊んでいたアイナルの村の子供たちが、気づけば自分を追い越し、逞しい青年へと変わっていく姿を見るのは、どこか不思議で、少しだけ取り残されたような心地がするものだった。
アイナル村の西部森の区画に訪れた静かな夜。
アルベローゼの部屋の床には、旅の支度が完璧に整えられたパンパンの荷袋が堂々と鎮座していた。
立てかけられているのは母マリスが生前、狩人として使っていた頃の、少し傷のついた白樺の弓。
ディオンが旅に出ると知ってから、こまめに作り溜めたお手製の矢の束。
体に冷たい金属が触れることを極端に嫌う彼女の装備には、一切の鉄が使われていない。
太ももまで届く、美しすぎるほどに透き通った金髪を、今日は活動しやすいサイドテールにまとめていた。
身長は一四八ミロ(一四八センチメートル)と小柄だが、その身のこなしは森の獣よりも俊敏だ。
彼女は窓から差し込む青白い月を見上げながら、何度も心の中で予行演習を繰り返していた。
(……よし。そろそろディオンが、少し申し訳なさそうな顔でドアを叩くはず。「アルベローゼ、危険な旅になるが、どうしても君の力が必要なんだ」って。そしたら私は、少しだけ考えたふりをして、「もう、仕方ないわね」ってため息まじりに頷いてあげるの)
……しかし。
二クロス、三クロス、四クロス(二時間、三時間、四時間)と、無情にも村の夜は深まっていくが、期待したドアのノック音は一向に響かない。
尖ったエルフ耳が、不満げにピクピクと動く。
「……ちょっと、なんなのよアイツ!」
アルベローゼは限界を迎え、思わずベッドの羽根布団をバンバンと叩いた。
村中でディオンの旅立ちの話を知らないのは、寝た子くらいのものだ。
それなのに、一番の幼馴染であり、日頃からよくちょっかいを出している自分に対して、いまだに相談が一切ないとはどういうことか。
「許さない……絶対に許さないんだから。明日、黙って一人で門を抜けようとしたって無駄よ。村の入り口で、これ以上ないくらいのドヤ顔で待ち構えてやるんだから!」
鼻息を荒くして、彼女は再び足元の荷袋を睨みつけた。
「ところでアイツの旅立ちって何時よ?深夜?朝方?もぅ……寝過ごしたら一生の不覚よ。こうなったら、今から門の前で野宿してやるんだから!」
彼女は白樺の弓を乱暴に引っ掴むと、怒りと愛情をまぜこぜにしながら、夜霧の立ち込めるアイナル村の入口へと飛び出していった。
酒場から自宅に戻ったディオン。
重い足取りでその扉を開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。
明かりの点いた居間で、兄のライナスが静かに分厚い本を閉じたところだった。
三十歳になる兄は、弟から見ても影のある繊細な美形であり、銀の長髪と細い眼鏡が仄かなランプの光を反射している。
細身の体躯の傍らには、手入れの行き届いた司祭の杖と、野戦用の機能的な旅装が几帳面に置かれていた。
「お帰りなさい、ディオン。どうやら、旅の仲間が増えたようですね」
優しく穏やかな微笑みを浮かべる兄に、ディオンはハッとして目を伏せた。
「ライナス兄さん……。ごめん。黙って行こうとしたわけじゃ……」
「謝る必要はありませんよ。ですが、一つだけ忠告を……」
ライナスは立ち上がり、歳の離れた弟の目を真っ直ぐに見据えた。
「自分とエリカに取り憑いている悪霊の正体を探るために、聖都の聖図書館に行くのでしょう?しかし、あそこは大陸随一の知識の聖域……一介の放浪者がふらりと立ち入れるような場所ではありません。上級司祭以上の紹介状、あるいは同行が必要不可欠なのです」
かつて教会神聖騎士団の中隊長を務め、神聖魔法をほぼ修めた天才。
だが、父ガリアスの死を境に、故郷を守るためその地位を捨てて村の神父となった男は、落ち着いた声で淡々と、けれど有無を言わせぬ絶対的な口調で続けた。
「つまり、村の司祭である『私』が行くしかないでしょう。私が行かなければ、あなた方は門前払いを食らって帰ってくるだけですよ」
「兄さん……」
ディオンの声が、不甲斐なさと安堵で震えた。
「ありがとう。僕は、嬉しいよ。兄さんがいてくれるなら、本当に心強い」
魔法と治癒――先ほどバハルと直面した最大の戦力不足が、最も信頼できる肉親によって埋められたのだ。
ライナスは一族秘伝の魔導剣術こそ体得できなかったものの、第一位階の古代エルフ言語魔法は体得しており、何よりその神聖魔法は圧倒的だった。
孤独で無謀な旅になるはずだった夜が、頼もしい絆によって確かに満たされていくのを感じた。
そして、空が白み始め、朝日の片鱗が姿を見せ始めた旅立ちの朝。
朝霧の立ち込める村の入り口に、静寂を切り裂くような鋭い声が響き渡った。
「ちょっと!私を置いていくなんて、あんまりじゃない!?」
声の主は、山のような大きな荷物の上に乗っかって、ぷくっと頬を膨らませて座っていた幼馴染のエルフだった。
十九歳でありながら、見た目も精神年齢も十五歳以下の少女にしか見えないアルベローゼだ。
彼女は不満げに立ち上がると、手にした白樺の弓でディオンの鼻先をペシペシと叩いた。
「アルベローゼ!? どうして……」
「『どうして』じゃないよ! 村中知ってるもん。絶対に誘われると思って夜通し待ってたのに。こんな面白そうな旅、私を外すなんてひどすぎる。それに、ディオンは私がいないと、すぐ迷子になるでしょ?」
アルベローゼはニシシと悪戯っぽく笑うと、身軽に荷物から飛び降りた。
「さあ、決まり!弓は任せて。私がついてるんだから、どこへだって行けるよ!」
その底抜けに明るい声にバハルが腹を抱えて笑い声を上げた、その時。
朝霧の向こう、木の影からもう一人の人物が静かに姿を現した。
「私も……私も連れて行ってください。ディオン」
現れたのは、実用的な旅装に身を包んだ魔導師、エリカ・ヴァインだった。
身長百五三ミロ(百五三センチメートル)の華奢な体。
腰まで届く金色の髪は、朝の光に透けて少し銀色がかかって見えた。
緑色の澄んだ瞳には、普段村の子供たちに向けている柔和な笑顔ではなく、凛とした固い決意が宿っている。
「エリカさん……村の学校はどうするんですか? 目的は『聖図書館』です……危険な旅になりますよ?」
ディオンの戸惑う声に、エリカは静かに首を振った。
「代わりの先生なら、村長様にお願いしてきたわ。……ディオン。私も、呪いの正体を知りたいの。なぜ私が悪霊に選ばれたのか……その根源を。私も自分の足で真実に辿り着きたいのよ」
エリカは、自身の内にある『異常な殺人衝動』など微塵も感じさせない、穏やかで丁寧な口調で紡いだ。
二十一歳の彼女は通常魔法の殆どを体得している実力者だが、魔法を行使すればするほど殺意が強くなるという残酷な呪いを抱えている。
そのため、その細い腰には、いざという時いつでも自らを殺せるよう魔導障壁を貫く『月光魔導の短剣』を静かに帯びていた。
エリカの視線が、ふと傍らに立つライナスへと向かう。
年の離れた彼への密かな想いを胸に秘めながらも、『呪いによって彼を殺してしまうかもしれない』という自戒が、彼女の心に痛いほどのブレーキをかけていた。
一方のライナスは、エリカの抱く儚い想いに……そして自分自身が彼女へ向けている想いにすら、まったく気がついていない。
彼女の願いを拒む理由は、今のディオンには見つけられなかった。
ディオンは肩をすくめ、それからぐるりと、集まった頼もしい仲間たちの顔を見回した。
前衛の盾たる龍人バハル、後衛の射手たるエルフのアルベローゼ。
治癒と支援を担い、剣術も使える司祭の兄ライナス。
そして、強大な魔導力を秘めたエリカ。
昨夜の絶望的な無力感は、朝霧と共に完全に晴れ渡っていた。
「おーい! エリカ先生。みんな揃ってお出かけかな!?」
不意に、村の物見櫓の上から陽気な声が降ってきた。
新任の守護職であるカイルと、その仲間たちだ。
彼らは朝日を背にして、眩しそうにエリカやディオンたちを見下ろしている。
「ガリアス様の息子たち、しっかりやってこいよ! 留守の間、村の守りは俺たちが死守してやるからな!」
カイルたちの賑やかで温かい野次に、アルベローゼが「うるさーい!」と弓を振り回して応え、バハルが「頼んだぜ!」と豪快に笑い飛ばす。
ライナスは静かに一礼し、エリカも柔らかく微笑んで手を振り返した。
ディオンは深く息を吸い込み、冷たく澄んだ朝気を肺の奥底まで満たした。
もう、一人で背負う重荷ではない。
見上げた空は、どこまでも高く澄み切っていた。
「……行こう。目指すは聖都、聖図書館だ」
ディオンの決意の言葉と共に、過酷で長い旅路の幕が、今静かに上がった。




