第2話 覚悟だけの旅装
エリカが心霊系ヴィルヘルを純白の魔力で消滅させた、およそ六クロス(六時間)ほど前のこと。
村で一番の賑わいを見せる酒場『琥珀の蹄亭』は、ねっとりとした濃厚なエールと、焦げた肉の脂の匂いが充満していた。
その薄暗い喧騒の片隅で、ディオンは一人、分厚い木のテーブルに置かれた安酒のグラスをじっと見つめていた。
ディオン・ゼーレドルフ――十八歳。
銀がかかった蒼髪の間から覗く切れ長の赤い瞳には、青年期を迎えたばかりの年齢に似かわしくない深い影が落ちている。
身長一七六ミロ(一七六センチメートル)の体躯は一見すると細身だが、亡き父ガリアスに厳しく鍛え上げられ、引き絞られた強靭なバネのようにしなやかな筋肉を秘めていた。
村長への挨拶は、すでに済ませてあった。
明日、夜明けと共にこの住み慣れた土地を捨てる…………両親の死の元凶であり、自分と、大切な幼馴染であるエリカを蝕む『悪霊』の謎を解き明かすため、一人で聖都を目指すのだ。
その「一人旅」という決断の重みが、ピリピリと舌を刺すような安酒のひどい苦味と共に、喉の奥へとベッタリと張り付いていた。
ディオンには親友がいる。
バハル・ストルツ・ガング――――アイナル村を含む魔法聖国エルディア・ルーン北東部のみにひっそりと暮らす『ドルーグ・ザ・ハル』――別名、龍人と呼ばれる少数部族の男である。
彼らは古代龍の血を色濃く継ぐとされ、人間のそれを遥かに凌駕する圧倒的な膂力を持つ。
そして体のどこかに、誇り高き龍の証である鈍く光る鱗を宿していた。
彼らには、血の歴史と共に刻まれた古い掟がある。
『――己が真の主君を見つけし時、その一生を賭して忠義を尽くせ。主の盾となり、主の道となれ』
侍や騎士のように、忠義に生きることを美徳とする種族。
数少ない同胞の中には、歴史に名を馳せる高名な騎士が多数輩出されている。
しかし、その硬質な鱗を持つ彼らを、いわれのない忌避の対象とする者も多かった。
流浪の果てにこの村へ辿り着いた幼い頃のバハルも例外ではなく、村の子供たちから無慈悲に石を投げつけられる日々を送っていた。
泥にまみれ、じっと涙を流して痛みに耐えていた彼を救ったのが、村の守護職の息子であるディオンだった。
ディオンは決して腕っぷしが強いわけではなかった。
それでも、バハルがいじめられているのを見ると、顔を真っ赤にして全力で立ち向かっていったのだ。
「お前のその太い腕は、世界を守るためにあるんだぜ。誇らしい英雄の血の証だ!」
飛んできた石がディオンの額を割り、赤黒い血が流れても、にかっと笑ってバハルの泥だらけの大きな手を強く握りしめた。
その瞬間、バハルの心に雷が落ちた。
彼は、傷だらけで笑うこの小さな少年に、己の魂を捧げるべき『真の主君』を見出したのだ。
ディオンに誘われて通い始めた学校は、バハルにとって初めて知る温かい世界だった。
もちろん、最初は陰湿ないじめもあった。
だが、その度にディオンと、幼馴染のエルフであるアルベローゼが立ちはだかり、彼を庇い続けた。
成長するにつれ、バハルを差別するような者は村から一人、また一人といなくなった。
ディオンの決して折れない真っ直ぐな心と、アルベローゼの容赦ない言葉と――そして何より、幼くして二〇〇ミロ(二〇〇センチメートル)を超える巨体へと成長し、素手で自然石を粉砕するバハル自身の規格外の膂力が、完全に功を奏したのである。
そして今夜。
「ディオンが一人で村を去ろうとしている」という噂が、風に乗ってバハルの耳に届いた。
彼は太い鼻を鳴らし、一族に代々伝わる重厚な大楯と愛用の斧を背負うと、迷うことなく家を飛び出した。
「あいつめ、また一人で抱え込みやがって……。エリカが苦しんでるのが気になるんだろ?俺にぐらい声をかけろってんだ」
「……一人で飲む安酒は、毒より回るのが早いぜ、ディオン」
一人で酒と会話をしていたディオンの背後から、地響きのような野太い声が降ってきた。
振り返る間もなく、きしむような音を立てて隣の席に巨大な影がどっかと腰を下ろす。
ランタンの灯りに照らされ、首筋の龍の鱗が鈍く光った……バハルだ。
ディオンと同い年でありながら、その身長はすでに二・四五ガルイ(二メートル四十五センチ)にも達している。
筋骨逞しいその巨躯は、ただ座っているだけでも周囲を圧倒する迫力があった。
彼は注文すらしていないのに、店主から奪い取るように受け取った特大のジョッキを掲げ、豪快に笑った。
「バハル……どうしてここに」
目を丸くするディオンの肩を、丸太のような腕がバンと叩いた。
「水臭いこと言うなよ。お前が一人で抱え込んで旅に出るなんて、村中の奴が知ってるぜ。でだ……俺も行く」
バハルの目が鋭くディオンを射抜く。
「でも、君には一族のこともあるだろう?君の血が一族では重要なはずだ。これ以上、無理はさせられない」
「いいんだよ。鱗がある俺の親友になろうなんてバカは、お前たちくらいなもんだ。それに、俺の中の龍の血が、恩人に盾を貸せって騒いでうるさくて敵わねえんだよ。がはは!」
バハルの豪快な笑い声が、酒場の空気をビリビリと震わせた。
「俺が忠誠を誓うのはお前だ……ディオン」
バハルの呟きは小さく……しかしながら重く響いた。
その迷いのない瞳に、ディオンは小さく息を吐き、やがて諦めたように「分かった。頼むよバハル」と、微かに微笑んで頷いた。
同行を誓い合った二人だったが、琥珀色に濁った安酒を酌み交わしながら、具体的な聖都への経路や戦術の相談を始めると、バハルの胸中に戦士としての極めて冷静な危惧が芽生え始めた。
分厚い木のテーブルの上で、バハルは自身の巨大で無骨な掌をじっと見つめた。
村に近づくヴィルヘルとの実戦で分厚いタコができ、無数の傷跡が刻まれたその手は、彼が純粋な戦士であることを物語っている。
「……なぁ、ディオン。確かにお前は、親父さんから教わった古代エルフ言語魔法の魔導剣術を身につけてる。街道筋に出るような普通のヴィルヘル(魔物)が相手なら、それでどうにか戦えるだろうさ」
バハルは地を這うような低い声で言葉を継いだ。
「だが、お前の魔法はあくまで『剣の間合い』だ。遠くから魔法や遠隔攻撃を撃ち込んでくるヤツも居るし、見上げるような大型のヴィルヘルだっていやがるんだぞ?それにだ……物理攻撃が通じず魔法しか効かねえ奴、炎や氷の特定属性を突かなきゃ絶対に倒せねえ奴……。深い洞窟を抜けるなら、頭上を支える落盤防止の魔法がなきゃ、一発で生き埋めだ」
バハルは魔法が一切使えない。
簡単な初級魔法であれば、その腕力でぶん殴って物理的に消し飛ばすという荒業ができるものの、それにも当然限度がある。
「俺のこの大楯で、正面からの攻撃は防いでも、上空から急降下してくる群れに囲まれたら、俺たちの『手』は絶対に届かねえ。手持ちの武器でも投げて応戦するか?あと、夜には心霊系のヴィルヘルが出る。どうする?俺の斧じゃ、あんな実体のねぇ幽霊どもは切れねぇぞ」
バハルの言葉一つ一つが、冷水を浴びせるように残酷な現実を突きつけてくる。
薄暗い酒場の喧騒の中で、二人の周囲だけがひどく冷え込んでいくようだった。
「それに、深い傷を負ったらそこでおしまいだ。俺たち二人に、癒やしの術は使えねぇ。空飛ぶやつが相手なら、アルベローゼがいればあの弓で確実に対空攻撃出来るんだがな……。だが、あんなに一族から大事にされてる女の子を、閉鎖的なエルフ族が旅に出るなんて許すか……?かといって、ライナス兄さんやエリカ姉はこの村の防衛の要だ。俺たちの勝手な都合で連れていけるはずもねぇんだよ」
圧倒的な戦力不足……防空手段と魔導戦力の欠如。
そして何より、回復手段の不在。
沈黙が降りたテーブルで、ディオンは自身の腰のポーチにそっと手を触れ、ぽつりとこぼした。
「……薬草を、三つ買ったんだ」
自然の回復魔力を内包する薬草。
それを三つ用意したというディオンの絞り出すような言葉に、バハルは大きなため息をつき、やがて太い鼻を鳴らして笑い飛ばした。
「がはは!なぁ、ディオン。聖都までは三百ライン(三百キロメートル)だぜ?薬草三個で足りると思ってんのか?いいか、ヴィルヘルの爪や牙には腐肉や泥がこびりついてて、汚ねぇんだぜ。薬草の力で表面の傷口だけ塞がっても、体内に残った菌や化膿を抑える消毒はどうする?それによぅ……毒や、血肉を腐らせる魔傷、厄介な魔毒にかかったら、ただの薬草じゃ効かねぇ。そもそも、この近辺には自生してねぇからな……。村じゃただでさえ貴重な薬草だ。これ以上、買い占めるわけにもいかねぇんだろ?」
傷を塞ぐことと、命を救うことは同義ではない。
いつもは豪快で単純なはずのバハルらしくない、あまりにも的確で戦術的な分析。
それは、己が魂を捧げた友(主君)の命を絶対に死なせまいとする、彼なりの強固な忠誠の形であった。
勢いだけで乗り切れるほど、外の世界は甘くない。
ディオンは反論の言葉を見つけられず、グラスの底に僅かに残った安酒を見つめたまま、ただ重く押し黙るしかなかった。




