第1話 慟哭の魔導師
聖女王歴2000エイン(年)、エルカリアの月(四月)二日。
忌み数の鼓動(三時)を告げる冷たい風が、アイナル村の家々の隙間を吹き抜けていく。
木造の小さな部屋は、息が詰まるほどの静寂と暗闇の中に沈んでいた。
エリカ・ヴァイン、二十一歳。
つい数日前まで、魔法聖国エルディア・ルーン最強と謳われる『特務魔導中隊』の中隊長だった彼女は今――逃げるように帰ってきた故郷のベッドで、じっとりとした冷や汗に塗れていた。
(……殺せ。すべて、壊してしまえ)
脳の奥底、魂の裏側から直接響いてくるような、どす黒い泥のような声。
「くっ……やめ……て……」
エリカは奥歯を噛み締め、シーツを真っ白な指先が裂けるほどに握りしめる。
その瞬間、窓の外で生気のない不気味な影が蠢いた。
村の外れの墓地から迷い込んできた、下級の心霊系魔物――ヴィルヘル。
エリカは反射的に身を起こし、ベッドサイドの細い樫の魔導杖を掴むと、窓際の影へ切っ先を向けた。
「《マギ・ストラール》!」
一瞬、中空に展開される薄く淡い蒼碧の魔法陣が発射と同時に燐光へと消える。
短く紡がれた純粋な魔力が、白銀の光線となって撃ち出される。
パァン、と空気を弾く鋭い音と共に、光線は正確にヴィルヘルの核を貫き、悲鳴を上げる間もなく魔物を霧散させた。
――刹那、エリカの視界が真っ赤に染まり上がった。
(もっとだ。もっと、殺せ。……ライナスを……腹を割き……内腑を啜れ……。すべてを切り刻め――!)
破壊した瞬間に全身を駆け巡った、狂おしいほどの快楽。
脳の奥が痺れるようなその熱に、自分自身が「酔いしれて」いることに気づき、彼女は激しく戦慄した。
「……ダメ。私は、まだ、人間のはずよ……」
部屋の隅には、聖国最強魔導士の証である漆黒のサーベルや軍の装具が整然と置かれている。
しかし、この内なる「異形の意思」の前では、それらの栄誉も虚しいだけだった。
魔力を行使すればするほど、悪霊の放つ殺意は純度を増し、エリカという人間の尊厳を侵食していくのだ。
ふと、寝台の横の古い手鏡に視線を落とす。
月光に照らされた緑の瞳の奥に、不気味な赤い燐光が宿った気がして、エリカは弾かれたように手鏡を伏せた。
三歳の時、発狂したエリカの中の「悪霊」を鎮めるため、幼馴染ライナスの母・セレスティナは命を落とした。
十五歳の時、再び悪霊が暴走した惨劇では、エリカが慕う村の教師であり、ライナスの新しい母でもあったイゾルデまでもが命を散らした。
実直で優しい、九つ年上のライナス。
幼い頃からずっと、彼に淡い恋心を抱いていた。
この国の中心……聖都ルーン・ヴィークで魔導銀の軽鎧に身を包み、神聖騎士団で神聖中尉まで勤め上げた彼は、エリカの憧れだった。
知的な眼鏡の奥にある、人を寄せ付けない蒼く冷たい零下の眼差し――。
けれど、その瞳は幼い頃から変わらず、エリカにだけはいつも温かな光を宿してくれていた。
風に揺れる長い白銀の髪を目にするたび、エリカの胸は締め付けられる。
――だが、細く鍛え抜かれた彼の美しい腕が、エリカを抱きしめてくれることなど決してない。
彼を産んだ母セレスティナと、彼を育てた母イゾルデの命を奪ったのは、他でもない自分なのだから。
それなのに今、エリカの中にあるのは、彼に触れたいと願うほどに「殺したい」という衝動が込み上げてくる悍ましい飢えだけだった。
「……ごめんなさい、セレスティナ様。……イゾルデ先生……」
一筋の涙が頬を伝い、月光を反射して輝いた。
「私はライナスを好きになる資格なんて無いのに……」
聖都ルーン・ヴィークの『聖図書館』へ行かなければならない。
この声の正体を突き止め、殺意の連鎖を断ち切らなければ、いつかこの手で愛する人を灰にしてしまう。
――明日、村を一人で密かに発つ少年がいる。
ライナスの弟であり、エリカと同じ悪霊を内に秘めたディオンだ。
彼もまた、己の悪霊の謎を解明するために聖都を目指すという。
もっとも、彼の杜撰な行動のせいで、その秘密の旅立ちはすでに村中が知るところとなっていたが。
エリカは震える手で自身の胸元を強く押さえ、明日から始まる旅路へと想いを馳せた。
明日、早朝に村を出る彼を待ち伏せるのだ。
「ディオン……私の中にも悪霊がいるのよ? 何で私に声をかけてくれないの?」
まだ誰も知らない。
この静かな夜から踏み出す呪われた少女の孤独な一歩が、二千年の時を超えて仕組まれた残酷な設計図を書き換えるための、最初の抗いになることを。




