第41話 黄金の檻
長い旅路の果て、一行を乗せた馬車は、ついに聖都の城壁へとその歩みを進めていた。
しかし、馬車の中の空気は、到着の安堵とは対照的にどこか落ち着かない熱を帯びている。
「……ちょっと、狭いわね」
アルベローゼは、理由の判然としないイライラを隠そうともせず、小さく毒づきながら頬をプクッと膨らませた。
口では文句を言いながらも、彼女は隣に座るディオンへ、隙間など一切ないほどにぴったりと寄り添っている。
両手で彼の左腕をギュッと抱き込み、自分の頭を彼の逞しい二の腕にすりすりとおしつけていた。
密着と呼ぶべきその近さ。
彼女の艶やかな銀にも見える金髪から漂う甘い花のような香りと、腕に伝わる柔らかすぎる感触に、当のディオンは顔を真っ赤にして戸惑っていた。
(な、なんだって今日はこんなにくっついてくるんだ……!?)
心臓が早鐘を打つのを必死に誤魔化しながら、彼はひたすら車窓を流れる景色を見つめ続けることしかできなかった。
やがて、太陽が天頂で輝き、黄金の正刻(正午)を告げる鐘が重厚に鳴り響く頃。
巨大な正門をくぐり抜けた馬車を降りた一行は、眼前に広がる圧倒的な光景に言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「……嘘でしょ。なんて、綺麗なの……」
アルベローゼの桜色の唇から、感嘆の吐息が漏れる。
そこは、童話の世界をそのまま現実のキャンバスに描き出したかのような、夢幻の都だった。
足元に広がるのは、塵一つない白亜の大理石で舗装された大通り。
その両脇には、繊細な硝子細工の魔導灯が立ち並んでいる。
夜になれば淡いプリズムの光を街路に落とすのだ。
見上げれば、青空を横切るように幾筋もの細い『空中水路』が青みがかった魔導ガラスで架かっていた。
そこからこぼれ落ちる微小な水滴が陽光を乱反射し、街全体に星屑のようなキラキラとした光の粒を絶え間なく降らせている。
「見て、エリカ!あの建物、壁からお花が咲いてる!」
アルベローゼが目を輝かせて指差す先には、白銀のレースのように精巧な彫刻が施された見事な建築物が立ち並び、そのバルコニーからは、魔法によって一年中咲き誇るよう調整された色とりどりの薔薇や百合が、滝のようにこぼれ落ちていた。
女王の政策により、魔導による緑化が推奨されているのだ。
聖都の光景に慣れているエリカとライナス以外の三人は、すっかり目を奪われ、キョロキョロと落ち着きなく周囲を見回している。
すれ違う人々は皆、上質な絹や刺繍の施された豪奢なローブを纏い、風に乗って甘い香水と、焼き立てのペストリア(ペストリー)の芳醇なバターの香りが鼻腔をくすぐる。
頭上を見上げれば、二頭の純白のペガサスが『赤』を乗せて優雅に羽ばたきながら、尖塔群の隙間を縫うように飛んでいく。
これまでの血と泥に塗れた過酷な旅路とは、あまりにもかけ離れた美しすぎる世界。
あらゆる技術が結集した、魔導文明の極致とも言える光景がそこには広がっていた。
だが、その美しい聖都の空気に、早くも冷や水を浴びせられている者がいた。
聖都到着後、仲間たちと別れて一人『聖都分教会』へと向かったライナスである。
重厚な石造りの待合室――。
沈黙の中、壁の魔導時計の針が進む音だけを聴きながら待たされること、実に二クロス(二時間)。
ようやく重い扉が開き、豪奢な祭服に身を包んだ分教会長が、冷徹な表情で姿を現した。
「使いをやるゆえ、指定の宿へ移動しそこで逗留せよ。これは、女王命である」
挨拶もそこそこに、分教会長がライナスの胸元に突き出したのは、絶対不可侵の権威を示す『女王の玉璽』が鮮明に押された令状だった。
「市井の酒場や、買い物による外出も一切禁ずる。支払いの心配は無用、そなたら一行の滞在費はすべて国家が負担する」
早口で捲し立てる分教会長は酷く怯えていた。
それは国賓待遇という名の、事実上の『軟禁』であった。
(なぜだ……?まだ我々は聖都に着いたばかりだというのに、すでに国家の上層部は我々の動きを把握し、隔離しようとしているのか?)
聖都の奥深くに巣食う、底知れぬ闇の気配。
しかしながら命令に背いたら、どのような仕打ちをされるかわからない――――相手は国家そのものなのだ。
ライナスは胸に広がる不安と焦燥を必死に抑え込むと、急いで分教会を飛び出し、街へと散った仲間たちを探しに走った。
その頃。
エリカとアルベローゼは、活気あふれる王都の露店街で、すっかり観光気分を満喫していた。
「見て、アルベローゼ!これが『リリュエ』よ!」
エリカが目を輝かせて指差したのは、木箱の屋台に並べられた、氷結魔法で果汁を直接凍らせた聖都独自の冷菓子だった。
小さめのエルフ女性の頭ほどもある、極彩色の大きな氷の塊。
だが、その造形は芸術品の域に達していた。
魔法の繊細なコントロールによって削り出された形は、鳥、魚、エルフにドワーフ、人間に様々な兜、剣や斧、花や犬、猫など、千差万別。
太陽の光を透かしてステンドグラスのように輝いている。
「なにこれ、かわいー!すごーい!」
アルベローゼはぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。
二人がそれぞれ一シェル(銀貨一枚)を支払い、それを手に取る。
エリカが少し顔を赤らめながら選んだのは、仄かにライナスを連想させる『純白の聖杖』の形をしたリリュエ。
そしてアルベローゼが選んだのは、ディオンとの幼い日の温かい思い出が重なる、『白い薔薇』の形をしたリリュエだった。
大きな白薔薇を手にしたアルベローゼの脳裏に浮かぶのは、たわいない八歳の頃の思い出……。
あの日、自分が泣いていた理由はもう分からない。
ただ、しゃくりあげる幼い彼女の髪にそっと差し込まれたのは、丹念に棘を取り除かれた一輪の白薔薇だった。
「ハハッ、やっぱりアルベローゼは可愛いよ。なぁ……泣くなよ」
「うん……。ねぇ、ディオン……。私、エルフだけど、ほんとうに大人になったらケッコンしてくれるの?」
「ああ、いいよ。アルベローゼにふさわしい剣士になって迎えに行くから、待っててくれ」
「どこかで座って食べましょ!」
エリカの一言でアルベローゼの雑念は霧散した。
「あそこのベンチはどう?」とアルベローゼ。
二人がウキウキとした足取りで、噴水広場にある大理石のベンチに座った、その時だった。
「へへっ……べっぴんさんたちが二人揃って何してんだ?そんな氷なんかより、もっと気持ちいいこと教えてやるよ。こっち来いよ」
昼間から臭いドブのような酒の臭いを漂わせた、山賊崩れのような下衆な冒険者五人が、ニヤニヤと卑猥な笑みを浮かべて二人を取り囲んだ。
美しく輝く聖都にも、このようなゴロツキは存在する。
圧倒的な光の足元には、必ず濃い影が落ちるのだ。
「触らないで。どきなさい」
エリカが元特務の冷たい声で凄むが、軍の制服を着ているわけでもない若くて美しい女の言うことなど、酔っ払いたちが聞くはずもない。
「やめて、離して!」
男の一人が、嫌がるアルベローゼの細い手首を乱暴に掴んだ。
その瞬間――――。
パリンッ……。
アルベローゼの手からこぼれ落ちた宝石のような白薔薇のリリュエが、無情にも硬い石畳の上に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「…………あ」
アルベローゼの動きが、ピタリと止まった。
「……私の、お菓子……」
大切な人との思い出を重ねた白薔薇。
俯いたアルベローゼの額に、ピキリと青筋が浮かび上がる。
次の瞬間、彼女は空いた方の指先で、自らの掌に直接『魔力術式』を書き込んだ。
魔法の発動体(杖や弓)を通さない、純粋で暴力的な剥き出しの魔力が、チリチリと音を立てながら淡い燐光となって彼女の拳に纏わりつき始める。
「アルベローゼ!!」
その時だった。広場の喧騒を切り裂くように、喉が張り裂けんばかりの切羽詰まった声が響き渡った。
ディオンだ。
人混みを乱暴に掻き分け、血相を変えたディオンが、一陣の風となって飛び出してきた。
「てめぇらァァァッ!!」
愛する彼女が男に乱暴されている光景を目にし、理性を完全に吹き飛ばしたディオンの咆哮。
怒りに燃えるディオンの右ストレートと、静かなブチギレ状態のアルベローゼの魔力掌底――――アルベローゼの掌底を顔面に食らった男が吹っ飛んでいる途中にディオンの拳が胸部に突き刺さった。
ディオンの拳にぶち破られた黒鋼の鎧の胸甲は、破片を激しく撒き散らして本人と共に吹き飛んだ。
ディオンの拳は手甲に包まれているのだ。
ドバキィッ!!
鈍い破裂音が響き、下衆な言葉を吐いた先頭の男は、悲鳴を上げる間もなく数ガルイ(数メートル)後方へ錐揉み回転しながら吹き飛び、白目を剥いて気絶した。
「ヒッ……!?な、なんだこいつら——ぐべぁッ!?」
残りの四人が慌てて武器を抜こうとした瞬間、彼らの背後に巨大な影が落ちた。
「俺たちの仲間に手を出すとはなぁ……万死に値するぜ」
いつの間にか背後に立っていた重武装のバハルが、丸太のような腕で四人の頭を次々と鷲掴みにし、岩盤のような大盾の腹で容赦なく叩き伏せていった。
騒ぎを聞きつけた聖都巡回魔導騎士団が現場に駆けつけた時、仲間を探し回っていたライナスもようやくその場に合流した。
息を切らせて広場に飛び込んだライナスが目にしたのは――無残にのびてピクピクと痙攣する五人の悪漢たちと、その綺麗に積み上げられた『肉の山』の上に、悠然と腰を下ろしてガハハと笑っているバハルの姿だった。
「ライナス!大変だったのよ!」
エリカとアルベローゼは、騎士団に対し毅然とした態度で事の顛末を説明した。
白昼堂々の拉致未遂――そして何より、大切なお菓子を台無しにされたという海よりも深い怒り――そしてディオンの拳が血塗れなのもコイツらのせいだった。
エリカの元エリート軍人としての理路整然とした証言により、騎士団はすぐさま正当防衛を認定し、ゴロツキたちは引きずられるように連行されていった。
「……はぁ。聖都に着いて一クロス(一時間)で騒動を起こすとは……。皆無事なようですが、目立ちすぎです。行きましょう、指定された宿へ」
ライナスは深くため息をつきながら、半ば呆れ顔で皆を連れ、女王から指定された最高級宿『白亜の揺り籠亭』へと向かった。
通されたのは、宿の最上階を貸し切った広大な特別室だった。
フカフカの絨毯が敷き詰められた広間には、王侯貴族にしか許されないような、最高級の肉を香草で焼き上げた極上の料理と、透き通るような名酒がテーブル狭しと並べられている。
その待遇は破格だった。
「……まあ、あいつらのこと思い切り殴ったし。とりあえず今回は許してあげるわよ、ディオン」
豪華な椅子に深く腰掛けたアルベローゼは、ディオンの右拳を両手でそっと包み込み、慈しむように丁寧にポーションを擦り込んでいた。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、無惨に砕け散ったリリュエのことではない。
騒動の中で必死に自分の名を叫び、誰よりも真っ先に駆け寄ってきてくれたディオンの、あの怒りと焦燥に満ちた形相だった。
「アルベローゼ……もう、兄さんの神聖魔法で綺麗に治ってるから、大丈夫だよ……」
ディオンは耳まで赤く染まった顔を左手で覆い、恥ずかしそうに視線を逸らしている。
しかし、アルベローゼに預けた右手は決して引き抜こうとはしなかった。
「ダメだよ、ディオン。……ちゃんと……治してあげるのは、私なんだから」
傷などとうに塞がっていることを分かっていながら、頬を桜色に染め上げたアルベローゼの甘い治療は、彼の温もりを確かめるようにゆっくりと続いていた。
ディオンは、自分を律するはずの理性を一瞬で超え、彼女を失う恐怖で体が勝手に動いてしまったことの意味を理解しきれていなかった。
それが、自分の中に決定的に根付いた『特別な感情』の芽生えであるという事実にまだ気づくこともなく、彼はただ彼女の指先の柔らかさに耐えきれず、胸の鼓動を誤魔化すように俯き続けていた。
豪華な食事を囲み、和やかな空気が流れる中。
しかし、一行の視線は時折、固く閉じられた豪奢な扉へと向けられていた。
外への自由は奪われている。
彼らはここで、女王からの何かしらの『命令』を持ってくるであろう使者を、不穏な静けさの中で待つことになったのである。




