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第40話 幾多の試練を越えた先

 水の都『アクア・フェリス』の朝は、運河から立ち上る清涼な朝霧と共に明けた。

 透明な水が流れるはね橋を渡り、巨大な石造りの西門を抜けた一行を待っていたのは、これまで彼らが命懸けで越えてきた荒涼たる辺境の道とは完全に別次元の――『首都圏』の圧倒的な警戒網とその区域用の魔導馬車であった。


「こいつはすげぇや……。馬車の揺れが、まるでねぇぞ」

 冒険者が乗り込む武装馬車では無く、街道警護役騎士団と魔導師団が警護する十数台連なる定期馬車の中程の車両。

 その一台に乗り込んだバハルが、窓枠に巨大な腕を預けながら感嘆の息を漏らした。

 彼らの乗る大型馬車を引いているのは、四頭立ての『魔法補助馬』である。

 一見すると筋骨隆々とした軍馬だが、その四肢には輝く魔力術式の金属輪が装着されており、蹄は硬い石畳を直接叩くのではなく、極薄の風の魔力クッションを発生させて宙を滑るように疾走しているのだ。


 その速度、実に時速八十ライン(キロ)。

 普通の馬車ならば車輪が吹き飛び、乗客は振動に耐えられない猛スピードだが、綺麗に切り出された石板が寸分の隙間もなく敷き詰められた『首都圏水闇の街道』においては、車内は驚くほど静かで快適だった。


「風切り音はすごいが、本当に揺れないな。これなら舌を噛む心配もなさそうだ」

 ディオンが窓の外を猛烈な勢いで後方へと飛び去っていく木々を眺めながら呟く。

 彼の隣では、アルベローゼがふんぞり返ってご機嫌な様子で足を組んでいた。

 今日はディオンの隣を死守したのである。


「……ええ。ですが、万が一ということもあります。エリカ、冷えませんか?隙間風が入るようなら、私のマントを膝に掛けてください」

 ライナスが優しく微笑みながらエリカに声をかける様子は、もはや優しい夫そのものである。

「だ、大丈夫よライナス。そんなに過保護にしなくても、今の私……魔法は撃っちゃいけないのは分かるんだけど健康なんだから」 


 エリカは頬をほんのりと赤く染めながらも、満更ではない様子でライナスの隣に身を寄せていた。

 馬車は、アクア・フェリスの断崖を抜け、なだらかな平野部へと差し掛かった。


 窓の外に広がるのは、豊かな緑と河川。

 そして、驚くほど平和な光景だった。

「おい、見ろよディオン。あそこの林の横!」

 バハルが面白そうに窓の外を指差す。


 街道から少し外れた野営地のような場所――休息所として知られる『クラール・ブルンド』の周辺だ。

 騎士団や魔導師団の往来が激しいこの安全地帯には、多くの冒険者ルーキーたちがテントを張っていた。


 彼らの視線の先では、革鎧を着た十代半ばほどの若い剣士と、粗末な木の杖を持った見習い魔導師の少年少女が、必死の形相で『何か』を追いかけている。


「待てーっ!今日こそお前を狩って、宿代にするんだーっ!」

「きゃあっ!剣を振り回さないでよ、危ないじゃない!」

 彼らが追いかけているのは、膝の高さほどしかない、丸々と太った角ウサギのような最弱クラスのヴィルヘルだった。

 舌足らずな詠唱の声が響くと、火の玉がなぜか上空に打ち上がる。


 魔物というよりは、少し凶暴な野生動物に毛が生えた程度の存在だ。

「ギャハハハ!なんだありゃあ!剣の軌道がブレブレじゃねぇか。あんな角ウサギ一匹に、五人掛かりで振り回されてやがるぜ!」

 先日、上位巨人の攻撃を大盾で受け止めてきたバハルからすれば、微笑ましいお遊戯にしか見えない。


「バハル……。僕たちにだってあんな時期があったじゃないか」

 ディオンが苦笑しながらフォローする。


「……平和ね」

 エリカは窓枠に肘を突き、クスリと笑った。

「あの子たちくらいの年齢の時、私はもう魔導師団にいたわ……でも、あんな風に泥んこになって、仲間とワーワー言いながら最弱の魔物を追いかけるのも、冒険者らしくて少し楽しそうね」


「エリカ……」

 エリカの呟きに、ライナスは少しだけ目を細め、彼女の華奢な肩にそっと自分の肩を触れ合わせた。


「それにしても、さすがは聖都直通の『水闇の街道』ね。さっきから、たまに上空の警備が通るわ」

 エリカが視線を空へと向ける。

 青空を切り裂くように、頭上を二つの白い影が追い抜いていった。

 純白の翼を持つ美しい天馬――『ペガサス』だ。


 鮮やかな真紅の軍服を風に翻す二騎の女性魔導師である。

「王立魔導師団、治安維持大隊。通称『赤』の航空巡回小隊ね」

 元・漆黒のエリカが、淀みない知識で解説を始める。


 風を切って滑るように走る馬車の窓辺で、エリカは上空を舞う純白の翼を見上げながら言葉を紡いだ。

「ペガサスは非常にプライドが高く、魔力波長の繊細な生き物なの。……金属鎧なんて論外。荒々しい闘気を持つ騎士や、体臭がする男性を背に乗せるのを極端に嫌うわ。だから、航空戦力として使役されるのは、魔力コントロールに長けた女性魔導師がほとんどよ……たまにいる男性は例外かしら」


「へぇ、そうなんだ。でも、なんでいつもツーマンセル(二人組)なの?もっと大勢で編隊を組んで飛んだ方が強いじゃない」

 窓枠から身を乗り出すようにして空を見上げていたアルベローゼが、長い耳を揺らしながら不思議そうに尋ねる。


「それはね、航空魔導師の基本戦術よ」

 エリカは、細く白い指を二本立てて見せた。

「一人は、編隊全体の飛行誘導と、眼下の索敵を担当する『小隊長操縦手』。もう一人が、その後方を飛び、地上への攻撃のみを担当する『攻撃手』。立体機動魔法戦において魔力探知、そして複雑な攻撃魔法の構築を同時にこなすのは至難の業よ。役割を完全に分担することで、高速飛行中でも即座に、かつ正確な魔撃が可能になるの。あれが基本の一個小隊というわけ」


 エリカはそこで言葉を切ると、かつての自身の肩書きを思い出すように、少しだけ誇らしげに唇の端を吊り上げた。


「まぁ、私のような特務部隊『漆黒』は、ペガサスではなくドラッヘ(飛竜)を使うし、ツーマンセルで飛んでも『二人ともが操縦手であり、同時に攻撃手』だけどね」

 サラリと言ってのけたその一言が、どれほど常軌を逸したバケモノじみた能力の証明であるか、彼女自身は無自覚なのだろう。


 役割を分担しなければ不可能な高度な魔導誘導と索敵、さらには魔法攻撃の構築。

 特務の人間はそれらを一人で同時に、しかも超高速戦闘の中でやってのけるという意味である。

 最前線で物理的な死線を潜り抜けてきたバハルやディオンですら、その規格外の事実に思わず「えっ?」と顔を引きつらせていた。


 彼らの戦慄をよそに、向かいの席に座るライナスが真面目な顔で眼鏡の位置を直し、静かに補足した。

「……特務は別格として、正規の治安維持大隊である彼女らも十分に恐ろしい存在ですよ。ひとたび街道にヴィルヘルを見つけると、獲物を狙う猛禽類のように、60ザーム(60度)という急角度で降下を始めます。凄まじい風切り音と共に急降下しながら、地上へ向けて高火力の魔法を二発から三発、極めて正確に投射する……。そして地表に激突する寸前で急上昇し、すぐさま離脱しますが……後には、巨大なクレーターの中で粉々になったヴィルヘルの残骸しか残りません」


 ライナスの語る光景を脳裏に思い描き、馬車内に一瞬の静寂が落ちる。

 上空からの無慈悲な急降下魔導爆撃。

 それは地を這う魔物たちにとって、抗う術のない純粋な死の雨に他ならなかった。


「……なるほどな。軍隊の戦術ってのは、本当によく考えられてるぜ」

 バハルが、自分たちよりも遥か上空を支配する彼女たちに心底感心したように、眩しい青空を見上げた。

「エリート部隊っていうのも納得だね……」

 ディオンも頷く。


 真紅の軍服を着た二人の魔導師は、広い半径で上空を旋回して異常がないことを確認すると、美しい編隊を組んだまま、遥か前方へと飛び去っていった。


 首都近郊における街道の安全は、こうして彼女たち『赤』の絶え間ない巡回によって完璧に保たれているのだ。

 やがて馬車は、巨大な防壁に囲まれた商業都市『シュタイング・ヴァルト』へと差し掛かった。


 馬車は街の中へは入らず、街道沿いの停留所で魔法補助馬への給水と交代を行うために一時停車した。

 停車時間はわずか十五セグ(十五分)。

 外へ出て置いていかれても困るので、一行は窓から街の様子を眺めることしかできない。


「わあ……見て、あそこの武器屋!剣の刀身が炎の魔力で赤く光ってる!」

 アルベローゼが窓に顔を押し付けて興奮した声を上げる。


 シュタイング・ヴァルトは、聖都への物資が集まる『免税特区』として知られている。

 商業地の規模自体はそれほど大きくないものの、冒険者向けの武具店や魔導媒体店が充実しており、ショーウィンドウには涎が出そうなほど強力な装備がズラリと並んでいた。


「……良い品だが、値段は最悪だ」

 ディオンが値札の書かれた看板を遠目に見て顔をしかめる。

「ここは魔導具の産地じゃない。聖都の富裕層や、聖都へ入る前に見栄を張りたい貴族の子弟向けに、わざと値段を釣り上げているんだ。あの炎の剣も、アクア・フェリスなら半額で買えるだろうさ」


「……ギルドで三ソル(三日)ほど働けば、あの角の店にあった『蒼流のローブ』も買えたかもしれませんでしたね」

 ライナスが、未練がましく窓の外の魔導具店をジッと見つめながらボソリと呟いた。


「まだ言ってるの!?もう!私にスケスケのローブ着せてどうしたいの?」

 エリカが顔を真っ赤にして、ライナスのすねをテーブルの下でコツンと蹴り飛ばす。

「痛っ……いえ、防具の充実はパーティーの生存率に直結しますから……耐火能力と対魔導数値の評価ですよ……」

「嘘ばっかり!見たいの?そんなに……」

「あ……いや……」

 ケンカというにはイチャイチャと嬉しそうな二人を見て、バハルとアルベローゼは「やれやれ」と肩をすくめ、バハルはゲラゲラと笑った。


 馬車が再び時速八十ラインで走り出し、二クロス(二時間)ほどが経過した頃。

 車内に、香ばしく焼かれた肉の脂の匂いと、甘い麦酒の香りが漂ってきた。

「なんだなんだ!?すげぇいい匂いがするぞ!」

 バハルが鼻をヒクヒクと動かす。

 視界が開け、街道の左右に、見渡す限りの巨大な宿屋や飲食店がひしめき合う巨大な街並みが現れた。


 聖国最大の宿場町――『グリューン・ラルト』である。

「すごい人の数ね……。アクア・フェリスよりも人口が多いんじゃないかしら」

 エリカが驚いたように目を丸くする。


 物価の高い聖都での滞在を避けるため、巡礼者や商人、そしてルーキーの冒険者たちは、皆このグリューン・ラルトに寝泊まりしながら聖都へと通うのだ。

 そのため、街は常に凄まじい熱気と喧騒に包まれていた。


「……ですが……人が多ければ闇も深くなるものです」

 ライナスが窓の外を歩く人だかりを見下ろしながら、鋭い眼光を光らせた。


「なるほどな……ほら、あそこの路地裏を見てみろ」

 バハルの視線の先。立派な鎧を着た二人の巡回騎士が、商人風の男からコソコソと革袋を受け取っている姿があった。

 さらにその奥の薄暗い裏通りでは、目つきの悪い武装した男たちが、明らかに巡礼者の身なりをした親子連れの後ろを、品定めするように尾行している。

 狙いは若い母親……そして父親の腰にぶら下がっている金品だろうか……そのために幼い子どもを狙うかもしれない。


「……盗賊ね」

 エリカの声音が、一瞬にして零下まで冷え込んだ。

「この辺りは魔導水晶の結界のおかげでヴィルヘルが極端に弱い。だからこそ、腕に自信のないルーキーや、丸腰の巡礼者が大量に集まる。ヴィルヘルの脅威がない場所では、一番恐ろしいのは『弱い人間を狩ろうとする悪人』よ」


 エリカは軽蔑の眼差しで、路地裏で賄賂を受け取っている巡回騎士を睨みつけた。

「盗賊が多いからこそ、騎士団も魔導師団も大量に駐屯しているはずなのに、あの体たらく。末端の腐敗が進んでいるのね。特にこの街の盗賊は、金品だけでなく人攫いや殺人も平気でやると軍の調書で読んだことがあるわ」


「クソッ。おい、馬車を止めろ!俺がちょっと、あの裏路地を『掃除』してきてやる!」

 正義感の強いバハルが、忌々しげに吐き捨てて黒鋼の大盾を手に取ろうと立ち上がりかけた、その時だった。


「待ちなさい、バハル」

 ライナスが静かな、しかし有無を言わさぬ声でその巨体を制止した。

「助けたい気持ちは分かります。ですが、我々は今、正規の軍でも騎士団でもない。……よく見てみなさい。あの親子は、すでに巡回中の『赤』の小隊が上空からマークしています。じきに地上からの別小隊と連携して制圧されるはずです」


 ライナスが指差した空には、音もなく滑空してきたペガサスに騎乗した『赤』が、路地裏の盗賊たちへ冷徹に狙いを定めているところだった。


「我々の最大の目的は、あくまで聖図書館へ辿り着き、エリカの悪霊の謎を解き明かすこと。……この国の暗部を正すのは、我々ではありませんよ。それに――司法というものに、無知な素人がみだりに手を出すべきではありません」


「……チッ。分かったよ、ライナス。すまねぇ、熱くなった」

 バハルは舌打ちをして大盾を下ろすと、ドスンと座席に腰を下ろした。


 エリカもまた、小さく息を吐いて窓から視線を外す。

(……聖都の足元は、決して綺麗事だけの世界じゃない。でも、私たちは前へ進まなくちゃいけないのね)


 グリューン・ラルトの喧騒を抜け、馬車はさらに一クロス(一時間)ほど街道をひた走った。

 やがて、道幅がそれまでの三倍近くにまで大きく広がり、巨大な石畳の『大街道』へと接続される。


 上空を飛び交う『赤』のペガサス騎兵の数は倍以上に増え、たまに漆黒の鱗を持つ巨大な騎乗用ドラッヘ(ワイヴァーン)が重々しい羽音を立てて旋回した。


「みんな……見えるわ」

 エリカが、息を呑んで窓の正面を指差した。

 街道の遥か先。

 地平線を覆い尽くすかのような、規格外に巨大な純白の城壁。


 城壁の奥には、天を貫くほどの高さを誇る荘厳な尖塔がいくつもそびえ立ち、その頂には神聖魔法の光を放つ巨大なクリスタルが輝いている。

 世界中の富と、魔導技術の粋と、権力の全てが集まる場所。


 魔法聖国エルディア・ルーン首都――『聖都ルーン・ヴィーク』。


「……着いたな。世界の中心に」

 ディオンが呆然と呟く。

 圧倒的なスケールで眼前に迫る聖都の威容に、車内の全員が言葉を失っていた。


「ディオン……残念ながら『世界の中心』ではありませんよ。『一つの国家の中心』です。さあ、ここからが本番ですよ、エリカ」

 ライナスが、エリカの冷たくなった手をそっと握りしめた。

「ええ……行きましょう。私たちの目指していた場所へ」

 エリカは力強く頷き、握り返したライナスの手の温もりを確かめるように、真っ直ぐに聖都の巨大な正門を見据えた。


 彼らを乗せた馬車は、減速することなく、大いなる運命が待ち受ける都へと吸い込まれていった。

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