第39話 水の魔導水晶
「我々の目的である『聖図書館』は、ただの図書館ではありません。王家や特権貴族、あるいは上位の教会関係者しか立ち入れぬ不可侵の領域だ。だから、筆頭司書官を務めている私の古い友人、カスパールの協力が不可欠になる。彼を頼りましょう」
一同が真剣な表情で頷く中、ライナスはエリカへと視線を向けた。
「突き止めるべきは三つ。『アイナル村の古い伝承』『人間に取り憑く憑依霊ヴィルヘルの記録』そして……私たちの両親、『ゼーレドルフ一族やエリカのヴァイン一族のルーツ』だ」
ライナスの灰色の瞳に、暗い影が落ちた。
「父は、アイナル村の『守護職魔導騎士』として村を護っていました。ですが、果たして一介の地方騎士に、あれほど強大な悪霊の封印などできるのでしょうか? 私の母とディオンの母、そして父の命と魂を代償にしたあの異常な術式の正体を、まずはこの街の駐屯所で聞いてみたいと思うのです。私もエリカも軍の中枢にいましたが、『守護職魔導騎士』の実態については詳しくありませんから」
「ええ……。アイナル村のカイルもそうだけど、彼らについては『それぞれの街や集落の防衛に専従する騎士』という程度の認識しかないわ。魔法を行使するために、重鎧ではなくミスリル製の軽い胸当てだけを装備している……それに、私たち王立魔導師団や正規の騎士団とは指揮系統が完全に独立した組織なのよね」
エリカが首を傾げると、ライナスは静かに頷いた。
「その通りです。だからこそ……もしかしたら、彼ら守護職だけが受け継ぐ、私たちの両親が使ったような未知の封印技法があるのかもしれません。可能性は低いかもしれませんが、明朝、この街の守護職の駐屯所を訪ねてみましょう」
ランプの灯りに照らされたライナスの落ち着いた眼差しを見つめながら、エリカはふと、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
(ライナスは、いつもこうして私たちを導いてくれる。自分の両親を失った悲しみや罪悪感を誰よりも抱えているはずなのに……絶対に立ち止まらない)
グラスの表面を伝う水滴を見つめながら、エリカはそっと胸元に手を当てた。
その服の下には、昔、ライナスから贈られた蒼い安定石のペンダントが揺れている。
(私、この人をずっと見ていたい。守られるだけじゃなくて……この人の力になりたい……好き……)
かつての庇護者に対する依存ではなく、対等な一人の人間として彼を護りたいという純粋な願いが、静かに、そして確かに彼女の心の中に『愛』という感情を芽生えさせていた。
ただ、それは悪霊に呪われている今は許されるものではなかった。
夜も更け、一行は運河沿いにある瀟洒な宿屋の二階へと部屋を取った。
旅の疲れから全員が深い眠りについていた、深夜のこと。
カチャリ、と。
バハルやディオンたちが寝泊まりする大部屋の窓が、外側から密かにこじ開けられた。
盗難防止の鉄格子を高価な魔導武器で音もなく切り裂き、窓枠を乗り越えて忍び込んできたのは黒装束の盗賊だ。
水の都の豊かな冒険者を狙う、手慣れた空き巣である。
盗賊が荷物を漁ろうと、暗闇の中で身を屈めたその瞬間。
「……ふわぁ。なんだ、窓が開いてるじゃねぇか」
トイレに起き出したバハルが、のっそりと巨大な体を起こした。
暗闇の中で、身長二・四五ガルイ(メートル)の巨体が山のように盗賊の視界を塞ぐ。
バハルと盗賊の視線が絡み合う。
ドラゴンさながらの真紅の縦瞳孔を浮かべたその双眸は、闇夜にあって底知れぬ威圧感を放っていた。
「ヒッ!?」
盗賊が短剣を抜くよりも早く。
「なんだ、でけぇ虫だな」
寝ぼけ眼のバハルは、盗賊の首根っこを丸太のような腕でヒョイとつまみ上げると、グシャリと手足をへし折る。
そのまま開いていた出窓から、運河に向かってポイッと投げ捨てた。
ヒュルルルル……ドボォォォンッ!!
夜の水路に、盛大な水柱が上がった。
「ふぁ……戸締まりはしっかりしねぇとな」
バハルは窓をピシャリと閉めて鍵をかけると、再びベッドへと潜り込んで高いイビキをかき始めた。
「……ちょっとバハル、風が入らなくて暑いじゃん……」
すると今度は、暑さで目を覚ましたアルベローゼがブツブツと文句を言いながらベッドを抜け出し、バハルが鍵をかけた窓をあっさりと開け放った。
当然ながら、彼女も無惨に壊された鉄格子には全く気がつかないまま、再びスヤスヤと寝息を立て始めるのだった。
翌朝。
宿の前の水路に浮かぶ木箱の上で、全身打撲と骨折で動けなくなっている盗賊が巡回騎士団に回収されていくのを、一行は窓から生温かい目で見送ることになった。
どうやら魔導武器を使用した凶悪な強盗、婦女暴行の指名手配犯だったらしく、騎士団に骨折箇所を何度も蹴られて呻いている。
朝食を済ませた後、一行はアクア・フェリス守護役魔導騎士と街道巡回役騎士団が共同で駐屯する、巨大な石門の前に立った。
警戒する門番に対し、ライナスが懐から教会上位司祭の証である『銀のロザリオ』を静かに提示する。
その圧倒的な権威を示す輝きに門番は慌てて敬礼し、一行はスムーズに駐屯地の中へと案内された。
応接室で対面した第三中隊のガレス中隊長は、歴戦の傷跡を持つ屈強な騎士だった。
彼はライナスの問いに対し、腕を組んで厳しい表情を浮かべた。
「『悪霊を封じる力』を持つ守護職魔導騎士だと?……ライナス殿。私はかつて聖都の本部にも身を置いていたが、そんな高度な術は聞いたことがない」
ガレスは首を横に振った。
「霊を散らしたり、浄化する神聖魔法なら確かに存在する。だが、自我を持った強大な悪霊を、人間の体内に『封じ込める』術式など、既存の魔法系統には存在しないはずだ。もし貴殿のご両親がそれを使っていたとすれば……」
ガレスは声を潜めた。
「それは、王族などが管理する極秘事項か、あるいは歴史から失われた血筋の秘術だろう」
会談を終え、一行が再び運河沿いの酒場に集まったのは、空が紫紺に染まる時刻だった。
水面に映る夕景が、静かな波紋と共に揺れている。
「……結局、歴戦の中隊長さんでも知らなかったのか」
バハルが腕を組み、重々しい声で唸った。
ライナスは静かに頷き、テーブルの上で両手を組んだ。
「父や母たちの力は、既存の魔法の枠組みを完全に逸脱していたということですね。古代エルフ言語魔法の失伝魔法か……いや、ゼーレドルフ家という一族にのみ受け継がれた、血脈による継承魔法だったのか? 答えはやはり、聖都の聖図書館にしかないようです」
「……ガリアス様、セレスティナさん、イゾルデ先生……」
エリカは目を伏せ、祈るように胸元で両手を強く握りしめた。
あの日――新月の闇夜の中、命と魂を賭して自分を悪霊から救い、強固な封印を施してくれたのは、ディオンの父ガリアスであり、ライナスの母セレスティナであり、恩師イゾルデだった。
恩人である彼らの命を削った力が未だに解明されないことに、一行の間に静かな、しかし確かな緊張が走る。
「皆さん、もう少しです」
ライナスが顔を上げ、仲間たちを一人一人、力強い眼差しで見渡した。
「父たちが遺した謎、そしてエリカを苦しめる悪霊の正体。聖都で、その全ての決着をつけましょう」
ライナスの揺るぎない言葉に、全員が深く頷いた。
大運河の街『アクア・フェリス』の中心部。
最も高い断崖に削り出されるようにして建立されたその建造物は、街のどこからでも見上げることができる白亜の威容を誇っていた。
聖水大神殿。
世界を護る属性結界の要石の一つ、「水の魔導水晶」が安置されている絶対の聖地である。
巨大な大理石の階段を上り詰めた先、一行の目の前に現れた神殿の入り口は、分厚い純白の門扉が常に大きく開け放たれていた。
神の慈悲は万人に平等であるという教義の通り、この神殿には身分や種族を問わず、誰もが自由に入り、祈りを捧げることが許されている。
実際、粗末な布を纏った巡礼者や、日々の安寧を祈る街の主婦たちが、絶え間なく大階段を行き交っていた。
しかし――その「開かれた神殿」という理念とは裏腹に、そこには異様なまでの緊張感が張り詰めていた。
「……すげぇな。祈りに来てる巡礼者の数より、兵士の数の方が多いんじゃねぇか?」
バハルが、周囲の空気に圧されるように声を潜めた。
彼の言う通り、大階段の両脇、巨大な円柱の影、そして神殿を囲む回廊の至る所に、騎士達がいる。
そして、その中でも数人しかいない白銀の軽鎧に身を包んだ騎士たちがいた。
彼らが纏うのは、通常の騎士団のものとは違う、純度の高いミスリルと聖銀で鍛えられた特別な武具だ。
盾には教会の威光を示す黄金の十字星が刻まれている。
教会直属の最高戦力――『教会神聖騎士団』である。
「当然です。彼らにとってここは、自らの命に代えても死守すべき『世界の要石』ですからね」
かつて、そのハイル・リッターの中隊長として伝説とまで謳われたライナスが、眼鏡の位置を直しながら静かな声で解説した。
「表向きは誰でも自由に入れるように見せていますが、石畳には、いざとなれば一瞬で敵の動きを縛り上げる拘束術式が幾重にも張り巡らされています……異常なまでの厳重警備ですよ」
ライナスの灰色の瞳が、かつての部下たちの配置を専門家の目で見抜く。
「万が一、賊がこの場所で暴れようものなら、彼らが剣を抜くよりも早く床面から神聖魔法があちらこちらから発動するでしょう。誰でも入れる場所だからこそ、内部の防衛力は完璧に統制されているのです」
「ひぇっ……なんか、怖くなってきたわ……」
アルベローゼが長い耳をペタンと伏せ、ディオンの腕にしっかりとしがみついた。
しかし、厳戒態勢の入り口を抜け、神殿の内部へと足を踏み入れた瞬間――一行の警戒心や緊張は、目の前に広がるあまりにも美しい光景によって、完全に吹き飛ばされることになった。
「……わぁ……っ」
エリカの口から、感嘆の吐息が零れ落ちた。
神殿の内部は、まるで巨大な水の底にいるかのような幻想的な空間だった。
遥か頭上、天を突くようなドーム状の天井には、白銀の硝子を幾何学模様に組み合わせた、巨大なステンドグラスが嵌め込まれていた。
外の陽光がそのステンドグラスを透過することで、神殿の内部には『水の中の木漏れ日』のような、青く澄み切った光の帯が無数に降り注いでいる。
そして、神殿の床。
白亜の大理石が敷き詰められた床の中央には、祭壇に向かって真っ直ぐに伸びる深い溝が掘られており、そこには清冽な湧き水が涼やかな音を立てて流れていた。
ドーム状の天井が、その静かな水音と、どこからともなく響く水の流れが織りなす聖歌の歌声を反響させ、神殿全体を一つの巨大な楽器のように共鳴させている。
空気がひんやりと冷たく、そしてどこまでも清浄だった。
「凄い……呼吸をするだけで、体の中の魔力流が澄んでいくのが分かるわ……」
エリカは目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。
彼女の脳髄の奥底にへばりついたドス黒い悪霊の気配すらも、この浄化の空間においては、怯えたように深く息を潜めていた。
「さあ、見えてきましたよ。あれが、この神殿の中心です」
ライナスの声に導かれ、一行は最奥の祭壇へと歩みを進めた。
荘厳な空間を潜り抜けてたどり着いた祭壇。
そこには、清らかな水が満々と湛えられた白亜の台座があり、その中央で『それ』は静かに宙に浮遊していた。
直径三ガルイ(メートル)はあろうかという、巨大な蒼い結晶体。
『水の魔導水晶』である。
水晶の表面には、人間の技術では到底刻むことのできない、神代の複雑な魔力術式が無数に脈打つように発光していた。
それはただの鉱物ではない……まるでそれ自体がゆっくりと呼吸をし、意思を持っているかのように、トクン、トクンと、静かで力強い魔力の鼓動を空間全体に放っているのだ。
水晶の周囲の空間は、濃密すぎる水属性の神聖魔力によって陽炎のように揺らめいており、空中に微小な水滴の結晶が生まれては消え、キラキラとダイヤモンドダストのように輝きを散らしていた。
「……信じられねぇ。俺はよくわからねぇけど……綺麗というか……すげぇというか」
バハルが、その圧倒的な存在感を前に、自分の存在をひどく小さく感じるように立ち尽くした。
「美しい……。僕の中の悪霊ですら、この光の前で消せるんじゃないかと思うよ」
ディオンもまた、魂を吸い込まれるように巨大な水晶を見上げている。
エリカは祭壇の前に進み出ると、自然と両膝をつき、目を閉じて深い祈りを捧げた。
降り注ぐ青い光が、彼女の銀がかった金髪を神秘的に照らし出す。
(ああ……どうか。この清らかな光が、いつか私の魂を、本当の意味で救ってくれますように。そして……私の大切な仲間たちを、守り抜けますように)
祈りを終え、そっと目を開けたエリカの隣には、同じように片膝をつき、静かに祈りを捧げるライナスの姿があった。
完璧な横顔にステンドグラスの青い光を受け、彼の灰色の瞳はどこまでも澄み切っている。
「ライナス……」
「エリカ。大丈夫ですよ……聖図書館は、もうすぐです」
ライナスはエリカの方へ顔を向け、慈愛に満ちた瞳で静かに微笑んだ。
神殿を包み込む水のせせらぎと水の聖歌の響き。
神の奇跡そのものである水の魔導水晶の圧倒的な光に包まれながら、一行はそれぞれの胸に、次なる試練の地――聖都ルーン・ヴィークへ向かう強固な決意を刻み込んでいた。
翌朝、一行は再び定期馬車の車列へと乗り込み、全ての謎が眠る世界の中心―― 聖都ルーン・ヴィークを目指して出発した。




