第38話 蒼水のアクア・フェリス
ゼイラルの月(七月)特有の、肌をじっとりと撫でるような熱気が荒野を覆っていた。
ズンプ・ブルクを抜け、大運河の街『アクア・フェリス』へと入る直前……一行が乗る戦闘用馬車は、道中で魔物に襲われ、立ち往生していた冒険者三名を救助したため、想定外の「相乗り」状態となっていた。
アルベローゼの機嫌は悪い。
馬車内はぎゅうぎゅう詰めであり、ディオンのすぐ隣には、偶然乗り合わせた見知らぬ女軽戦士が座っている。
艶やかな黒髪を持った、なかなかの美人だ。
しかもよりによって自分と同じエルフ種の女なのがますます気に入らない。
(こいつ……黒髪のくせに……)
向かいの席に座るアルベローゼは、膝の上に乗せた愛弓『黒魔樫の弓』を指先で軽く叩き、不敵な笑みを浮かべていた。
髪色に罪は無い……ただ、アルベローゼが気に入らないだけである。
しかし、アルベローゼの尖った耳はピクピクと不機嫌に動き、視線は正面のディオンの隣へ完全に釘付けになっていた。
女軽戦士は、夏の暑さゆえか極端に露出の多い軽装だ。
豊満な胸元が大きく開き、へそが丸出しになった短いスカートからは健康的な太ももが覗いている。
慎ましい黒鉄の胸当てと、スカートに光る飛竜の鱗だけが、彼女が身につけている唯一の硬質な防具であった。
彼女は馬車の揺れに任せて堂々と居眠りを始め、あろうことか、その憎たらしい顔をディオンの肩にすっかり預けてしまっていたのだ。
(……またかよ……ディオン。アンタ、女に対する隙が多すぎなのよ……!)
アルベローゼの心の中で、ギリギリと歯軋りの音が鳴る。
(何よそのスカート……短すぎる上に、オヘソ出ちゃってるじゃない!虫とかついたらどうするのよ。それに……お腹冷やすし!あんなペラペラの布、どう見ても防御力ゼロじゃないの!!)
ゼイラルの月ともなれば、暑さ対策と機動力を重視して軽装になる戦士が増えるのは理にかなっている。
しかしながら、今のアルベローゼにそんな正論は一切通用しない。
アルベローゼは面白くなさそうに「ふんっ」と鼻を鳴らし、窓の外へと視線を逸らした。
だが、当のディオンは腕に押し付けられる軽戦士の豊かな胸の感触にすら、完全に無頓着だった。
――もっとも、実際には黒鉄の胸当てがあるため、柔らかい胸の感触などディオンに届くはずもないのだが、嫉妬で目を曇らせたアルベローゼにはそうは見えないのだ。
当のディオン本人は、ただひたすらに窓の外を流れる森の木々を見つめていた。
(……ディオン……アンタねぇ……)
自分にだけ向けてほしいその端正な横顔が、無神経な女軽戦士の近くにあることがどうしても癪で、アルベローゼは無意識に頬をプクッと膨らませながら、ディオンに向けて鬼のような視線を送り続けた。
やがて馬車は、切り立った断崖絶壁に造られた、なだらかな螺旋状の道をゆっくりと下っていく。
そして、巨大なカルデラ状の盆地へと滑り込んだ。
目の前に広がったのは、無数の運河と水路が縦横に張り巡らされた水の都。
大運河の街『アクア・フェリス』である。
街のあちこちにある山肌の洞窟からは、透明な水が滝のように湧き出し、何層にも重なる空中水路や見事なはね橋を伝って街全体を潤している。
陽光を反射してキラキラと輝く水面と、白亜の石造りの家々のコントラストは、息を呑むほど美しかった。
水魔法の浄化が隅々まで行き渡ったこの街には、ヴィルヘルの気配すらなく、ひんやりとした清涼な風が旅の疲れを優しく癒してくれた。
街の活気に触れた一行は、さっそく中心街にある魔導媒体専門店へと足を運んだ。
聖都へ向かう前の最後の大きな街ということもあり、店内には聖都近郊でしかお目にかかれないような希少で強力な魔導具が所狭しと並んでいた。
中でも一行の目を引いたのは、ショーケースの中央に飾られていた『蒼流のローブ』である。
「これは……見事ですね。純度の高い水の魔導結晶を用いて、本物の『流水』を無理やりワンピースの形状に固定している……凄い技術です」
ライナスが、ショーケース越しに感嘆の息を漏らした。
水の流れるような美しい布地は、常に微かな冷気を放ち、着用者の魔力効率を劇的に跳ね上げるだけでなく、火炎魔法防御において鉄壁の防御力を誇るという。
露出については透け感が気になるものの、上品で清楚なデザインは、まさにエリカにうってつけの一品だった。
「これだ……。エリカ、これを買いましょう」
ライナスは真剣な眼差しでエリカを振り返った。
先日の戦闘で月光石が砕け散り、ただの布となってしまった彼女の防具を、彼は痛ましく思っていたのだ。
「えっ?でもライナス、値札を見て。……二ヴェル(魔導金貨二枚)……金貨なら二百枚よ?今の私たちの手持ちじゃ、とても買えないわ」
エリカが慌てて首を振る。
「問題ありません。ギルドで金策をしましょう」
ライナスは眼鏡の位置をクイッと直し、至極真面目な顔でとんでもない提案を口にした。
「ギルドへ行き、数日間依頼を受け続けませんか?私達ならば数日で金貨を揃えられます。貴女の安全には代えられない」
「だーめっ!却下!!」
エリカは真っ赤になってライナスの腕を掴み、力いっぱいに引っ張った。
「私たちの目的は、早く聖都の聖図書館に行くことでしょう!?寄り道して無茶をするなんて絶対に許さないから!」
「……ですが、貴女の防御力がゼロに等しいままでは……」
「いいから!ライナスが守ってくれるって言ったじゃない!」
その言葉に、ライナスはハッとして口を噤んだ。
「……ええ。そうでしたね」
どこか嬉しそうな、それでいて透け感が強い『蒼流のローブ』を着せたかったという悔しさが入り混じった顔で、完璧な司祭様は大きな肩をシュンと落としたのだった。
(バカ……こんな水で透けてるローブ着られるわけないじゃない……)
エリカは呆れながらもそっと頬を赤らめた。
その日の夜。
運河の街の灯りが水面に美しく揺れる中、一行は水辺にせり出した酒場のテラス席で夕食を囲んでいた。
香草を効かせた白身魚のアクア・パルザの芳醇な香りと、氷でキンキンに冷やされた白ワインやエールが、火照った体を内側から涼やかにしてくれる。
活気に満ちた吟遊詩人のリィート(弦楽器)の音色が、夜風に乗って心地よく響いていた。
『その名は〜♪エリカ・ヴァイン〜いかなるヴィルヘルをも屠る〜漆黒の女神〜♪』
しかし、そんな素晴らしい雰囲気の中にあっても、昼間の光景が頭を離れないアルベローゼだけは不機嫌だった。
席に着く際、ごく自然に隣に座ろうとしたディオンに対し、彼女は「ちょっと、狭いんだけど。あっち座ってよ」と肘で軽く押しやり、わざと素っ気ない態度を取ったのだ。
「……?どうしたんだよアルベローゼ。この魚、口に合わなかったか?機嫌悪いのか?」
不思議そうに首を傾げる鈍感なディオンに、アルベローゼはワイングラスをドンと置いて睨みつけた。
「別に!昼間、可愛い『誰かさん』に肩を貸しすぎて、お疲れなんじゃないかと思っただけよ。ゆっくり座ればいいじゃない!」
皮肉たっぷりに言い返した彼女の尖った耳が、ぷるぷると震えている。
ディオンとアルベローゼの他愛のない小競り合いを苦笑いで見ていたライナスだったが、やがてスッと表情を引き締め、真剣な面持ちで口を開いた。
「……さて。少し真面目な話をしましょうか。我々の旅も、いよいよ大詰めです。もう少しでこの国の中心、聖都エルディア・ルーンだ。ここから聖都までは、およそ百七十ライン(百七十キロ)といったところです。聖都に着いてからの段取りを改めて説明しておきます」
ライナスは手にしたワインの杯を静かに置き、周囲の喧騒に紛れさせるように声のトーンを落とした。
その言葉に、それまで串焼き肉を上品に齧っていたエリカが、不思議そうにコテッと首を傾げた。
「え?ちょっと待って、ライナス。街の西門をくぐる時、入り口の石碑に『聖都まで二百ライン』って彫ってあったわよ?貴方、距離を間違えていない?」
「ああ、言われてみりゃあそうだな」
エールの特大ジョッキを空にしたバハルが、丸太のような太い腕を組んで割り込んでくる。
「おいおい、そもそも俺たちが冒険を始めたアイナル村を出る時、『聖都までは三百ライン』って聞いてなかったか?俺はいちいち細かい数字は数えちゃいねぇけどよ……あれから死ぬほど馬車に揺られて、ヴィルヘルと何度も殺し合いをしてきたんだ。流石にもっと前に進んでると思ったぜ。なんで百ラインちょっとしか減ってねぇんだよ」
不満げに鼻を鳴らすバハルと、怪訝な顔をするエリカ。
二人の反応を見たライナスは、どこか可笑しそうに唇の端を吊り上げた。
「まぁ、国が定めた距離の表記には、往々にして『誤差』がありますからね。お二人は、あの街道の距離がどうやって算出されているか分かりますか?」
「どうやってって……測量士が歩いて測ってるんじゃないの?」
エリカの問いに、ライナスは静かに首を横に振った。
「神聖魔法の一つですよ。測量局の役人が、人や馬の足に特殊な魔法をかけて走らせ、出発地と到着地での『魔力残量』の減り具合から距離を計算しているんです」
その言葉を聞いた瞬間、エリカは信じられないものを見るような目でポカンと口を開けた。
「……呆れた。本気で言ってるの? 道はちゃんと決めているのよね?もし途中でヴィルヘルに襲われた時はどうするの?街から街へ移動して、一度も魔物に襲われないなんて辺境じゃありえないわ。それに、険しい山道や迂回路を通った場合の魔力消費量はどうやって補正しているのよ」
元・王立魔導師団特務中隊長としての、厳密な軍事ロジックが彼女の口を突いて出る。
「だいたい、体内の魔力残量を正確に測るためには、『計測水晶』を持ち運ぶ必要があるはずよ。あんな巨大な岩みたいな代物、フル装備のバハルくらいの重さじゃない!馬に背負わせて走らせるなんて非効率すぎるわ!」
「私も国道管理局の人間ではないので、そのあたりの詳しい事情までは……」
ライナスは困ったように肩をすくめ、とどめとばかりに言い放った。
「ただ、伝え聞くところによりますと、測るたびに距離は変わるそうですよ。どうやら通る道など指定はしていないようですし、魔力残量の減り具合も、計測水晶などは使わず、役人の『なんとなく、これくらい減った気がする』という感覚で測っているそうです」
「…………呆れた」
エリカは頭痛を堪えるように、こめかみを指で押さえた。
「ペガサスやドラッヘ(ワイヴァーン)を使えば、空から正確な地形と直線距離が測れて何とかなりそうなものだけど……」
この世界には数百種のドラッヘが存在すると言われているが、その八割は凶暴なヴィルヘルであり、人に慣れ、騎乗用として使役できる動物に分類されるのはわずか二割に過ぎない。
「でも、ペガサスに騎乗できるのは『赤(王立魔導師団治安維持大隊)』の特権だけだし、ドラッヘを扱えるのも『漆黒(特務部隊)』とか、限られた航空戦力だけ……。つまり、軍のトップエリートにしか空を飛ぶ権限は認められていないものね。ましてや、そのエリート部隊が、国道管理局の地形計測ごときのために貴重な航空戦力を貸し出すわけがないわ」
「おいおい、勘弁してくれよ……。ってことは、その『なんとなく』のせいで、実際の距離は二百ラインよりずっと遠いかもしれないってことか? まだまだ旅は長いのかよ……がっかりだぜ……」
バハルが巨体をテーブルに突っ伏し、深い溜息を吐く。
その様子がおかしくて、エリカとライナスはふと視線を交わし合い、同時に「クックッ」と肩を揺らして笑い合った。
軍の上層部の事情を知り尽くした、元エリート軍属の二人だけにしか分からない心地よい共犯関係。
その自然な笑い合いに、アルベローゼがまた少しだけ面白くなさそうに唇を尖らせる。
「大丈夫よ、バハル。『聖都まで間もなく』っていう感覚自体は、決して間違いじゃないわ」
エリカは笑いを収めると、ワイングラスを傾けながら優しく説明を始めた。
「このアクア・フェリスは、『水の魔導水晶』が鎮座する別名『神の魔導水晶の街』。ここまで来れば、ここから先の聖都までの警備網は、今まで私たちが旅してきた荒野とは完全に『別物』になるの」
エリカの言葉に、前衛組の三人が身を乗り出す。
「国軍と騎士団の厳重な防衛ラインの内側に入るから、そこまでの自衛武装を必要としない平和な小さな集落が、街道沿いにいくつもあるわ。農業も盛んだから、どこの宿に泊まっても食事は美味しいわよ。街から街へ移動するのに、ヴィルヘルに遭遇しないのが『当たり前』になるの……まあ、出なくはないけどね」
エリカは安心させるように微笑んだ。
「ええ。すごく弱いのが……それこそ、町の主婦がフライパン一つで撃退できるようなのがいますね」
「やだ、ライナスったら」
真面目な顔で冗談を言うライナスに、エリカは弾んだ声でクスクスと笑い声を上げる。
――実際のところ、いくら弱いヴィルヘルとはいえ、当然ながらどんな主婦でも撃退できるわけではない。
フライパンで魔物を撃退するその主婦は、それなりの実力を持った猛者なのだ。
巨体を震わせながら両手に持ったフライパンでヴィルヘルを嵐のようにタコ殴りにするという、実在する豪快かつコミカルな名物主婦の武勇伝を、ライナスは少し大げさに語っていただけである。
「未舗装の悪路を警戒しながら進む必要はないわ。綺麗に舗装された安全な街道を、魔法補助馬の馬車で時速八十ライン(キロ)の最高速度を出したまま、一切立ち止まることなく走り続けられる。だから、距離の数字がどうであれ、時間的にも精神的にも『聖都まではもうすぐ』と言えるのよ」
「あ!分かった、私、聞いたことあるよ!」
エリカの解説を聞いていたアルベローゼが、ピンときたように長い耳をピクッと立て、得意げに鼻を鳴らした。
「聖都から、私たちの出発地点だったアイナル村を抜けていく街道は『水闇の街道』って呼ばれてるのよね?ってことは、アイナル村よりずっと先の辺境に、『闇の魔導水晶』がある街が存在するってことなんでしょ?」
「その通りです、アルベローゼ。よく知っていましたね」
ライナスが穏やかに頷き、教師のように補足する。
「聖都ルーン・ヴィークを中心として、東西南北の近郊に、この街のような『神の魔導水晶を戴く街』が放射状に配置されているんです。ここが水なら、他には火、風、光の魔導水晶を戴く街が存在し、それらが強固な魔法結界の要石となって聖都を護っているわけです」
「なるほど。属性のクリスタルが聖都を守ってるってわけだね」
ディオンが感心したように頷き、ふと思いついたように口を開いた。
「兄さん、それじゃあ、他の街道には『火雷の街道』とかもあるのかい?」
その素っ頓狂なネーミングセンスに、エリカとライナスは顔を見合わせ、思わず声を上げてクスクスと笑い合ってしまった。
元特務中隊長と教会神聖騎士団中隊長が、揃って自分の発言に吹き出したことに、ディオンは「えっ、何?僕、なんか変なこと言ったか?」と少し顔を赤くして狼狽える。
「惜しいわね、ディオン。『火雷』じゃなくて、『火土の街道』よ」
エリカが笑い涙を指で拭いながら、優しく訂正する。
「水闇街道、火土街道、雷光街道に、氷風街道ですよ。村の学校でも習いませんでしたか、ディオン?」
ライナスが眼鏡を押さえた。
「あれ? 私も知らないわ」とアルベローゼが首をかしげると、バハルがすかさず「ディオンと、アルベローゼが知らないのに俺が知るわけねぇだろ」と豪快に笑い飛ばした。
満天の星空の下、街の喧騒を遠くに聞きながら、一行の笑い声が心地よく夜風に溶けていく。
過酷な戦いを乗り越えてきた彼らの間に流れる空気は、これまでになく温かく、確かな絆と安堵に満ちていた。




