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第37話 絡み合う清流

「私たちは、強いわよ」

 エリカは真っ直ぐにライナスを見返し、誇り高き元中隊長としての、揺るぎない自信に満ちた笑みを浮かべた。

「あれが出たら、間違いなく『漆黒』が出撃するわ。でもね……元特務の私に加えて、教会神聖騎士団(ハイル・リッター)において伝説とまで謳われた中隊長の貴方がいる。それだけじゃないわ」

 エリカの脳裏に、頼もしく、愛すべき仲間たちの姿が次々と浮かぶ。

「バハルとディオンの技量だって、聖国の正規騎士団と比べても群を抜いているわ。ディオンの純魔力を纏った魔導剣の斬撃なんて、まともに防げる者なんてこの世界に居ないんじゃない?バハルの盾を抜けるような聖国騎士を、少なくとも私は知らない。それに、アルベローゼだってあんなに可愛い顔をしているけれど、ひとたび弓を構えれば魔導兵器みたいな凶悪な火力を叩き出すのよ、あの子は」


 エリカの熱を帯びた言葉を、ライナスは眩しそうに、そしてひどく愛おしそうに見つめていた。

「ええ、分かっていますよ。我々の仲間は最高だ」

 ライナスは空になったスプーンを器に戻すと、声のトーンを一段階、低く落とした。

「だからこそ……特務部隊の歴史上においても最強と謳われた貴女を、彼らに連れて行かせるわけにはいきませんね」

 不意に、ライナスの大きな手が、極めて自然な動作でエリカの頬に触れた。


 その手は小刻みに震えている――触れたくて触れたくて……それでも愛おしすぎるが故に触れることができなかった女性に触れた後悔……。


 エリカに拒否されない――ライナスの心の制動が薄くぼやけて消えてゆく。

 長い指先が、彼女の銀がかった金髪をそっと耳にかける。

 トクン、と。

 エリカの心臓が痛いほど跳ね、呼吸が浅くなる。


 二人の視線が、ふと空中で絡み合った。

 雨音だけが響く静寂の中、互いの呼吸の音がひどく大きく聞こえた。

 二人とも、己の立場と、過去の凄惨な犠牲に対する罪悪感から己を厳しく律し、相手への強烈な好意を必死に理性で押さえ込んできたはずだった。


 だが、肌の熱が直接伝わるこの距離感。

 互いの吐息が混ざり合うほどの至近距離で、魂の奥底で求め合う感情が震えぬわけがなかった。

 二人の理性の鎖が、音を立てて軋み、外れていく――自然と吸い寄せられるように。


 ライナスの端正な顔がゆっくりと傾き、エリカもまた、抗うことのできない強力な引力に身を委ねるように、潤んだ瞳を少し閉じてわずかに顎を上げた。 

 ライナスの美しい銀髪が、エリカの肩に優しく掛かる。

 ランプの灯りが二人の影を一つに重ねる。


 あと数セル(数ミリ)で、互いの唇が触れ合う――。

 お互いの視界を埋めるのは、相手の潤んだ瞳だけであった。


「おい!!ライナス!エリカ!待たせたな!酒と肉だ!!」

 バンッ!! と、部屋の木扉が勢いよく蹴り開けられた。

 バハルの鼓膜を震わせるような大音声と共に、廊下の眩しい光が一気に部屋へと流れ込む。

「俺たちもあんまり食ってないから、ここで一緒に楽しもうぜ!」


「ジャーン!エールもドワーフ・ワインも、酒場からたっぷり持ってきたよ!」

 アルベローゼが両手に抱えた酒瓶を掲げて満面の笑みで乱入し、その後ろからはディオンが「まったく、バハルが暴れるから……」と苦笑しながら、山盛りのパニールとチーズを抱えて入ってきた。


「っ……!!」

「あ……っ!」

 三人が部屋に入ってきた時には、ライナスはすでに椅子から立ち上がり、エリカも不自然なほど背筋を伸ばして、窓の外の雨景色を眺めていた。


 二人の唇は、すでに十分すぎるほどの距離に離れていた。

 一度も、触れることのないままに。


「……ん?どうしたんだ二人とも。顔が赤いぞ?もう飲んでたのか?」

 バハルが不思議そうに首を傾げる。


「飲むわけないでしょ!部屋が、少し暑かっただけよ!」

 エリカが慌てて両手でパタパタと顔を扇ぐと、


 ライナスも咳払いを一つして、いつもの完璧で隙のない、穏やかな微笑みの仮面を顔に貼り付けた。

「ええ……本当に。良いタイミングで来てくれましたね、バハル」

 ライナスの声には、ほんの微かに、誰にも気づかれないほどの深い後悔と安堵の吐息が混じっていた。


 翌朝。

 身バレの危機を無事にやり過ごした一行は、ズンプ・ブルクの西門を抜け、次なる目的地である『アクア・フェリス』へと戦闘用馬車を走らせていた。

 ここから運河の街までは、なだらかな丘陵地帯と、深い森を縫うように続く街道を越えなければならない。


 馬車の中でも、ライナスのエリカに対する過保護は継続していた。

 昨日までの降雨で土砂崩れがあった事から、「普段は使わない旧道を通る」と御者から言われたが、ライナスは興味がなかった。


 普段使われない旧道で馬車が大きく揺れるたび、ライナスはスッと腕を伸ばし、エリカの肩が壁にぶつからないように庇うのだ。

「危ない。今のは揺れましたね……。舌を噛まないように気をつけてくださいね」


「う、うん……ありがとう……」

 その度に肩を引き寄せられ、エリカの心臓は限界を迎えつつあった。

(どうしよう、ずっとキュンキュンしっぱなしで、心臓がもたない……。私、ライナスがやっぱり好きなんだ……どうしよう……)


 頬を赤くして俯くエリカを見て、向かいの席に座るアルベローゼがジト目でディオンをつついた。

「ちょっとディオン。ライナス、過保護すぎない?エリカの顔、真っ赤なんだけど」


「……そっとしておけ。あれは兄さんなりの……あの戦闘での後悔と責任の取り方なんだ。兄さんは『月光石』を買った事も、砕けた事も自分のせいだと思ってるのさ……」

 ディオンは苦笑しながら肩をすくめた。

 「今は二人だけにしといてやれよ」とバハル。


 やがて、窓から差し込んでいた陽光が、急激に翳り始めた。

「……おかしいな。さっきまで晴れていたのに」

 ディオンが窓の外を見上げる。


 鬱蒼と茂る広葉樹の森。

 その上空にだけ、不自然なほど真っ黒な雷雲がとぐろを巻き、ゴロゴロと不吉な低音を響かせていた。

「あれは……みんな!あの雲は自然じゃない!戦闘態勢!!」

 エリカの叫びに合わせたかのように風が凪ぎ、森が異様な静けさに包まれた――その直後。


 ズドォォォォンッ!!

 街道のすぐ脇、小高い丘だと思っていた『森の一部』が、突如として地響きと共に立ち上がった。


「なっ……丘が動いた!?」

 バハルが驚愕の声を上げる。

 立ち上がったのは、背中に苔や小木をびっしりと生やした、身の丈十ガルイ(メートル)はあろうかという超巨大な巨人だった。


 森と一体化し、縄張りを侵す者を容赦なく踏み潰す自然の驚異――『ヴァルド・リーゼ(森喰巨人)』だ。


「ブォォォォォォォッ!!」

 ヴァルド・リーゼは太い腕を伸ばすと、樹齢百年を超えそうな大木を根こそぎ引き抜き、それを巨大な棍棒として馬車へ向けて振り下ろしてきた。


「散開しろ!!」

 バハルの叫びと共に、馬車の扉が蹴り開けられる。

 バハルとディオン、そしてアルベローゼが瞬時に前線へと飛び出した。

 だが、絶望はそれだけではなかった。


 バリバリバリィッ!!

 頭上の雷雲から、耳をつんざくような落雷が森を打つ。

 青白い閃光の中に浮かび上がったのは、巨大な雷の角を生やし、鉄鉱石の塊のような棍棒を担いだもう一体の巨人。

 雷雲を呼び寄せる災厄――『ドンナー・リーゼ(雷槌巨人)』である。


 この森は、二体の強大な巨人の縄張りの境界線だったのだ。

「挟み撃ちかよ!冗談じゃねぇぜ!」

 バハルが咆哮を上げ、ヴァルド・リーゼの振り回す大木を黒鋼の大盾で受け止める。


 ドゴォォォンッ!と凄まじい衝撃音が響き、バハルの巨体が土砂を弾き飛ばしながら数ガルイ後ずさった。

「ディオン!俺がこっちの森喰いを押さえる!お前とアルベローゼで援護しろ!」


「分かった!」

 前衛の三人がヴァルド・リーゼと死闘を繰り広げる中、後方に残されたエリカとライナスに、ドンナー・リーゼの凶悪な視線が向いた。


 魔法が使えない今のエリカは、ただの無力な少女に過ぎない。

「ギィルルルルッ!!」

 ドンナー・リーゼが鉄鉱石の棍棒を天に掲げる。

 その瞬間、巨人の魔角が雷雲と共鳴し、極大の雷撃がエリカの頭上へと一直線に降り注いだ。


「しまっ……!」

 エリカが絶望に目を閉じた瞬間。

 強い力で腕を引かれ、彼女の体はドンッ、とライナスの固い胸板の中にすっぽりと収まっていた。


「――《ルーメン・ストラール・リンゼル(環状聖光)》!!」

 ライナスの凛とした詠唱が響き渡る。

 彼が掲げた『水の短聖杖』から展開された幾重もの神聖な光の盾が、ドーム状になって二人を完全に覆い隠した。


 直後、凄まじい雷鳴と共に、世界が白一色に染まる。

 ズガァ!バリバリバリバリィィィッ!!!

 光のドームの外側で、荒れ狂う雷撃が木々を消し炭に変え、大地を爆砕していく。

 轟音と熱風の嵐の中、光の盾の内側だけが、絶対的な安全地帯として保たれていた。


 そしてエリカは、自分に覆い被さるようにして守ってくれているライナスの腕の中に閉じ込められていた。

「ライ、ナス……っ」


「怪我はありませんか、エリカ」

 すぐ耳元で、彼の低く落ち着いた声が響く。

 彼が纏う『聖星のローブ』の微かな魔法糸の冷たさと、その下から伝わってくる、力強い男の体温。

 そして、彼の心臓が刻むトクン、トクンという確かな鼓動が、エリカの全身に直接伝わってくる。


(あぁっ……ちか、近い、近すぎる……っ!)

 自分が『守られている』という事実が、こんなにも甘く、胸を締め付けるなんて。

 悪霊の恐怖など、彼の腕の中にいる限り、微塵も入り込む隙はなかった。


「エリカ。ここから離れないでください。私が、あの巨人を討ちます……いいですか?魔法は禁止です」


 雷撃の嵐が収まった瞬間、ライナスはエリカの肩を優しく離し、前へと歩み出た。

 彼の美しい銀の長髪が、焦げ臭い風に舞う。


 その背中は、かつて彼女の両親と彼女自身を守るために命を散らした、父ガリアスの背中にも似た、絶対的な守護者の威容を放っていた。


「主よ、我が身に宿る聖なる炎を、今ここに解放したまえ……!」

 ライナスの周囲に、白銀の魔力が渦を巻いて立ち昇る。

 それは、回復と防御を本職とする彼が、己の魔力経絡を酷使させて放つ、破格の神聖攻撃魔法だった。


「――《アニーマー・ストラール・ドゥルヒ(魂干渉貫通聖光閃)》!!」

 杖の先端に埋め込まれた水色の魔力結晶から、純白の極光が放たれた。


 それはただの光ではない。

 物質的な防御をすり抜け、ヴィルヘルの根源たる『魔』そのものを貫き、浄化する裁きの光。


 ズガァァァァァッ!!!


「ギャアァァァァァッ!?」

 極太の光の奔流が、ドンナー・リーゼの巨体を真正面から貫いた。


 強固な岩のような皮膚も、帯電する雷の魔力も、白銀の光の前では無意味だった……不浄な肉体ごと魂そのものを貫通する聖なる光……。

 巨人の胸に巨大な風穴が開き、断末魔の咆哮と共に、その巨体が音を立てて崩れ落ちていく。

 魂そのものを貫通したのだ。


「よっしゃあ!こっちも決めるぞ、ディオン!」

「ああ!」

 ライナスの一撃を合図に、バハルも動く。

 バハルが黒鋼の盾による強烈なシールドバッシュでヴァルド・リーゼの体勢を崩し、その隙を突いてディオンが跳躍した。


 純魔力を纏った魔剣ヘルグリムの銀閃が、巨人の太い首を円を描くように滑らかに切断する。


 ズドォォォォン……。

 二体の巨大な厄災が、ほぼ同時に森の大地へと沈んだ。


「……終わったか」

 ディオンが剣の血糊を払い、息を吐く。

 激戦の余韻が残る森の中で、ライナスはゆっくりと振り返り、エリカの元へと歩み寄った。


「エリカ……大丈夫でしたか?」

 ライナスが、エリカの銀がかった金髪に付いた森の土を、そっと長い指先で払い落とす。


「ううん……当然よ……。ライナスが、私を守ってくれたから」

 エリカは、上目遣いで彼を見上げた。


 その笑顔は、かつて王立魔導学園で『天才』と呼ばれた孤独な才女のものではない。

 ただ一人の男性に守られ、心を許した、年相応の可憐な乙女の顔だった。


 その眩しすぎる笑顔に、今度はライナスの方が小さく息を呑み、誤魔化すように口元を覆って視線を逸らした。

(……反則です、エリカ。そんな顔を見せられたら、私の自制心が保たない……ずっと見ていたい……)


(特務が追ってたのはこっちかもね)

 エリカはふと、自分の古巣――――『漆黒』がターゲットを見て慌てふためく様を想像してクスリと笑う。

 ライナスは、そのエリカの笑顔をただ優しく見つめていた。


 深い森を抜け、馬車は急な坂道を下っていく。

 やがて視界が一気に開け、一行の目に飛び込んできたのは、息を呑むほど美しい光景だった。


「わあ……!見て、ディオン!すっごい綺麗!」

 アルベローゼが馬車の窓から身を乗り出して歓声を上げる。


 切り立った断崖絶壁の下、巨大なカルデラ状の盆地に広がるのは、無数の運河と水路が縦横に張り巡らされた水の都。

 大運河の街――『アクア・フェリス』である。


 街のあちこちにある山肌の洞窟からは、透明な水が滝のように湧き出し、それが何層にも重なる空中水路や見事なはね橋を伝って街全体を潤している。

 陽光を反射してキラキラと輝く水面……白亜の石造りの家々。

 街全体が、巨大な水の魔導水晶によって聖魔法の浄化を受けているため、この美しい街の周囲にはヴィルヘルが近づくことすらできない、まさに『聖地』だった。


「着いたわね……アクア・フェリス」

 エリカは窓から水都の絶景を見下ろしながら、隣に座るライナスの横顔をこっそりと盗み見た。

 水都は見えるが、これからなだらかな螺旋の道を回って街まで降りなければならない。

 その道すら荘厳だった。

 彼の手は、エリカの安全を確かめるように、今もそっと彼女のシートの背もたれに添えられている。


(この街で、少しでも彼と……普通の女の子みたいに歩けたらいいな)

 王都ルーン・ヴィークの聖図書館まで、残る道のりはあと僅か。

 胸の奥で暴れる悪霊の影よりも今は、隣の不器用で過保護な彼への甘い感情が、エリカの心を優しく、そして切なく満たし続けていた。

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