第36話 焦熱の毒
紫がかった濃密な魔毒霧が、分厚い壁のように街を囲い込んでいる。
魔毒沼に面した要塞都市『ズンプ・ブルク』。
自然発生する毒霧は人に無害でありながらも、ヴィルヘルに対しては強烈な致死性をもたらす。
さらに毒沼を天然の防壁として利用した難攻不落の城塞都市である。
巨大な石造りの閘門と堅牢な石橋が唯一の出入り口となっており、「沼を越えられるのは、この街が許した者だけ」と謳われるほど、その警備は厳重を極めていた。
冒険者用の検問を抜け、一行はようやく街の中へと足を踏み入れた。
少し体力を取り戻したエリカとライナスも、自分の足で歩み始める。
だが、安堵の息を吐く間もなく、エリカは目深に被ったフードの奥で、血の気が引くのを感じていた。
ズンプ・ブルクは、街道や近隣の街を守護する騎士団や魔導師団が多く駐屯する最前線の軍事拠点だ。
すれ違う者の半数以上が、重武装の軍人か騎士。
冒険者の姿はまばらで、武具屋に並ぶ品も軍の横流しのような粗悪品ばかりが目につく。
そして何よりエリカを戦慄させたのは、街の至る所で我が物顔に闊歩するのは『赤』だけではない…………数人の漆黒の軍服を着た者たちだった。
(漆黒……王立魔導師団、特務部隊……!)
女王直轄の精鋭……かつて、若きエリカが中隊長として指揮を執っていた部隊の隊員たちである。
もしここで顔を見られれば、「ヴァイン中尉!戻ってきてください」と囲まれ、説得され、聖都へ連れ去られるのは免れない。
軍の強引さは痛いほど理解していた。
「エリカ。大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
横を歩くライナスが、心配そうにエリカの肩を抱き寄せた。
「……うん。でも、あの『漆黒』の制服の人たちには、絶対に見つかるわけにはいかないの。昔の……部下たちだから」
エリカが小声で告げると、ライナスは鋭い視線で周囲を警戒し、自らのマントで彼女を隠すように歩く位置を変えた。
「なるほど。そういうことなら、夕食は外の酒場ではなく、宿の部屋で取りましょう。彼らと接触するリスクは極力避けるべきです」
ライナスの的確な判断により、一行は裏通りにある目立たない石造りの宿屋を確保した。
その夜。
薄暗い石造りの宿屋の一室。
卓上に置かれた魔導ランプのオレンジ色の灯りが、雨に濡れた窓硝子をぼんやりと照らし、石壁に揺れる影を落としていた。
簡素な木製の椅子に腰掛けたエリカは、膝の上で両手を固く組んだまま、じっと俯いていた。
窓の外からは、絶え間なく窓を打つ冷たい雨音に混じって、酒場にたむろする血気盛んな騎士団や魔導師団の喧騒、そして足踏みと共に歌われる野太い軍歌が微かに響いてくる。
要塞都市特有の、むせ返るような荒々しい熱気。
かつて『月光石のローブ』を纏っていた時ならば気にも留めなかったであろうその荒々しい気配すらも、精神的な防壁を失った今のエリカにとっては、脳髄の奥底にへばりつく『悪霊』の不安を煽る要因になっていた。
コンコン、と雨音を遮るように、ひどく控えめのノックの音が鳴った。
「エリカ。私です。入っても?」
「……ええ、どうぞ」
静かに古い木扉が開き、ライナスが木製のトレイを持って部屋に入ってきた。
トレイの上には、湯気を立てる温かいスープと硬焼きのパンが乗せられている。
ズンプ・ブルク名物である、魔毒沼で育つ特有の香草と塩漬け肉をじっくりと煮込んだものだ。
本来は微量の毒素を含む植物だが、加熱することで毒が完全に消え、逆に乱れた体内の魔力流を整えることで知られている。
「夕食を持ってきましたよ。バハルたちは一階の食堂で食べていますが、貴女はここでゆっくりと食べてください。外では食べられないのでしょう?」
「……ありがとう、ライナス。わざわざ運んでもらって」
エリカが立ち上がり、トレイを受け取ろうと両手を伸ばした瞬間だった。
彼女の白い指先が、小刻みに、しかしはっきりと震えているのをライナスの蒼く鋭い瞳は見逃さなかった。
昼間の凄まじい魔法……月光石が砕け散り、強大な魔力を再び己の奥底へ封じ込めなければならなかった絶望。
そして何より、いつあのドス黒い悪霊が理性を食い破って暴走するか分からないという恐怖が、彼女の華奢な体を芯から強張らせているのだ。
「……無理をしてはいけません」
ライナスは痛ましげに目を細めると、手にしたトレイをサイドテーブルにそっと置いた。
そして、エリカの座る椅子の脇に静かに片膝をつき、宙を彷徨っていたエリカの震える両手を、自らの大きくて温かい手でそっと包み込んだ。
「えっ……」
エリカの心臓が、ドクンッと大きく跳ねた。
見下ろすライナスの眼鏡の奥には、深い慈愛の眼差しが揺れている。
剣ダコや魔法の触媒痕が残る、少し節だった男らしい彼の手が、エリカの氷のように冷え切った指先を優しく、丁寧に解きほぐしていく。
「魔法は、もう絶対に使わないでください。……聖図書館までは、もうすぐだ。貴女の身に何かあれば、私は私を許せない。月光石がなくても、貴女の心は、貴女の命は……私が、必ず守り抜きます」
ライナスの澄んだ蒼の瞳が、真っ直ぐにエリカを見上げていた。
真摯で、痛切で……過保護なまでの誓い。
その甘く熱を帯びた眼差しに射抜かれ、エリカの顔は瞬く間に熟れた林檎のように赤く染まった。
(あ、ああ……どうしよう、胸が苦しい……っ。悪霊のせいじゃない、これは……!)
昨夜、海沿いのテラスで彼に袖を掴むことすら拒絶され、自分はただの庇護対象でしかないのだと絶望したばかりだった。
それなのに、こうして熱のある手で触れられ、魂まで響くような声で「守り抜く」と言い切られると、どうしても淡い期待をしてしまう。
呪われたバケモノとしてではなく、一人の女性としての、抑えきれない感情が胸の奥から溢れ出そうになっていた。
「さあ、冷めないうちに。私が冷ましますから、少しずつ飲んでください」
静かな雨音だけが響く部屋に、ライナスの穏やかで、ひどく甘い声が落ちる。
彼は片膝をついたままの姿勢で、木のスプーンで湯気を立てる香草のスープを掬うと、ふうふうと慎重に息を吹きかけ、あろうことかエリカの口元へと真っ直ぐに差し出してきたのだ。
「えっ!?ちょ、ちょっと待って、ライナス!病人じゃないのよ、さすがに自分で……!」
エリカは顔を真っ赤にして身をよじり、慌ててスプーンを奪い取ろうと手を伸ばした。
だが、その細い手首を、ライナスの空いた手が優しく、しかし有無を言わさぬ力で制止する。
「駄目です。まだ指先が震えているじゃありませんか。こぼして火傷でもしたら大変だ」
ライナスの瞳は、冗談を言っているようには見えなかった……真剣そのものだ。
魔法を行使したことによる極度の魔力枯渇と、悪霊の暴走による精神的疲労。
彼にそれを指摘されれば、未だに自分の指先が微かに痙攣している事実をごまかすことはできなかった。
それにしても、だ。
まるで熱を出した幼い子供を看病するような、あるいは絶対に傷つけてはならないような姫か王子でも扱うような、絶対的で過剰な過保護ぶり。
神聖魔法の天才であり、普段は隙のない完璧な司祭として振る舞う三十歳の男が、たかがスープを飲ませるためだけに、なりふり構わず自分の世話を焼こうと必死になっている。
(……もう、この人は……っ!)
エリカは顔から火が出そうになるのを必死に堪えながら、恥ずかしさのあまり潤んだ瞳をギュッと閉じ、不器用に彼が差し出したスプーンを咥えた。
丁寧に煮込まれた香草と塩漬け肉の深い旨味が、冷え切った胃にじわりと染み渡り、強張っていた魔力流がふわりと解けていくのを感じる。
だが、エリカの脳内はその温かさよりも、視界のすぐ前にあるライナスの端正な顔の近さと、彼の身体から微かに香る清浄な石鹸の匂いで、鼓動の速度が限界を迎えていた。
(鼓動速度強制加速魔法……?ルーンが分からないわ)
エリカの思考は混乱し始める。
数口ほどスープを飲み、エリカの顔色がピンク色に染まっているのを確認すると、ライナスは満足げに頷いた。
そして、ふと視線を窓の外――冷たい雨が降るズンプ・ブルクの暗い街並みへと向けた。
その瞬間、彼の眼差しから先ほどまでの甘さがスッと消え去り、熟練の冒険者の顔を見せる。
「ところで……昼間、街で見かけた『漆黒』……。魔導師団特務部隊が、なぜこのような要塞都市に駐屯しているのでしょう?」
ライナスが静かな声で疑問をぶつけた。
『漆黒』――それは魔法聖国エルディア・ルーンの強大な軍事力において、最強と謳われる特務部隊。
そしてエリカは、その最強の集団の中でもさらに頂点に君臨していた『特務中隊長』その人なのだ。
魔導師団において、大隊長という役職は家柄や政治力を持つエリート官僚の座に過ぎない。
しかし、最前線で部隊を指揮する中隊長は違う。
そこは純然たる「魔導師としての圧倒的な実力」だけで登り詰める、実力主義の極致である。
故に、世界最強の魔導国家において「個としての最強」を意味するのは、この魔導師団特務中隊長という階級に他ならなかった。
エリカは先ほどまでの甘い時間を飲み込み、表情を引き締めて答えた。
「特務は、地方の騎士団や通常の魔導師団では対応できない、災害規模のヴィルヘル事案が発生した時にだけ極秘裏に動くわ……。おそらくは、私たちが昼間に遭遇したあの巨人ね」
「上位種の巨人、『アイン・ツュクロプ』ですか……。なるほど」
ライナスは状況を察し、おかしそうにフッと笑みを溢した。
「我々は図らずも、聖国最強の戦力がわざわざ対応に来るレベルの厄災を、先回りして屠ってしまったというわけですね」
ライナスは、自分たちが屠ったヴィルヘルが「国家対応規模の災害」であったという事実を知り、不謹慎ながらも少し笑いが込み上げてしまったのだ。




