第35話 儚かった希望
麦と葡萄の酒の街『セーフ・フィカコ』を後にして、一行を乗せた戦闘用馬車は、西へと伸びる荒野の街道を猛烈な速度で疾走していた。
どんよりとした厚い雲が天を覆い、そぼ降る小雨が車窓の視界を白く霞ませている。
先頭を引くのは、通常の馬の脚力に希少な神聖魔導結晶を使用した魔導具による、身体強化を施した『魔法補助馬』である。
聖都近郊にしか配備されていないこの馬車は、時速八十ライン(キロメートル)という、馬車としては驚異的な速度で未舗装の荒野を駆けるため、車内は絶えず激しい振動に見舞われていた。
しかし、頑強な魔力結晶内蔵サスペンションを備えた戦闘員用車両に乗る五人にとって、その程度の揺れは今さら苦になるものではない。
車内を満たしていたのは、馬車の振動音よりもはるかに重く、息苦しいほどの『沈黙』だった。
窓際に座るエリカは、流れていく荒涼とした景色をぼんやりと見つめたまま、一言も発さない。
身に纏う『月光石のローブ』の、少し黒みが差した月光石を、無意識のうちに何度も指先でなぞっている。
(……私は、ただの『可哀想な呪われた女』……ローブのおかげで悪霊が消えても、ライナスにとっては、いつまでも守るべき庇護対象でしかない……)
昨夜、酒場の二階のテラスで交わした言葉が、呪いのようにエリカの胸を締め付けていた。
勇気を振り絞って伸ばした指先……しかし、彼の大きな手はエリカを抱きしめることなく、冷たい手すりを握りしめていた。
一人の女性としての淡い期待は、海風と共に無惨に散ったのだ。
その純粋な失恋の痛みが、悪霊の殺意とは違う形で、彼女の心をどん底へと沈ませている。
一方、向かいの席で目を閉じているライナスもまた、心中は穏やかではなかった。
(……エリカ。私は貴女を愛して……いや……許されない。しかし、私は呪いで弱っている事に付け込んで、昨夜は手を触れようとまでしてしまった……。私は卑怯だ)
彼女のすべてを抱きしめ、愛し尽くしてしまいたいという男としての欲望。
しかし、九歳という年齢差と、「呪いで弱っている気持ちにつけ込む」という卑怯な振る舞いが、彼に『愛する人』として彼女に触れることを許さなかった。
そんな二人の間に横たわる、触れれば血が出そうなほどの張り詰めた気まずさを、他の三人が察していないわけがなかった。
「……おい。なんかエリカもライナスも、今朝からずっとお通夜みたいだぞ。昨日、テラスで何かあったのか?」
バハルが巨体を縮こまらせながら、隣に座るディオンに小声で耳打ちする。
「しっ。僕にも分からないけど……今はそっとしておいた方がいい。二人の間のことは、僕たちにはどうにもできないからね」
ディオンは険しい顔で首を振り、愛剣ヘルグリムの手入れをするふりをして視線を逸らした。
そのディオンの隣では、アルベローゼが珍しく大人しく座っている。
昨夜、酔っ払いから助けられた時に壁際で顔を近づけられ、「君は可愛いんだから」と叱られた記憶がフラッシュバックするたび、彼女の尖った耳の先がポンッと赤く染まった。
彼女は自分の動悸を誤魔化すように、『ネーベル・ヴィスペ』の手甲をキュッと締め直す。
やがて、窓から吹き込んでくる風の匂いが変わった。
乾いた土の匂いから、ヘドロのような粘り気のある悪臭へ。
「……そろそろ、目的地が近いわね」
エリカが静かに呟いた。
「臭っ……クセェなおい」
バハルが眉間に皺を寄せて顔を顰める。
小雨で霞む視界の先、地平線を覆い隠すように、どんよりとした紫がかった分厚い霧が立ち込めているのが見える。
次の目的地、魔毒沼に面した要塞都市『ズンプ・ブルク』を囲む天然の防壁――魔毒霧だ。
あの霧の向こう側に、唯一安全に沼を渡れる巨大な閘門と石橋が築かれているはずだった。
その時だった。
ヒヒィィィィンッ!!
魔法補助馬のいななきと共に、馬車が急ブレーキをかけ、全員の体が前に投げ出されそうになった。
「何事だ!?」
バハルが真っ先に扉を蹴り開け、外の様子を伺う。
車列の先頭が完全に停止していた。
荒野のただ中、ズンプ・ブルクへ続く街道を完全に塞ぐようにして、あり得ないほどの巨体を持った『影』が複数、地響きを立てて立ち塞がっていたのである。
「ヴィルヘルの群れか……!デカいぞ!」
ディオンが馬車から飛び降り、赤い瞳を鋭く細めた。
紫色の毒霧を背にして現れたのは、身の丈が五ガルイ(メートル)を超える巨人型のヴィルヘルたちだった。
灰緑色の岩肌のような皮膚を持ち、額に巨大な一つ目を爛々と輝かせる巨人――『トルグ・ブルート』の群れ。
通常は陽光を嫌い、谷底や河川沿いの夜陰に紛れて人間を狩る残忍な魔物だが、昼間の街道にこれほどの数が群れをなして現れるなど、前代未聞である。
さらに絶望的なことに、群れの中央には、一回り以上も巨大な七ガルイに迫る巨体が聳え立っていた。
トルグ・ブルートの上位種にして、暴力の化身。
額に巨大な単眼を宿す『アイン・ツュクロプ』である。
その手には、馬車を丸ごと叩き潰せるほどの大木が、棍棒代わりに握られていた。
「ギィルォォォォォォォッ!!」
アイン・ツュクロプの咆哮が大気を震わせる。
単眼巨人の極めて鋭い嗅覚と聴覚が、馬車に積まれた物資や人間の血の匂いを完全に捉えていた。
「来るぞ!後続の馬車を守れ!」
ディオンの号令と同時、五人は一斉に散開した。
しかしながら、想像を絶する強敵を前に、「戦闘員」として馬車に同乗していたはずの他の冒険者たちは、武器を捨てて悲鳴と共に散り散りに逃げ出してしまう。
その中には、馬車の中でディオンの肩に頭を乗せていた、あの露出の多い軽装の女戦士もいた。
その見掛け倒しの背中を見て、アルベローゼは忌々しげに舌打ちをする。
ズシンッ! ズシンッ!
地鳴りを上げて、三体のトルグ・ブルートが突進してくる。
その横で、逃げ散った冒険者たちへ向けて、アイン・ツュクロプの巨大な棍棒――――引き抜いた大木が無造作に薙ぎ払われた。
グチャァッ……!!
悲鳴を上げる間すらなかった。
数人の冒険者が瞬時にしてひしゃげ、ただの肉塊となって吹き飛ばされる。
あの女戦士も例外ではなかった。
上半身を完全に粉砕され、無残な下半身だけが血溜まりの中に転がっている。
つい先ほどまで生きていた他人の、あまりにもあっけない死……それを見たアルベローゼの胸が、冷水を浴びたようにキュッと締め付けられた。
「これ以上やらせねぇ!!」
バハルが前線に飛び出し、黒鋼の大盾を大地に突き立てる。
新調した『グラート・シュピンネの大鎧』が鈍い黒光りを放つ。
トルグ・ブルートが振り下ろした丸太のような腕が、大盾と肩当てに激突した。
ドゴォォォンッ!!
すさまじい衝撃波が荒野の土をクレーターのように吹き飛ばす。
だが、バハルは分厚い装甲の恩恵もあり、顔色一つ変えずにその巨弾を受け止めてみせた。
「ディオン!今だ!」
「分かってる!」
バハルの死角から、ディオンが電光石火の踏み込みを見せる。
即座に魔剣ヘルグリムの刀身に純粋魔力をまとわせる――――《マギ・アンベル・ヴェルン》がディオンの指先から流れるように展開した。
青白い閃光が、トルグ・ブルートの太い足首の腱を深く切り裂いた。
「グギャァッ!」
巨人が悲鳴を上げて片膝をつく……しかし――。
「チッ……!なんて再生力だ!」
ディオンが舌打ちする。
彼が切り裂いたはずの傷口から、灰緑色の肉芽が異常な速度で膨れ上がり、数秒と経たないうちに完全に傷が塞がってしまったのだ。
「アルベローゼ、ディオンを支援して!『魔炎の矢』をお願い」
エリカの指示が飛ぶ。
「オッケー!任せなさい!」
馬車の屋根に登っていたアルベローゼが、『黒魔樫の弓』を構える。
手甲の恩恵でしなやかに弦を引き絞る彼女の指先に番えられたのは、通常の矢ではない。
フェルゼン・ハフトで新調した多彩な特殊矢の一つ――先端に赤熱する魔導のルーンが仕込まれた『魔炎の矢』だ。
「燃えちゃえ!」
放たれた炎の矢が空気を焦がしながら直進し、トルグ・ブルートの再生したばかりの傷口へと深々と突き刺さる。
ボウッ! と強烈な炎が傷口を焼き焦がし、魔物の治癒能力を瞬時に無効化させた。
「ギャルォォォォォォッ!!」
同胞が炎に包まれるのを見た群れの長、アイン・ツュクロプの怒りが極限に達した。
巨人の額にある巨大な単眼に、周囲の大気から莫大な魔力が収束していく。
空気が歪むほどの熱量が、その一つ目に集束していた。
「マズいわ!魔力光線が来る……!」
エリカの警告が響く。
アイン・ツュクロプの単眼から、すべてを灰燼に帰す超高熱の魔力光が、非戦闘員が乗っている後続の馬車の列へ向けて一直線に放たれた。
あそこには幼い子どもを連れた家族連れも何人か居たはずだ。
「――《ルーメン・ストラール・リンゼル(環状聖光)》!」
最後方で戦況を見極めていたライナスが、『水の短聖杖』を高く掲げた。
おそろしい速度で展開された環状の神聖光が幾重にも連なり、強固な光の盾となって魔力光線と激突する。
ジジジジジィィィィッ!!
けたたましい魔力の反発音が響き、ライナスの足元の地面が熱で黒く焦げる。
しかし、『聖星のローブ』による魔力増幅を受けた彼の神聖魔法は、巨人の放つ必殺の光線を完全に逸らし、光線は虚しく分厚い雨雲を貫いた。
「助かったよ、兄さん!」
「まだです!敵の数が多い。このままではジリ貧になります!」
ライナスの言う通りだった。
倒しても倒しても、毒霧の奥から次々とトルグ・ブルートの増援が現れる。
その数はすでに十体に迫りつつあった。
「……私が、やるわ」
その時、エリカが戦闘馬車の影から前線へと進み出た。
手にした『雹雪木の杖』を強く握りしめ、緑色の瞳に決意の光を宿している。
(悪霊はもう居ない、今なら強い魔法でもいけるわ!)
今の彼女には『月光石のローブ』がある。
真珠色の波動が自分を守ってくれている。
これさえあれば、どれほど強大な魔法を行使しても、私は私のままでいられるはずだ。
そう……信じていた。
エリカは杖の先端にある蒼い輝石に、ありったけの魔力を注ぎ込む。
大気が悲鳴を上げ、彼女の周囲に超高密度の魔力場が形成された。
「下がって、みんな……ッ!」
エリカの警告に、前衛のバハルとディオンが一瞬で距離を取る。
エリカの唇から、冷徹な詠唱が紡がれた。
「《エメ・フラグメ・エレ(風・炎・衝撃)》」――第四位階の戦略級魔法。
杖の先端から、極大の熱波と圧縮された突風が同時に解き放たれる。
ゴォォォォォォォォッ!!
荒野を削り取るような凄まじい衝撃波がトルグ・ブルートの群れを次々と吹き飛ばし、それに続く巨大な火炎の渦が、巨人の再生能力ごとすべてを呑み込んで焼き尽くしていく。
最奥で巨大な棍棒を振り上げていたアイン・ツュクロプすらも、その圧倒的な破壊力の前に為す術なく、火ダルマとなって絶叫しながら炭化していった。
大地が黒く焼け焦げ、周囲にいた十体以上の巨人の群れは、わずか数秒で消し炭へと変わった。
圧巻の殲滅――戦略魔法の名に恥じない、絶大な威力だった。
だが――エリカの「本当の戦い」はここからだった。
(……あっ……な……何で?)
魔法を放ち終えた直後。エリカの脳髄に、ドス黒く、ヘドロのように粘り気のある『悪霊』の意思が、かつてないほどの質量で逆流してきた。
強大な魔法を行使したことによる代償……その反動は、これまでの比ではなかった。
――殺セ。
全部、燃ヤシ尽クシテシマエ。
そこニイル、愛シイ男の肉ヲ削イデ、臓物ヲ引キズリ出セ――臓物ヲ喰ラエ――。
「あぁ……っ、ぁぁぁっ!!」
エリカは杖を取り落とし、頭を抱えてその場にうずくまった。
視界が、急速に赤く染まっていく。
胸元にある『月光石』が殺意を抑え込んでくれない。
ピキッ……!
嫌な音が響いた。
エリカの胸元で、真珠色の輝きを放っていたはずの大きな月光石。
その中心に、墨を垂らしたような漆黒の濁りが一瞬にして広がり――。
パリーンッ!!
甲高い、硝子が砕けるような音が荒野に響き渡った。
強力な精神の安寧効果を誇っていたはずの月光石が、限界を超えた呪いの圧力に耐えきれず、粉々に砕け散ったのだ。
光を失ったローブは、ただの「綺麗な真珠色の布」へと成り下がってしまった。
「え……?」
エリカが絶望に目を見開いた瞬間、堰を切ったように、純粋で絶対的な「殺人衝動」が彼女の理性を完全に飲み込もうと襲いかかってきた。
(殺したい。殺したい殺……す殺す……ッ!)
エリカの右手が、狂ったように震えながら、腰に帯びた自殺用の『月光魔導の短剣』の柄へと無意識に伸びる。
仲間を殺すくらいなら、この喉を切り裂くしかない。
「エリカ!!」
風を切って駆け寄ってきたのは、ライナスだった。
彼は血相を変えてエリカの震える両手を押さえ込むと、背中から彼女を強く抱きすくめた。
杖を使わず自らの身体を魔導媒体にするのだ。
――命を削る行為だなどと言ってはいられない。
「――《メンゾ・コンティ・ハーティア(精神安定)》!!鎮まれ、お願いだから鎮まってくれ……!」
第三位階の精神干渉魔法が、全力でエリカの体に流し込まれる。
ライナスの必死の祈りと、全身を包み込む彼の温もり。
それが、ギリギリのところでエリカの意識を現実へと引き戻した。
ライナスが吐いた血がエリカの背を汚す。
赤い視界が、ゆっくりと元の色を取り戻していく。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
エリカはライナスの腕の中で、滝のような冷や汗を流しながら荒い息を吐いた。
自分の手は、しっかりとライナスの大きな手に握り込まれている。
だが、彼女の足元には、キラキラと虚しく光を反射する「砕け散った月光石の破片」が散乱していた。
ディオン、アルベローゼ、バハル。
駆け寄ってきた三人もまた、その光景を見て言葉を失っていた。
彼ら全員で何日もかけて稼いだ軍資金。
エリカを救うための、希望の象徴だったはずの高価な魔導具。
それが、たった一回の強大な魔法の反動で、こうもあっさりと物理的に砕け散ってしまったのだ。
「……嘘、だろ」
ディオンが震える声で呟く。
エリカの中に巣食う『悪霊』の呪い。
それは、人の作り出した魔導具の限界値など容易く超えてしまうほどに、強大で、深淵で、理不尽なものだったのだ。
その事実に、歴戦の仲間たち全員が、心の底から『戦慄』を覚えていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
エリカは、ライナスの腕の中でポロポロと涙をこぼした。
「せっかく、みんなが無理して……私のために、買ってくれたのに……。私……私、やっぱりバケモノなんだわ……」
「馬鹿なことを言うな!」
ディオンが鋭く叫び、エリカの前に膝をついた。
「石が砕けたことなんてどうでもいい!ローブが壊れたくらいなんだ!貴女が無事で、こうして僕たちの声が届いているなら、それで十分じゃないか!」
「ディオンの言う通りだよ、エリカ」
アルベローゼも涙ぐみながら、エリカの背中を優しくさする。
「こんな石ころに頼らなくたって、ライナスがいて、私たちもいるじゃない。それに、聖図書館はもうすぐなんだから……」
「……皆……」
エリカは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、仲間たちの優しさに胸を締め付けられた。
ライナスもまた、己の身の危険を顧みず、自らの身体を魔導媒体にするなどという禁忌の術を使ってまで、自分を救ってくれたのだ。
再びライナスが血を吐いて、バハルが彼の身体を支えた。
(この人たちを、絶対に傷つけたくない。……この呪いを、一刻も早く解かなければ)
エリカは震える足で立ち上がろうとしたが、力がもたず、横からアルベローゼに支えられた。
「また、あの時と一緒……立てないんでしょ?ライナスもね!……バハル!ライナス背負って!エリカは私が……じゃなくて、ディオン!エリカ背負って!絶対に変なところ触らないでよ!」
「触るわけないだろう」
ディオンがやれやれと苦笑し、そのやり取りに、張り詰めていた空気がふっと緩んで皆が笑った。
「バハル、血が付きます……」
ライナスの呟きにバハルが笑う。
「喋れるんなら大丈夫そうだな。気にするなライナス、ちょっと街まで寝といていいぜ……俺の背中でだがな」
紫色の魔毒霧の向こう側に、不気味な威容を誇る『ズンプ・ブルク』の巨大な閘門と城壁が、冷たい小雨の中、霞んで見えていた。
悪霊の力の底知れなさに戦慄しながらも、五人の絆はより一層固く結ばれ、次なる街へとその歩みを進めていくのだった。




