第34話 海風に消える想い
大運河の街『アクア・フェリス』へと向かう道中、一行を乗せた戦闘用馬車は、西日を背に受けながら、潮の香りが色濃く漂う石畳の街道へと滑り込んだ。
麦と葡萄の酒の街――『セーフ・フィカコ』である。
馬車の窓から顔を出したアルベローゼが、鈴を転がしたような可愛らしい歓声を上げた。
「わあ……!見て、海よ!すっごく広い!」
視界の先には、どこまでも続く群青色の海原が広がっていた。
しかし、その海の色は陽光を反射する美しさよりも、底知れぬ深淵を思わせる暗く重い色を湛えている。
街の建築物は、強い潮風と魔物の襲撃に耐えるためか白亜の堅牢な石造りが多く、
屋根には鮮やかな瑠璃色の石瓦が葺かれている。
街の至る所から、芳醇な葡萄の甘酸っぱい香りと、黄金色の麦を焙煎する香ばしい匂いが漂い、死闘を潜り抜けてきた旅人たちの鼻腔を否応なしにくすぐった。
「活気のある街だな。だが……これだけでかい港町なのに、海に船が一隻も停泊してねぇのはどういうわけだ?」
バハルが馬車から降り立ち、巨体を揺らしながら不思議そうに首を傾げた。
彼の言う通り、海に面した広大な防波堤には、漁船はおろか小さな小舟すら見当たらない。
ライナスが馬車から降り、潮風に銀の長髪を揺らしながら静かに答えた。
「バハルの船の知識は本などで得たものでしょう?海は、極めて凶悪な『海洋性ヴィルヘル』の巣窟なのです。超大型がうようよと泳いでおり、船を出せば数分で木端微塵に砕かれます。海のヴィルヘルに対する有効な手段を持っていて、海に船を出せるのは蒼海連邦『マリノ・ガルド』くらいですよ」
「なるほどな。じゃあ、あの防波堤に並んでる連中は一体何をしてるんだ?」
バハルの視線の先、高さ二十ガルイはあろうかという巨大な防波堤の上には、褐色の肌に銀髪や紫の髪を持った人々がずらりと並んでいた。
彼らは森のエルフとは異なる、海に近い森を好む種族――『ダークエルフ』たちだ。
彼らの手には、少し太い特殊な釣竿が握られており、魔力で強化されたワイヤーのような釣り糸を、遥か眼下の荒れ狂う海へと投げ込んでいる。
「あれが、セーフ・フィカコ名物の『陸釣り』です。ダークエルフたちは持ち前の強靭な魔力で釣り竿と糸を強化し、防波堤の上から食用の魚を直接釣り上げているのです。この街の料理が魚中心なのはそのためですよ。釣り針で釣れるヴィルヘルなど居ませんしね」
その時、防波堤の上で一人のダークエルフが「かかったぞ!」と野太い声を上げた。
数人がかりで魔力を込めて引き上げられたのは、全長三ガルイを超える、鋭い牙を持った銀鱗の巨大魚だった。
ズンッ! と防波堤に叩きつけられた巨大魚を前に、街の人々が歓声を上げる。
「す、すごい迫力ね……」
エリカが目を丸くして呟くと、横で見ていたディオンのお腹が、グゥゥと盛大な音を立てた。
「……もう限界だ。連戦の疲れで腹が背中とくっつきそうだよ。エリカ、早く宿を見つけて食事にしないかい?」
ディオンの提案に、反対する者は誰もいなかった。
フェルゼン・ハフトからの長距離移動と、ここに着くまでの連戦……。
彼らの心身は、食事と休息を渇望していたのだ。
その夜。
ダークエルフたちが集う大衆酒場『黒真珠の杯亭』は、爆発的な熱気と喧騒に包まれていた。
一行が案内された広い円卓には、これでもかとばかりにセーフ・フィカコの海の幸と美酒が並べられている。
「ガハハハッ!この『海サソリの丸焼き』、絶品だぜ!甲殻の中に詰まった身が、とにかくうめぇ!」
バハルが大ジョッキになみなみと注がれた青緑色のダークエルフ・エールを水のように煽り、自らの顔よりも大きな海サソリのハサミを豪快に噛み砕いている。
その横で、アルベローゼは頬を真っ赤に染めながら、エメラルドのように透き通ったダークエルフ・ワインのグラスをドンとテーブルに叩きつけていた。
彼女はすでにかなりの量の緑色の甘口ワインを飲んでおり、エルフ特有の尖った耳の先まで真っ赤になっている。
その不満げな視線は、向かいの席で黙々と魚の骨を外しているディオンに、チラチラと向けられていた。
「……ディオン。あんた、さっきから全然お酒飲んでないじゃない」
アルベローゼが、少し呂律の回らない声で不満げに唇を尖らせた。
「俺はいいよ。あまり飲むと悪霊の反動があるんだ。それに……僕はこれくらいで十分飲んでいるよ」
ディオンは苦笑しながら、丁寧に骨を外した白身魚のソテーを、スッとアルベローゼの皿に取り分けた。
「ほら、アルベローゼ。海の魚なんてなかなか食べれないもんな、これ美味しかったんだ。食べてみてよ」
まるで幼児の世話でも焼くようなその態度に、アルベローゼの胸の奥で、甘いワインの酔いとは違う、チリチリとした不満の炎が燃え上がった。
(……いつもそう。ディオンは私のこと、手のかかる妹としか見てないんだから……!)
今日だって、彼に少しでも可愛いと思われたくて、髪型をめずらしくポニーテールにしてみたのに、ディオンの視線は常に「周囲の警戒」ばかりに向いている。
アルベローゼはムッとしてワインをあおった。
「……別に、ディオンに世話焼かれなくたって一人で食べられるもん」
アルベローゼは立ち上がると、フラフラとした足取りで酒場の奥のカウンターへと向かった。
「あ、おい! どこ行くんだよ!」
「デザートもらいに行くの!放っておいて!」
カウンターでは、ダークエルフの料理人たちが、見事なクッキング・マギ(魔導調理ショー)を披露していた。
氷の魔法を繊細に操り、甘い牛乳と果汁を空中で瞬時に凍らせて滑らかな『フリマ・クレーマ(アイスクリーム)』を練り上げている。
さらに別の職人は、風の魔法で熱せられた砂糖を空中に舞わせ、まるで飛竜のように精巧な『ツッカー・グラス(飴菓子)』を瞬く間に紡ぎ出していた。
「うわぁ……きれい……」
酔ったアルベローゼが、空を舞う飴細工の飛竜に見惚れて、フラリとバランスを崩した。
「おっと、危ねえよ嬢ちゃん」
カウンターの横で飲んでいた軽薄なダークエルフのスカウト(エルフに多い軽武装の偵察役)が、ニヤニヤと笑いながら彼女の細い腰を抱き寄せ、あまつさえ、卑しい手をスカートの中にまで伸ばした――その瞬間。
パシッ!
その指先がアルベローゼのスカートの中に触れる寸前、横から伸びてきた黒鋼の小手で覆われた手が、男の手首を万力のようにガッチリと掴んで止めた。
「……悪いな。うちの連れが酔ってるみたいで。……だからといって、気安く触らないでもらえるか」
低く、底冷えのするような声。
いつの間にかアルベローゼの背後に立っていたディオンが、切れ長の赤い瞳でダークエルフの男を鋭く射抜いていた。
その眼光からは、数多のヴィルヘルを屠ってきた歴戦の剣士特有の、研ぎ澄まされた純粋な殺気が微かに漏れ出ている。
言葉以上の圧……ダークエルフの男には、ディオンが底知れぬ冷徹な声で『斬るぞ』と呟いたように錯覚した。
この剣士は只者ではない……機嫌を損ねれば、間違いなくここで斬り捨てられる。
剣を抜いていないはずのこの剣士から、剣気すら感じる。
「お、おお……すまねえ。この手は……別に変な気はなかったんだ」
冷や汗を流した男がタジタジと引き下がると、ディオンは無言のままアルベローゼの細い手首を掴み、無理やり仲間のいる円卓の方向へと歩き出した。
「ちょっと、ディオン……! 引っ張らないでよ!」
「バカ言え。こんな荒くれ者が多い港町で、隙だらけでフラフラ歩く奴があるか」
円卓から少し離れた薄暗い柱の陰で、ディオンは抵抗するアルベローゼを壁に押し付けるようにして立ち止まった。
ドサッ、と背中が石壁に当たる。ディオンの端正な顔が、アルベローゼの目の前、鼻先が触れそうなほどの至近距離にあった。
「……っ!」
アルベローゼの心臓が、早鐘のように激しく跳ねた。
彼の銀がかった蒼髪の隙間から覗く赤い瞳が、ひどく怒っているような、それでいて焦燥に駆られたような熱を帯びて彼女を見下ろしている。
「あのな、アルベローゼ……。君は可愛いんだから、もう少し自覚を持て。……僕が居なかったら、今日だってどこを触られてたか分からないんだぞ」
「なっ……!か、かわい、って……」
アルベローゼの顔が、尖った耳の先はおろか首筋まで一気に沸騰したように赤く染まった。
(なに、いきなり……!昔からそんなこと言ったことないのに!)
混乱するアルベローゼの手を、ディオンがそっと取った。
弓の弦を幾度も引き絞り、硬い弓タコができているエルフの華奢な手。
ディオンはその指先を、まるで壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
「さあ、行くぞ……とにかく無事で良かったよ……」
ディオンはそう言って、彼女の手をしっかりと握りしめる。
それは夫が妻を他の男から警戒するかのような、不器用すぎる愛情表現だった。
(……ズルい。そんな顔されたら、怒れないじゃない……)
アルベローゼは泣きそうになるのを必死に堪え、彼に握られていない方の手で、ディオンの蒼い髪をクシャリと撫でた。
「……ディオンのバカ……」
「えっ?どうした?」
「そういうところがバカなのよ!」
心臓が破裂しそうなほどの動悸を隠すため、アルベローゼはツンとそっぽを向いたが、ディオンに握られた手だけは、決して離そうとはしなかった。
互いに命を預け合う戦友であり、大切な幼馴染。
『可愛い幼馴染を守りたい男』と『自分の熱い感情の正体に気が付かない女』。
二人の心は、すれ違いながらも、確実に甘い熱を帯びて絡み合っていた。
その頃、酒場の熱狂から逃れるように、エリカは一人、夜風の吹き抜ける二階のテラスへと出ていた。
眼下には、月光を反射して銀色に輝く波間と、防波堤で揺れる釣り人たちの魔導ランタンの光が見える。
ザザーッという潮騒の音が、心地よく闇夜に響き渡っている。
(……不思議。頭の中が、本当に静かだわ)
エリカは、身に纏った『月光石のローブ』の胸元をそっと押さえた。
淡い真珠色の布地が放つ精神安寧の波動が、常に彼女の脳髄にへばりついていた「殺意」の疼きを、深い深い海の底へと鎮めてくれている。
悪霊の幻聴も、血の匂いを求める狂気も、今は微塵も感じない。
まるで、自分がただの「年相応の少女」に戻れたような、奇跡のような時間だった。
「エリカ。こんなところにいたのですね。夜風で身体が冷えますよ」
背後から、穏やかで落ち着いた声が響いた。
振り返ると、銀の長髪をテラスの潮風に揺らしたライナスが立っていた。
彼の整った顔には、珍しく微かな朱が差している。
バハルのペースに巻き込まれて緑色の果実酒を随分と飲まされていたため、普段の完璧な仮面が、少しだけ緩んでいた。
「ライナス……。ふふ、あなたもお酒から逃げてきたの?」
「ええ、少し酔いを冷まそうかと。……ほら、これ」
ライナスが差し出したのは、ガラスの器に乗った、蒼く透き通る『フリマ・クレーマ(アイスクリーム)』だった。
ダークエルフの魔法調理で作られたそれは、微かにミントと柑橘の香りを放ち、青白い魔力の光を帯びて星のように輝いている。
「わあ……綺麗……。ありがとう、ライナス」
エリカは氷菓子を受け取ると、木のスプーンで一口掬って口に運んだ。
ひんやりとした甘さと、爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい……。なんだか、夢みたい。こんなに穏やかな気持ちで夜の海を見ているなんて、子供の頃以来かもしれないわ」
エリカがテラスの手すりに寄りかかり、月光に照らされて微笑む。
風に揺れる銀がかった金髪……その横顔は儚く、透き通るように美しい、一人の女性の顔だった。
ライナスは、手すりに寄りかかるエリカの隣に並び立ち、彼女の横顔を痛切な眼差しで見つめていた。
(……なんて、美しいのだろう。あなたは本来、悪霊などに苛まれずに、こうして穏やかに笑って生きるべき女性なのだ)
アルコールで自制心が緩んでいるせいか、ライナスの胸の奥で、幾重にも施した封印の鎖で縛り付けてきた「エリカへの恋慕」が、音を立てて暴れ出そうとしていた。
(今、この手であなたを抱き寄せたら、あなたはどう思うのでしょうか……?)
「……ライナス?」
視線に気づいたエリカが、小首を傾げて彼を見上げる。
微かに酔いを帯びた彼女の緑色の瞳は潤み、甘い吐息がライナスの鼻腔をくすぐった。
(……今なら。殺意に苛まれていない今の私なら、彼に触れてもいいの……?好きと言うのが許されるのかしら……)
エリカの心臓が、痛いほど高鳴る。
彼女は、まるで月明かりに引かれるように、ゆっくりとライナスへと一歩近づいた。
二人の距離が縮まる。
葡萄の酒の甘い香りと、ライナスが纏う香りが混ざり合う。
エリカの震える白い指先が、そっと、ライナスの『聖星のローブ』の袖口を掴んだ。
「ねえ、ライナス……。私、もう悪霊を感じないの……」
もう少しだけ、近づきたい。
あなたのその大きな腕で強く抱きしめてほしい。
エリカの潤んだ瞳が、哀願するようにライナスを見つめる。
「たいしたものですね……。月光石のローブとは……」
ライナスの呟きはエリカにしか聞こえない。
(……このまま、彼女の細い腰を抱き寄せて、その唇を……いいえ、それは許されません)
ライナスの内側に潜む男としての獰猛な独占欲と、エリカを仲間として尊重する自制心のせめぎ合い。
彼とて聖人ではない……三十歳の、血の通った男なのだ。
九つも年下の、彼にとってはこの世で誰よりも愛しく……誰よりも守りたいと願う美しい少女が、潤んだ瞳で自分を見つめている。
今ここで彼女を抱きしめてしまえば、どれほど幸福だろうか。
彼女のすべてを……甘く、深く、狂うほどに愛してしまいたい。
――しかし。
(だめだ……!)
ライナスは、奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。
(私は……九つも年上だ。それなのに、彼女の『悪霊に苛まれている』という弱みにつけ込んで、彼女を自分のものにしようとしている……私はなんと浅ましい罪人なのだ)
彼女を愛しているからこそ、彼女の尊厳を守らなければならない。
彼女が悪霊に怯えずに生きられる世界を取り戻すその日まで、自分は絶対に、彼女を「恋人」として抱きしめてはならないのだ。
そして、エリカが悪霊の呪縛から解放された時、彼女は初めて自由に恋愛を楽しむはずだ。
――その相手は決して、九つも年上のしがない神父ではない。
ライナスの震える手が、ゆっくりと持ち上がった。
エリカは、彼が自分を抱きしめてくれるのだと期待し、ふっと目を閉じた。
しかし。
ライナスの大きな手は、エリカの腰には回らず、港の古びた手すりを掴んで終わった。
「……え?」
エリカが目を開けると、ライナスはいつもの、完璧で隙のない優しい微笑みを浮かべていた。
「ええ。あなたはバケモノなんかではありません。今後は、悪霊に苛まれずに済みそうですね。ディオンにも同等の装備を探したいところです」
その言葉は、エリカの望むものとは程遠い絶望だった。
「あ……」
エリカの手から、力が抜ける。
掴んでいたライナスの袖が、スルリと指先からこぼれ落ちた。
(……そうよね。彼にとって私は、いつまでも『悪霊に苛まれる可哀想な少女』で……罪悪感の対象でしかないんだわ。……私みたいな呪われた女が、一人の女として見てもらえるわけないじゃない……私は……こんなに好きなのに)
エリカは、胸の奥が氷のように冷たくなるのを感じた。
悪霊の殺意とは違う、胸を締め付けられるような、純粋な失恋の痛み。
「……そうね。ありがとう」
エリカは、無理に唇の端を引き上げて、最高に作り物の笑顔を浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、ライナスの胸もまた、千のナイフで抉られたように激しく痛んだ。
(……エリカ。美しい……私はエリカが好きなのだろう……。しかし、そんな邪心は生涯気が付かれてはなりません……)
本当は、今すぐその細い体を壊れるほど抱きしめたい。
世界中の誰よりも、愛していると叫びたい。
しかし、ライナスは己の手を固く握りしめ、ただ月明かりの下で海を見て立ち尽くすことしかできなかった。
唸る海原の波音が、悪霊を抑え込んだエリカに生まれた希望を、ただ無情に掻き消していた。




